第6話 相談記録の空白

交番へ向かう道の途中で、私は何度も立ち止まりそうになった。
駅前の歩道には、仕事帰りの人が流れていた。濡れた傘の先が触れ合い、コンビニの自動ドアが開くたび、揚げ物の油と温められた弁当の匂いが風に混じる。誰もが自分の帰る場所を知っているように歩いている。私だけが、帰宅するという動作の中に、何か別の手順が隠されている気がしていた。
鞄の中には、佐伯修一の名前が印字された控え、黒丸の写真、蓮から受け取った録音データのコピー、それから朝の郵便受けに入っていた不在票が入っている。紙が重なっているだけなのに、鞄の底がひどく冷たく感じられた。
交番のガラス戸を開けると、蛍光灯の白さが目に刺さった。
石田裕也は机に向かい、書類の端を揃えていた。胸ポケットのペンを一本ずつ抜き、長さを確かめてから戻している。私に気づくと、すぐには立ち上がらず、手元の紙を一度伏せた。
「三枝さん。お帰りのところですか」
「はい。でも、少しだけ相談してもいいですか」
「もちろんです。座ってください」
石田は来客用の椅子を引いた。私は腰を下ろし、鞄から手帳を出した。ページを開く前に、何を書くのかを頭の中で並べようとした。黒丸。郵便物の順番。部屋の中で動く物。蓮の録音。点検予定。けれど、どれも一つの出来事として説明できる形にはならない。
私はそれを、説明できないまま話した。
石田は口を挟まなかった。相槌を打ちそうになるたび、手元の用紙へ短い文字を書き込んだ。聞きながら書くというより、書くことで私の言葉がその場から逃げないように押さえているようだった。
「黒丸が付いている日だけ、郵便受けの中身が同じ順番になるんです。チラシが二枚、その下に管理会社の封筒、最後に不在票。紙質も差出人も違うのに、折れ方まで似ている。偶然で済ませるには、繰り返しが多すぎます」
「不在票の宛名は、毎回同じですか」
「最初は佐伯修一さんでした。その次は空欄。今朝のものも空欄です。でも、部屋番号は602号室になっていました」
「配達員の方へ、確認はされましたか」
「まだです。管理会社にも連絡しましたが、カレンダーの印については記録がないと言われました。佐伯さんの退去についても、通常の手続きとして処理されている、と」
石田は紙の端を押さえたまま、視線を落としていた。
「高見沢さんの録音には、何が入っていましたか」
「紙をめくる音と、郵便受けの口金が開く音です。深夜、誰も廊下にいない時間に。あと、私の名前に聞こえる声が」
「名前を呼ばれた、と断定できますか」
「できません。でも、蓮さんも聞いています。私だけの聞き間違いではないです」
「そうですか」
「石田さんは、私が聞き間違えていると思いますか」
「思っているわけではありません。ただ、記録に書くときは、聞こえたことと、確認できたことを分けます。三枝さんがそう聞いたことは、事実として書けます。声が本当にお名前を呼んだかは、別に確認が必要です」
「確認できなければ、なかったことになるんですか」
「なりません。確認できないことと、起きていないことは同じではないです」
石田はそこでペンを置いた。声は穏やかだったが、その言葉だけは迷いがなかった。
「ただ、確認できないまま記録を作ると、あとから別の人間に都合よく書き替えられることがあります。だから、私はできるだけ、誰が、いつ、何を見聞きしたかを分けて残します。記録というのは、真実をそのまま保存する箱ではありません。誰かの見たものを、誰かの判断で並べたものです。だからこそ、並べ方の癖や、抜けている部分を見なければならない」
「佐伯さんの記録にも、抜けている部分があるんですか」
石田は一度、私の顔を見た。それから机の脇に置かれた薄いファイルへ手を伸ばした。
「少しだけ、見せます。ただし、ここにあるものがすべてではありません。失踪届が出ている人ではないので、正式な捜索記録ではないんです。以前、近隣住民からの相談として受けたものと、管理会社からの連絡、それから私が個人的に控えた部分です」
「失踪届がないのに、どうして相談記録があるんですか」
「佐伯さん本人が、一度来ているからです」
ファイルが開かれた。
紙の匂いがした。交番特有の乾いた空気の中で、古い帳票だけが湿気を含んでいる。石田は何枚かを飛ばし、日付の並んだ欄を指で押さえた。
「最初の相談は、二年前の六月です。内容は、夜間に廊下で人の気配がする。部屋の前で紙をめくる音がする。郵便受けに、宛名のない不在票が入る。ここまでは、騒音や不審物として処理できます」
「その次は」
「三か月後。内容が少し変わっています」
石田は記録を読み上げた。
「『自分が予定を書き込む前に、予定が埋まっている。書いた覚えのない丸印が、毎週同じ位置に現れる。丸を消すと、翌日には別の紙に同じ印がある』」
私は息を吸った。胸の内側へ冷たい紙を差し込まれたようだった。
「それ、私の部屋で起きていることと同じです」
「似ています」
「似ているだけじゃありません」
「分かっています」
石田は私の言葉を遮らずに受け止めた。そのあとで、記録の下部を指した。
「ただ、ここから先が不自然なんです。相談の翌日、佐伯さんから電話があったと記録されています。『昨夜の話は取り下げる。勘違いだった』と」
「佐伯さん本人が?」
「記録上は、そうなっています」
「声を聞いたんですか」
「はい。私が受けました」
「本人だと分かりましたか」
「名前と部屋番号を確認しただけです。声の照合まではしていません」
石田はそこで一度、言葉を切った。交番の外を自転車が通り、濡れたタイヤが路面を擦る音がした。
「ただ、その電話の内容には妙なところがありました。佐伯さんは、相談を取り下げる理由を説明しなかった。何度か尋ねても、『もう整いましたから』とだけ言ったんです」
「整った?」
「はい。『部屋の中は整いました。予定も、順番も、次の方へ渡せます』。そう言っていました」
次の方。
その言葉が、部屋の冷蔵庫脇に貼られたカレンダーと重なった。
「石田さんは、そのとき何を思ったんですか」
「正直に言うと、精神的に不安定な状態なのかと思いました。独居の方でしたし、睡眠不足や仕事のストレスもあったでしょう。ですが、相談を受けた以上、簡単に『気のせい』とは書きたくなかった。私は一度、602号室の前まで行っています」
「部屋の前に?」
「昼間です。佐伯さんから電話があった日の午後に、巡回のついでに寄りました。玄関前に異常はありませんでした。郵便受けも閉じていた。だから、そこで帰りました」
「夜は見に行かなかったんですか」
「行けませんでした」
石田の声がわずかに低くなった。
「勤務の都合です。別件の通報が重なっていた。今思えば、夜に行くべきだったのかもしれません。でも、記録上は緊急性がない。本人が相談を取り下げている。そう判断しました」
「その判断を、今も正しいと思いますか」
石田はすぐに答えなかった。
「正しかったかどうかは、今も決められません。ただ、あのとき私が見たのは、昼間の602号室だけです。夜の部屋を見ていないのに、昼間の記録だけで終わらせた。そのことは、ずっと引っかかっています」
彼の机の端に、古い手帳が置かれていた。表紙には細かな擦り傷があり、角が丸くなっている。石田はその手帳を開き、当時の巡回時刻を確認した。日付を何度も確かめる癖が、指先に出ていた。
「ここを見てください」
差し出されたページには、佐伯の相談日と巡回時刻が並んでいた。
二十一時十二分。 二十二時〇五分。 二十三時四十八分。
その間に、602号室の前を通った記録はなかった。だが、別の欄に、同じ日の二十三時五十一分、ヴェルデ桜台のオートロックが作動したとある。
「この時間、佐伯さんは外へ出たんですか」
「履歴だけでは分かりません。エントランスの開閉記録です。住人の鍵か、管理用のカードか、宅配業者のものかまでは、この古い機械では判別できない」
「でも、誰かが出入りした」
「そうなります」
「それなら、部屋の前まで見に行けばよかった」
「そうです」
石田は否定しなかった。責任を回避するための言葉を探しているようには見えなかった。むしろ、自分の手元へ戻ってきた古い失敗を、紙の上で確かめているようだった。
「翌朝の記録はありますか」
「あります。ただし、ここに空白があります」
石田が指した欄には、二十三時五十一分の次に、翌朝の八時二十分が記されていた。そこには、東栄ライフサポートの担当者が602号室へ入室したとある。設備点検。異常なし。住人不在。退去手続きへ移行。
「待ってください。佐伯さんは、いつ退去届を出したんですか」
「その朝です」

「本人が?」
「管理会社の記録では、本人の署名があります」
「でも、夜に出入りした記録のあと、朝には住人不在になっている」
「はい」
「荷物は」
「点検票には、残置物なしと書かれています」
私は鞄から、引き出しの底で見つけた点検票を取り出した。紙を机の上に置き、石田の記録と並べる。こちらの点検票には、佐伯の私物が一部残っていることが書かれていた。管理会社へ電話したときは、退去時の状況について答えられないと言われた。
「私の部屋には、佐伯さんの書類も、不在票も、カレンダーも残っていました。残置物なしという記録と合いません」
石田は二枚の紙を見比べた。彼の指先が、紙の端を押さえたまま動かなくなる。
「この点検票、どこで手に入れましたか」
「602号室の引き出しです」
「佐伯さんが住んでいた頃のものですね」
「そうだと思います」
「この署名、管理会社の担当者のものではありません」
「分かるんですか」
「私は筆跡鑑定の専門家ではありません。ただ、同じ担当者名が別の報告書にあります。書き方が違う。こちらは、日付の数字だけが妙に小さく、署名の最後が途切れている」
石田は別の書類を開いた。二つの署名が並ぶ。片方は流れるように整っている。もう片方は、文字の途中で筆圧が落ち、最後の線だけが紙の端へ逃げていた。
私はそれを見て、手のひらに汗が滲むのを感じた。
「この書き方、見覚えがあります」
「どこで?」
「私の手帳に、私が書いた覚えのない日付があります。数字が小さくて、最後の線だけが長い。自分の字に似ているのに、自分の字ではないと思っていました」
石田は顔を上げた。
「その手帳は、今お持ちですか」
「はい」
私は手帳を開き、該当するページを見せた。石田は紙面へ顔を近づけず、まず日付を確認し、それから文字の形を一つずつ追った。二十七の七が細く、四の横線が途中で止まっている。私自身の字なら、もっと右へ流れるはずだった。
「いつ書かれたものか、分かりますか」
「日付は、私が602号室へ入った翌週です。でも、その時間に何をしていたか覚えていません」
「記録の撮影時刻は」
「二十時〇三分です」
「その時刻、部屋にいましたか」
「写真には、部屋の中で撮ったことが残っています。でも、撮った記憶がない」
石田はしばらく黙っていた。
蛍光灯が一度だけ、かすかに明滅した。窓の外を車が通り、ガラスに白い光が流れる。交番の中には、無線の小さな雑音と、壁時計の針が進む音だけが残った。
「三枝さん」
石田は、書類を揃え直しながら言った。
「ここから先は、私が断定できる話ではありません。ただ、ひとつだけお願いがあります。部屋の中で起きたことを、できるだけ時刻と一緒に記録してください。写真でも、音声でも、紙に書いてもいい。ただし、記録すること自体が苦しくなったら、そこで止めてください」
「止めたら、何かが進むんじゃないですか」
「そう感じるのは分かります。でも、記録を続けることが安全とは限りません」
「蓮さんは、消えたときに消えたと分かるようにするためだと言っていました」
「高見沢さんらしいですね」
石田の口元に、ごく薄い笑みが浮かんだ。だがすぐに消えた。
「記録は、人を守ることもあります。でも、記録を残したからといって、人が守られるわけではない。私たちはそこを混同しやすいんです。書類があると、何かに対応した気になる。相談を受けた、番号を付けた、担当者へ回した。けれど、その紙の外で誰かが一人になっているなら、記録はただの整った置き場所にしかならない」
「では、石田さんはどうするんですか」
「まず、管理会社へ正式に照会します。佐伯さんの退去手続き、点検記録、オートロック履歴。可能なら、当時の担当者にも確認します。私は、三枝さんの話を『気のせい』として処理しません。ただし、すぐに事件だとも言えない」
「その間に、何か起きたら」
「その場合は、すぐに通報してください。ドアを開けない。ひとりで確認しに行かない。記録より先に、安全を取ってください」
「でも、誰も来てくれなかったら?」
声が震えた。
「佐伯さんのときみたいに、記録だけ残って、夜の空白だけが増えたら。私が相談を取り下げたことにされたら。私がいなくなったあと、次の人が同じ部屋に入って、また黒丸を見つけたら。そうなったら、誰が私のことを残すんですか」
石田はしばらく私を見ていた。彼の視線は、私の手元と顔を交互に行き来した。やがて胸ポケットからペンを抜き、相談記録の新しい欄を開く。
「私が残します」
「約束できますか」
「約束ではなく、記録にします。三枝奈緒さんが、今日、何を訴えたか。佐伯修一さんの記録にどんな空白があるか。オートロック履歴と退去日が一致していないこと。私は今ここで書きます」
彼は日付と時刻を記した。ペン先が紙の上を滑る音は、蓮の録音にあった紙の音とは違っていた。こちらの音には、迷いがある。書いたあとに読み返し、言葉を削り、また書き足すための遅れがある。
「ただ、私が書いたものも、誰かに見られます。消される可能性もある。だからコピーを作ります。三枝さんにも渡します。高見沢さんにも、必要な範囲で共有します」
「蓮さんに?」
「記録を一人の手元に置かないためです。ひとつ消えても、全部は消えないようにする」
石田はそう言って、相談記録の控えを二部作った。紙を折らず、角を揃え、透明なファイルへ入れる。その一連の動作には、事務的な正確さと、個人的な執念が混じっていた。
帰る前、私は机の脇に置かれた管内図へ視線を向けた。
ヴェルデ桜台の周辺が、古い道路線と現在の区画線で二重になっている。マンションの裏手には、細い搬入口が描かれていた。今はフェンスで塞がれているはずの場所だ。
「この搬入口は、今も使われているんですか」
石田は地図を引き寄せた。
「普段は使われていません。ゴミ収集車や設備業者の出入りに使う程度です」
「佐伯さんのオートロック履歴があった夜、この搬入口の記録はありますか」
「そこまでは、まだ確認していません」
「調べてもらえますか」
「調べます。ただ、古い記録が残っているかは分かりません」
石田は地図の端を指で押さえた。
「この建物は、表の出入りしか記録しないんです。搬入口は管理会社の鍵で開けられる。誰が、いつ、何のために使ったか、紙の台帳にしか残らない。もし台帳から抜けていたら、確認には時間がかかります」
「記録がない場合は」
「ないこと自体を、記録します」
石田はそう答えた。
交番を出ると、夜の空気が湿っていた。駅から流れてくる人の波はまだ途切れず、信号が変わるたび、傘の列が一斉に動く。私はその中を歩きながら、石田から渡された控えを何度も確かめた。
相談者、三枝奈緒。 対象、ヴェルデ桜台602号室。 内容、黒丸印、郵便物の反復、夜間の紙音、前住人記録の不一致。
紙の上では、私はまだそこにいる。
そのことに、ほんの少しだけ安堵した。
マンションへ戻ると、エントランスの掲示板に新しい紙が貼られていた。設備点検の日程変更のお知らせだった。私は足を止め、印刷された日付を見た。
点検日は、次の黒丸の日から一日早くなっている。
誰かが予定を動かした。
私はスマートフォンを取り出し、写真を撮ろうとした。
その瞬間、背後の郵便受けで、口金がゆっくり開いた。
カチ。
振り返ると、602号室の集合ポストから、白い紙が一枚だけ滑り落ちていた。
私はすぐには拾わなかった。
紙の中央には、黒い丸がひとつある。
その下に、細い字でこう書かれていた。
――夜の記録は、まだ空白です。
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