第7話 紙の上の空白

602号室へ戻ると、玄関の照明が点いていた。
出るときに消したはずだった。私は靴を脱ぐ前に、スイッチの位置を見た。壁紙の継ぎ目、靴箱の角、ドアチェーンの影。どれも見慣れた形をしている。けれど、部屋の中だけが、誰かに先に使われたあとのように静かだった。
私はすぐには入らなかった。
石田から渡された相談記録の控えを鞄の中で確かめる。透明なファイルの角が、手のひらに固い。高見沢から受け取った音声データはスマートフォンに保存してある。村瀬の言葉は、記録にはできないまま、頭の中に残っていた。
自分の名前を、ちゃんと覚えているうちはね。
鍵を回すと、ドアの向こうから紙の匂いが流れてきた。外の冷たい空気とは違う、湿った壁紙と古い帳面を混ぜたような匂いだった。
私は部屋へ入り、鍵を二度確認した。チェーンもかける。いつもの手順だった。いつもなら、その確認を終えれば少しだけ肩の力が抜ける。今夜は逆だった。手順を終えた瞬間、何かの準備が整ったように感じた。
冷蔵庫の脇で、カレンダーがわずかに揺れている。
窓は閉まっていた。換気扇も止めている。それでも紙の下端だけが、呼吸のようにゆっくり動いていた。
黒丸は増えていなかった。
私はそれを見て、最初に安堵した。次に、その安堵が自分の中のどこから出てきたのか分からなくなった。印が増えないことを望むのは、印があることを認めることと同じだった。私はカレンダーから目を逸らし、机の上へ鞄を置いた。
控えの紙を取り出す。
石田が書いた相談内容。佐伯修一の名前。二年前の六月。夜間の紙音。先に埋まっている予定。取り下げの電話。部屋の中は整った。予定も、順番も、次の方へ渡せる。
その一文を見たとき、頭の奥で何かが擦れた。
次の方。
私は椅子に座り、手帳を開いた。黒丸の日付を並べたページの隣に、見覚えのない走り書きがある。細い鉛筆の線で、ひらがなが二文字。
なお。
前に見つけた紙片の文字と同じだった。幼い字。丸みがあり、最後の払いだけが途中で止まっている。私は自分の名前を指でなぞった。紙の表面は乾いているのに、その部分だけ冷たかった。
どこで、この字を覚えたのだろう。
母に聞いたことがある。幼い頃の私は、名前を書くのが好きだったらしい。何度も紙へ書き、冷蔵庫や壁に貼った。けれど、どこに住んでいた頃の話なのか、母はいつも話を濁した。
実家の間取りを思い出そうとすると、台所の窓と、狭い廊下だけが浮かぶ。洗剤の匂い。冷たい床。夜になると聞こえた換気扇の音。どれも自分の記憶だと思っていた。
けれど今、その匂いは602号室の中にある。
私は立ち上がり、壁紙の剥がし跡へ向かった。以前、端を少しめくったままにしていた場所だ。紙の端は乾いていたが、下から覗く鉛筆の線は消えていない。爪を立てる。湿った壁紙が指先へ吸いついた。
剥がすと、古い壁が現れた。
薄い灰色の線が、何本も重なっている。日付。丸印。短い言葉。誰かが紙の裏へ書き、さらにその上から壁紙を貼ったのだろう。書かれたものは、剥がすたびに現れた。
六月三日。 六月十日。 六月十七日。
その横に、黒い丸。
私は息を止めた。
日付の並びは、今のカレンダーと同じだった。七日おき。だが、もっと古い紙の上には、印の横に小さな文字が添えられている。
みる。 まつ。 わたす。
子どもの字だった。
私はスマートフォンを落としそうになった。写真を撮ろうとして、手が止まる。記録しなければならない。そう思う一方で、これ以上残せば、この部屋の中に自分の居場所を作ることになる気がした。
それでもシャッターを押した。
撮影した画面に、壁の文字が映る。だが写真の中では、三つ目の言葉だけが黒く潰れていた。実際には読めるのに、画面上では丸い染みになっている。
私は何度も撮り直した。
同じだった。
そのとき、隣の壁から音がした。
紙を押さえる音。
ぱさり。
高見沢が録音した音と同じだった。壁の向こう、603号室との境目から、薄い紙を指で撫でるような音が聞こえる。私は壁へ耳をつけた。冷たさが頬へ染みた。
誰かが、こちら側の壁を挟んで息をしている。
音のあとに、男の声がした。
低く、掠れている。
「……まだ、書いていない」
私は耳を離した。
「高見沢さん?」
返事はない。
603号室の生活音も途切れていた。モニターの冷却ファンも、冷蔵庫の唸りも聞こえない。マンション全体から音が抜け、部屋の中には自分の呼吸だけが残った。
私は壁紙をさらに剥がした。
下から、古いカレンダーの切れ端が現れた。紙の端は茶色く変色し、何度も貼り直された跡がある。そこには大人の字で、細かな記録が並んでいた。
六月三日 二十時〇三分 見た 六月十日 二十時〇三分 聞いた 六月十七日 二十時〇三分 子どもが印を付けた
最後の一行だけ、筆圧が乱れている。
私は文字の上へ指を置いた。
子ども。

その言葉を見た瞬間、頭の奥で何かが弾けた。
白い冷蔵庫。床に座った小さな膝。黒いボールペンを握った手。隣で誰かが、紙の位置を直している。男の声がする。
「丸は、日付の上じゃない。余白に付けるんだ」
私は目を閉じた。
「どうして?」
幼い自分の声だった。
「そこに付けると、次の人にも分かるから」
「次の人って、誰?」
男はすぐには答えなかった。紙を押さえる指が、かすかに震えていた。
「まだ決まっていない人だよ」
目を開けると、壁紙の前に自分が立っていた。指先が黒く汚れている。いつ触れたのか分からない。爪の間に、湿った煤のようなものが入り込んでいた。
私は洗面所へ行き、蛇口をひねった。水の音が狭い空間に広がる。黒はすぐには落ちなかった。何度も石鹸をつけ、指の腹を擦る。皮膚が赤くなっても、黒い点だけが残った。
鏡を見る。
そこに映った顔は、疲れて、青白かった。けれど目元だけが、知らない子どものものに見えた。泣いたあと、何かを必死に忘れようとしている目。
私は鏡へ手を伸ばしかけ、やめた。
忘れたのではない。
忘れさせられたのでもない。
自分で、忘れることを選んだのかもしれない。
部屋へ戻ると、机の上の手帳が開いていた。
風はない。
ページの中央に、先ほどまでなかった文章が書かれていた。
――なおは、もう見た。
私は息を吸った。字は幼い。だが、完全に子どもの字ではなかった。「なお」の二文字だけが小さく、その下の線は大人の筆圧で引かれている。誰かが子どもの文字をなぞり、その続きを書いたように見えた。
私は手帳を閉じようとした。
閉じる前に、ページの隅へ視線が止まる。
古い日付の欄が、最初から埋まっていた。日付の横に、黒丸がひとつ。その下に、見覚えのない名字が書かれている。
三枝。
私は指で文字をなぞった。
その下には、別の名前が薄く消されていた。何度も擦られた紙の凹みだけが残っている。読めない。けれど、最後の一文字だけは判別できた。
――子。
奈緒ではない名前。
私は椅子に座り、手帳を膝へ置いた。自分の名前が、紙の上で誰かに場所を譲っている。三枝奈緒という名前は、私が生まれたときから持っていたものではない。そう考えたことは一度もなかった。
だが、考えなかったことと、事実でないことは違う。
冷蔵庫のモーターが動き出した。低い唸りが部屋を満たす。換気扇の奥から、紙をめくる音がする。
ぱさり。
私はカレンダーの前へ戻った。
黒丸は、五つのままだった。そのうち、最も新しい丸だけが少し大きく、中心に指先ほどの窪みがある。私はその形を見つめた。見覚えがある。
幼い頃の自分が、何度も押しつけた丸。
私は手帳から細字ボールペンを取り出した。握った瞬間、軸の傷が指に馴染んだ。新しく買ったはずのペンなのに、手が持ち方を知っている。
カレンダーの白い余白へ、ペン先を近づける。
触れる前に、壁の向こうから声がした。
「次の人に、渡さないで」
今度の声は、男のものではなかった。
幼い女の子の声だった。
私はペン先を止めた。
その声が自分のものだと、認めるまでに時間はかからなかった。認めたくないという抵抗だけが、長く残った。
私は手帳を開き、空白のページへ書いた。
黒丸は、誰かの予定ではない。 黒丸は、見た人を次にする。
書き終えたとき、紙の上に小さな黒い点が落ちた。
インクではなかった。
ページの中央で、点はゆっくり広がり、丸になった。
その下に、私の手ではない字が浮かび上がる。
――おかえり、なお。
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