5話 波形に残る紙の音

高見沢蓮が私を呼び止めたのは、点検の封筒を握ったまま、玄関の前で立ち尽くしていた時刻から、まだ数十分しか経っていない深夜だった。

603号室の扉が半分だけ開き、内側から青白いモニターの光が廊下へ漏れている。パソコンの画面が発する光は、蛍光灯の白さとは違う、水底から見上げるような冷たい色をしていた。蓮はイヤホンを片方だけ外し、私の顔を見ずに、手元のレコーダーの画面をこちらへ向けた。

「これ、うちの前で入ってる」

声は低く、湿っていた。説明ではない。確認だった。まるで、自分がすでに知っていることを、私にもう一度なぞらせようとしているような口ぶりだった。

画面には、時間軸に沿って波形が並んでいる。上下する細かい線の群れの中に、一本だけ、異様に滑らかな山がそびえていた。ほかの波が不規則に震えているのに対して、その山だけは、まるで定規で引いたように均整の取れた稜線を描いている。

私は廊下に立ったまま、耳を澄ませた。

エレベーターの到着音が、下の階からかすかに響く。ゴミ置き場の扉が、遠くで鈍く閉まる音。603号室の中から漏れる冷蔵庫の低い唸り。生活の音は、いくらでもある。この時間でも、建物はまだ息をしている。

けれど、蓮が再生した音声には、そうした生活音の底に、乾いた紙の擦れる音が沈んでいた。

ぱさり。

少し間があって、また。

ぱさり。

深夜の602号室の玄関先で、誰かがカレンダーをめくっている音だった。

「ノイズとして処理すればよかったんじゃないの」

私はそう言った。声が思ったより硬く、廊下の壁に短く反響した。仕事なら、こういう不要な音は編集の段階で切り捨てるものだろう。映像編集者なら、なおさら。

「消したら、ただの気味の悪い音になる」

蓮は再生を止めなかった。指先が画面の端に触れ、波形をわずかに拡大する。紙がめくれるたびに、線は細く裂けるように震え、また元の高さへ戻っていく。その震え方の中に、指の圧力の強弱まで刻まれているような気がした。誰かが紙の端をつまみ、めくる直前にためらい、それから一気に払う。そんな一連の動作の呼吸が、波形という無機質な線の中に閉じ込められている。

「これ、いつ録ったんですか」

「先週。あなたが越してくる前の晩」

蓮はレコーダーの画面をスクロールさせた。数字の羅列が流れ、日付が変わる。

「越してくる前から、602号室の前で、こういう音がしていたんですか」

「していた。ただ、頻度が違う」

彼は指を止め、別の波形を呼び出した。今度は山がいくつも連なっている。一つ、二つ、三つ。等間隔ではないが、明らかに規則性のある間隔で、同じ滑らかな山が繰り返されていた。

「あなたが来る前は、一晩に一度あるかないか。あなたが来てからは、増えている」

喉の奥が、急に狭くなった気がした。私が越してきたことと、この音の増加が結びついているという言い方に、抗議したい気持ちと、抗議できない自分がいた。写真を撮り、時刻を記録し、位置を測ってきた自分の癖が、今この瞬間、蓮の観測と重なっていく。私たちは、それぞれ違うやり方で、同じものを追いかけていたのかもしれない。

「聞いてほしい部分がある」

蓮はイヤホンを差し出した。今度は迷わず受け取った。差し出されたものを拒む理由が、私にはもうなかった。

耳に当てると、まず建物の低い唸りが響いた。換気扇か、それとも別の何かの機械音か、判然としない。遠くで車が水たまりを跳ねる音がし、誰かの部屋のドアが閉まる。生活音の隙間に、あの紙の擦れる音が滑り込んでくる。

ぱさり。

ぱさり。

私はその音を聞きながら、自分の指先が無意識にスマートフォンのケースをなぞっていることに気づいた。知らない音のはずだった。だが、耳の奥のどこか、皮膚の下のどこかに、この音の手触りが眠っていた気がした。既視感ではない。既聴感、とでも呼ぶべき感覚だった。昔、どこかでこの音を聞いた。あるいは、聞く前から、この音がどんな響きをするか知っていた。

紙の音の合間に、かすかな金属音が混じった。口金が持ち上がり、また下がる。カチ、という短い音。

そして、その直後。

音声の奥から、息の漏れるような、掠れた声が届いた。

――なお。

私はイヤホンを外した。指先が震えていた。

「今の、聞こえましたか」

「聞いた」

「あれは」

「あなたの名前に聞こえる」

蓮は感情を込めずにそう言った。だが、感情を込めないことが、かえって彼なりの配慮なのだと、私にはもう分かっていた。彼は驚かせないために、淡々と言葉を選んでいる。

「聞こえる、じゃなくて。あれは、私の名前です」

「録音は、聞いた人間の記憶までは証明しない」

「どういう意味ですか」

「あなたがそう聞きたいから、そう聞こえているだけかもしれない、という意味だ。俺にも、そう聞こえる。でも、俺とあなたが同じものを聞いているという保証はどこにもない」

その言い方は、突き放しているようでいて、同時にひどく誠実だった。彼は簡単に「そうだ」とは言わない。かといって「気のせいだ」と切り捨てもしない。ただ、自分が扱っているものの不確かさを、正確に測ろうとしている。

「あなたは、何のためにこんなものを録っているんですか」

私は尋ねた。責めるつもりはなかった。ただ、知りたかった。彼がなぜ、他人の部屋の前の音を、こんなにも執拗に記録し続けるのか。

蓮はしばらく黙っていた。廊下の照明が、彼の顔の片側だけを白く照らしている。

「前の仕事で、ノイズだと思って消した音があった。誰かの生活音の一部だった。編集の締め切りに追われて、聞きやすさを優先して、余計な音をいくつも切った。その中に、たぶん、助けを求める声が混じっていた」

「たぶん、というのは」

「後になって、素材を見返す機会があった。切り落とした部分を別のファイルで確認した。そこに、うわ言のような、途切れ途切れの声が入っていた。誰かが何かを訴えていた。でも、本編には使わなかった。ノイズとして処理したデータは、もう戻せない」

その声には、後悔とも呼べない、もっと乾いた諦めがあった。取り返しのつかないことを、取り返しのつかない形のまま、ずっと持ち続けている人間の声だった。

「それから、俺は録るようになった。消す前に、まず残す。判断は、あとでいい。今すぐ意味が分からなくても、消してしまったら、二度と意味を探せなくなる」

「でも、残しても、意味が分かるとは限らない」

「分からない。今もほとんど分からない。ただ、消えたときに、消えたと分かるようにはなる」

その言葉が、静かに私の中に落ちてきた。消えたときに、消えたと分かるように。それは、救いではない。予防でもない。ただ、何かが失われたという事実だけを、せめて記録の形で留めておこうとする、ひどく不器用な祈りのようなものだった。

「私にも、同じことをしろと言っているんですか」

「強制はしない。あなたが嫌なら、この話はもうしない」

「嫌じゃありません」

自分でも意外なほど、はっきりとした声が出た。

「嫌じゃない。でも、怖いです。記録すればするほど、自分が何かに近づいていってる気がする。近づいた先に何があるのか分からないまま、近づくのをやめられない」

蓮は少しの間、私の顔を見た。それから、視線をレコーダーへ戻した。

「怖いなら、俺が代わりに録る。あなたは、見なくていい部分は見なくていい」

「それは、優しさですか」

「優しさとは違う。俺は、あなたを守りたいわけじゃない。俺自身が、また何かを消して後悔したくないだけだ」

その突き放した言い方の奥に、彼なりの不器用な気遣いが透けて見えた。彼は誰かを助けることを、自分の目的にはしない。ただ、自分がもう一度同じ過ちを繰り返さないために、記録を続ける。その結果として、隣に住む私の恐怖が、わずかに軽くなる。それだけのことだった。だが、それだけのことが、今の私にはひどくありがたかった。

「一つ、聞いていいですか」

「何」

「あなたの録音の中に、あなた自身の声が入っていたことは、ありますか」

蓮の指先が、一瞬だけ止まった。ケーブルを巻く癖のある指が、宙で静止する。

「ある」

「どんな」

「越してきてすぐの夜、自分の足音を録ったつもりだった。玄関を出て、エレベーターへ向かう足音。あとで聞き返したら、一拍遅れて、もう一人分の足音が重なっていた。俺は一人だった。誰もいなかった」

廊下の空気が、少しだけ重くなった気がした。冷蔵庫の唸りが遠くで止まり、換気扇の音だけが、頭の奥の空白を撫でるように続いている。

「それを聞いて、どう思ったんですか」

「消したいと思った。でも、消さなかった。消したら、あの音がなかったことになる。俺は、なかったことにするのが、何よりも嫌いだ」

その言葉を聞いた瞬間、私は自分の手帳のページを思い出した。びっしりと書き込まれた時刻と数字。増えた黒丸。写真に残した位置。私もまた、なかったことにされるのが嫌で、記録を続けてきたのだと、今さらのように気づいた。整えることは、安心のためではなかった。忘れられることへの、ささやかな抵抗だった。

602号室の前の足音、あなたのファイルには、いつから入っているんですか」

「古いものだと、二年前」

「二年前って、佐伯さんが住んでいた頃ですね」

「たぶん」

「その頃の録音にも、同じ声が」

蓮はレコーダーを操作し、別の日付のファイルを開いた。波形が画面いっぱいに広がる。彼は再生ボタンに指を置いたまま、しばらく押さなかった。

「聞くか」

私は頷いた。

再生された音には、今よりも重く、湿った空気の質感があった。紙の擦れる音は、今よりも荒く、乱暴だった。まるで、めくる手が焦っているかのように。そして、その奥に、今度ははっきりとした男の声が入っていた。

――また、先に書かれている。

声は震えていた。誰かに助けを求めているのではなく、自分自身に確認するような、独り言に近い調子だった。

――俺が書く前に、もう埋まっている。

私はイヤホンを外した。手のひらに汗が滲んでいた。

「佐伯さんの声ですか」

「分からない。名乗っていないから、断定はできない。でも、時期は一致する」

「先に書かれている、って」

「意味は分からない。だが、あなたが今、悩んでいることと似ている気がする」

その通りだった。私自身、手帳のページに、覚えのない筆跡で埋まった欄を見つけている。書いた覚えのないものが、先に、そこにある。佐伯修一が二年前に漏らした独り言と、私が今夜感じている違和感は、同じ場所を巡っていた。

「高見沢さん」

私は、廊下の冷たい空気を吸い込んでから、続けた。

「あなたは、これを全部聞いていて、怖くならないんですか」

蓮は、少しの間黙った。それから、ようやくレコーダーをポケットにしまった。

「怖い。毎晩、怖い。でも、聞かないでいることの方が、もっと怖い」

その言葉には、彼なりの筋の通った哲学があった。知ることは救いにならない。それでも、知らないままでいることは、自分がいつか同じ場所に立ったときに、何の備えもなく飲み込まれることを意味する。彼は、その恐怖の質を、正確に見分けていた。

「今夜、点検の人が来ることになっています」

私は、手にしたままだった封筒を見せた。蓮の視線が、封筒の印字に落ちる。

「二十時から二十時三十分」

「あなたのカレンダーの黒丸の日と、重なってる」

「はい」

「管理会社に確認は」

「まだです。営業時間はもう終わっています」

「なら」

蓮は言葉を切り、廊下の奥、602号室のドアへ視線を向けた。

「今夜は、俺も起きている。何かあったら、壁を叩いて」

その申し出は、ひどく簡素だった。手を差し伸べるでもなく、部屋に招き入れるでもない。ただ、壁の向こうで起きていると言うだけの、最小限の約束だった。けれど、その最小限さが、かえって信じられた。彼は、できないことをできると言わない人間だった。

「ありがとうございます」

私がそう言うと、蓮はわずかに視線を逸らした。礼を言われることに慣れていないような仕草だった。

「礼はいらない。俺は、ただ、また何かを聞き逃したくないだけだ」

603号室のドアが、静かに閉まった。青白い光が細くなり、やがて完全に消える。廊下には、私と、602号室の扉と、その奥で息を潜めているはずの静けさだけが残った。

私は自分の部屋の前に立ち、ドアノブに手をかけた。鍵はまだ差し込んでいない。ドアの向こうから、今はもう何の音もしない。だが、さっきまで蓮のイヤホンの中で聞いた、あの掠れた声の記憶だけが、耳の奥にまだ張りついていた。

――なお。

その声が、佐伯修一のものなのか、それとも別の誰かのものなのか、私にはまだ分からない。分からないまま、鍵を差し込む。

金属が擦れる、乾いた音がした。

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