4話 順番だけが同じ

黒丸のある日を、私はカレンダーの写真から拾い出して一覧にした。

今月は三日、十日、十七日、二十四日。新しく増えた丸を含めると、すべて七日おきだった。来月も同じ。翌月も、印の位置は少しずつずれているのに、間隔だけは変わらない。

私は手帳の余白に、日付の下へ小さく時刻を書いた。

十九時三十二分。  二十時十一分。  二十時〇三分。  二十時〇三分。

最後の二つが同じだった。

時計を見間違えた可能性を考え、スマートフォンの写真の撮影時刻と、手帳に書いた時刻を照合した。写真の記録は二十時〇三分。手帳にも同じ数字が残っている。けれど、その時刻に何をしていたのか、私は思い出せなかった。

カレンダーを見ていたのかもしれない。郵便受けを開けたのかもしれない。あるいは、何もせずにソファで眠りかけていたのかもしれない。

記録があるのに、出来事の感触だけが抜け落ちていた。

私はペンのキャップを外し、戻した。外し、戻す。手順を繰り返すうち、キャップの内側からかすかな油の匂いが立った。仕事用に新しく買った細字ボールペンなのに、握る部分だけが以前から使い込まれているように滑らかだった。

次の黒丸の日まで、私は郵便受けを開けないことにした。

正確には、開けないようにしていた。

郵便物が溜まるのは嫌だった。チラシが折れたまま押し込まれているのも、不要なものが玄関の前に残るのも、私の生活動線を乱す。だから毎朝、出勤前に一階へ下り、集合ポストの前で一度立ち止まり、黒丸の日かどうかを確かめてから、番号札を見た。

開ける必要のない日には、開けない。

それだけのことが、いつの間にか自分への命令になっていた。

黒丸の日の朝、私はいつもより早く家を出た。外は薄い雨だった。エントランスのガラス扉に水滴が貼りつき、通りを走る車のライトがにじんでいる。誰かが傘を閉じる音。宅配ボックスの扉が閉まる音。掲示板のラミネートが空調の風で小さく鳴る音。

生活の音は、いくらでもある。

それなのに、郵便受けの前に立つと、ほかの音が一枚ずつ遠ざかった。

私のポストには、折りたたまれたチラシが二枚、東栄ライフサポートの封筒が一通、その下に不在票が入っていた。

手を伸ばす前に、私はスマートフォンを取り出した。

撮影時刻。  天候。  郵便受けの扉の状態。  中身の枚数。

そこまで書き留めてから、鍵を差し込んだ。

金属の縁は冷たく、指先に湿った感触が残った。扉を開けると、最初に折れたチラシが出てきた。表には近所の宅配弁当の広告。二枚目は水道修理の案内。東栄ライフサポートの封筒には、設備点検の実施日が印刷されている。

そして最後に、不在票。

私は紙を取り出し、裏返した。

宛名は空欄だった。差出人もない。配達員の控え欄には、今日の日付と、部屋番号だけが記されている。前の不在票にあった佐伯修一の名前は、今回はどこにもなかった。

それでも、紙の折れ方は同じだった。

縦に一度、横に一度。四つに畳まれたあと、右上の角だけが少し潰れている。私は自分の手で折り直して確かめた。同じ形にするには、紙を机の角へ押しつける必要があった。

偶然だと思うには、手順が正確すぎた。

私は四枚を並べ、写真に撮った。先月の不在票、昨夜のもの、今朝のもの。紙質も印刷も違うのに、郵便受けの中での重なり方だけが同じだった。チラシ二枚、管理会社の封筒、不在票。いつも最後に、不在の証拠が来る。

誰かが順番を決めている。

そう考えたところで、私は首を振った。集合ポストへ郵便物を入れるのは配達員だ。毎日同じ人が同じ順番で投函しているわけではない。封筒の大きさが違えば、自然に押し込まれる位置も変わる。紙の折れ方だって、ポストの中でついたものかもしれない。

私は、そういう説明をいくつも並べた。

説明が増えるほど、胸の奥に薄い空洞ができていった。

部屋へ戻ると、玄関脇に置いた靴の向きが変わっていた。

黒いパンプスのつま先が、廊下側ではなく、部屋の奥を向いている。

私は立ったまま、しばらくそれを見た。昨夜、出勤用の靴を脱いだとき、つま先を玄関ドアと平行に揃えた記憶がある。左右の間隔は靴底一枚分。踵はタイルの目地に合わせた。私はそういう置き方をする。

だが今は、右の靴だけが数センチ前へ出ていた。

誰かが履こうとして、途中でやめたような位置だった。

私は靴を持ち上げ、底を確認した。濡れてはいない。泥もついていない。床には細い水の跡が一本だけ伸びていた。玄関から廊下へ、靴の幅より細い線が続いている。

しゃがみ込んで指で触れる。

冷たい。

雨水にしては、壁紙の近くにだけ湿り気が残っていた。指先を鼻へ近づけると、紙箱のような匂いがした。引っ越してきた初日に部屋へ入ったときと同じ匂いだった。

私は雑巾を取りに行こうとして、やめた。

拭けば消える。消せば、何があったか分からなくなる。

その考えに自分で気づき、吐き気に似たものが込み上げた。これまでなら、汚れを見つけた時点で拭いていた。床に水があるなら、原因を確かめる前に乾かしていた。今は、汚れが残っていることに安心している。証拠になるからだ。

私は手帳を持ってきて、床の水跡を測った。

玄関から一メートル二十センチ。そこで途切れている。

その先に、白いマグカップが置かれていた。

窓際の小さな机に置いたはずのものだった。朝、出かける前に洗って、取っ手を右へ向けた。今は机の端から逃げるように斜めを向き、取っ手は壁を指している。

私はカップを持ち上げた。

底に黒い輪があった。

コーヒーの跡ではない。洗剤で洗ったばかりなのに、薄い円が底の中心へ沈んでいる。黒丸印と同じように、触れても取れない。濡らした布でこすっても、輪郭は少しも滲まなかった。

私はカップを流しへ置いた。置き場所を変えたことが気になり、すぐに戻した。取っ手を右へ向け、机の端から三センチ離す。

それから、カレンダーを見た。

黒丸は増えていなかった。

増えていないことに安堵した。安堵してしまった自分が嫌だった。まるで、印が増えないことを願うことで、印の存在を認めているようだった。

その夜、私は部屋中の物を写真に撮った。

ペン立て。ティッシュ箱。洗濯機のふた。白いマグカップ。玄関の靴。カレンダー。写真の端には必ず時刻を表示させた。撮影が終わる頃には、部屋の中が薄暗くなっていた。照明をつけると、壁紙の継ぎ目が浮かんだ。

冷蔵庫の横、剥がし跡の残る部分だけ、壁紙がわずかに膨らんでいる。

私は爪を立てた。

紙の端が湿っていた。

触れた指先に、冷たい糊のような感触が残る。剥がすべきではないと思った。以前、壁紙を一度めくりかけたとき、裏側から古い印影が覗いた。その続きを見ることを、私はまだ避けていた。

見れば、戻れなくなる。

そう思いながら、指は端をつまんでいた。

ほんの少しだけ剥がす。

下から、鉛筆で書かれた細い線が現れた。日付のように見える。数字の一部。その横には、小さな丸がある。

黒ではなかった。色の抜けた灰色だった。

私はそれ以上剥がさず、スマートフォンを取り出した。画面をかざした瞬間、玄関のほうから金属音がした。

カチ。

集合ポストではない。602号室の内側にある郵便受けの口金だった。

私は壁紙から手を離し、玄関へ向かった。

床には、さっきまでなかった封筒が落ちていた。

差出人は東栄ライフサポート。封はされていない。表面には、設備点検のお知らせと印刷されている。点検日は、次の黒丸の日だった。

封筒の中には、一枚の紙しかなかった。

設備点検のお知らせ。  対象、602号室。  立ち入り予定、二十時から二十時三十分。

私は日付を二度確認した。通常の点検なら昼間に行われる。管理会社へ電話をかければ、担当者に予定を聞ける。そう考えて、スマートフォンを手に取った。

そのとき、廊下の向こうから、紙をめくる音がした。

ぱさり。

602号室の中ではない。

壁の向こう、603号室の方向だった。

私は扉を開けた。廊下には誰もいない。照明が白く床を照らし、向かいの窓に、室内の私が映っている。けれどその影は、私が止まったあとも一歩だけ進んだ。

603号室のドアが開いた。

高見沢蓮が顔を出した。髪は乱れ、片手にレコーダーを持っている。もう片方の手には、飲みかけの缶コーヒーがあった。

「今の、聞こえましたか」

私は尋ねた。

「聞こえた」

「紙をめくる音です」

「違う」

「違う?」

「めくる音じゃない。めくる前に、紙を押さえる音だ」

蓮は廊下へ出て、603号室のドアを閉めた。鍵はかけなかった。

「紙をめくるとき、最初に指で端を探す。その音が入っている。あなたが聞いたのは、その前の音だ」

「そんな違いまで分かるんですか」

「分かる。分かるようになった」

彼はレコーダーの画面を見たまま話した。

「生活音は、同じものでも毎回少し違う。人が歩けば、体重や靴で波形が変わる。紙も、湿気や折り目で擦れ方が変わる。でも602号室の前で鳴る音は、いつも同じだ。紙を押さえる指の位置まで同じに聞こえる」

「誰がやっているんですか」

「分からない」

「部屋の中には、私しかいません」

「それも、まだ記録上はそうだ」

その言い方に、私は顔を上げた。

「記録上は、って何ですか」

「あなたの入居後、廊下の音が増えた。正確には、あなたが部屋にいる時間と、音が出る時間が一致しなくなった」

「私がいないときにも、音がする?」

「あなたが出たあとに、カレンダーをめくる音がする。戻る直前に止まる。郵便受けの口金は、そのあとで鳴る」

「私を待っているんですか」

「待つ、という言い方はしたくない」

「では、何ですか」

蓮はようやく私を見た。目の下に薄い隈があり、疲れているはずなのに、視線だけは妙に澄んでいた。

「音が、あなたの生活に合わせている」

「そんなこと、あり得ないでしょう」

「あり得ないかどうかを決めるために録ってる」

「記録すれば、分かるんですか。私が何をしても、全部残せば、部屋の中で起きていることが説明できるんですか」

「説明できるとは言ってない」

「では何のために」

「消えたときに、消えたと分かるようにするためだ」

蓮の声は低かった。廊下の換気扇が唸り、その言葉の後ろをゆっくり通り過ぎていく。

「前に、音を消したことがある。仕事で。映像を見やすくするために、余計な音を切った。誰かの生活音も、ノイズとして処理した。あとから、その音の中に助けを求める声があったかもしれないと知った。でも、消したデータは戻らなかった」

「だから、何でも残しているんですか」

「何でもではない。消す理由が自分の都合だけなら、残す」

「私のことも、残している」

「あなたが嫌ならやめる」

蓮はそう言ったが、レコーダーをしまおうとはしなかった。

その不器用な距離が、かえってありがたかった。助けると言われるより、記録を残すと言われるほうが、今の私には信用できた。彼は私を安心させようとしていない。分からないものを、分からないまま扱おうとしている。

「今夜、点検の人が来ることになっています」

私は手にした封筒を見せた。

蓮の表情がわずかに変わった。

「その予定、管理会社に確認した?」

「まだです」

「確認したほうがいい」

「電話なら、もう営業時間が終わっています」

「なら、出ないほうがいい」

「村瀬さんにも同じことを言われました」

「村瀬さんは、部屋の内側を見ている。俺は音を見ている」

「音は、何を見せたんですか」

蓮は答える前に、レコーダーの時刻を確認した。画面の数字が、廊下の照明を受けて青く光っている。

「点検予定の通知が出た直後から、602号室の前に足音が増えている」

「誰かが来るんですか」

「足音じゃない」

彼はイヤホンを私へ差し出した。

「聞けば分かる」

私は一瞬ためらった。けれど、受け取った。

再生された音声には、まず雨の音があった。窓を叩く細かな音。遠くで車が水を跳ねる音。次に、マンションのどこかでエレベーターが動いた。機械音が上へ近づき、六階で止まる。

扉が開く。

誰かの足音が二つ。

六階の廊下を、602号室へ向かってくる。

その歩幅は一定だった。靴底が床を擦る音。止まる。紙を押さえる音。ぱさり、とめくれる音。口金が開く音。

そこで、音が途切れた。

無音ではない。雨も、換気扇も、遠くの車も残っている。その一部分だけが、切り取られていた。

私はイヤホンを外した。

「この先は?」

「毎回、そこから戻る。足音が、来た方向へ戻っていく」

「人なんですか」

「人なら、そう記録される」

「記録される?」

「音は、いるものを証明しない。そこに何かがあったことしか残さない」

蓮はイヤホンを受け取った。

「だから、今夜、もし点検の人間が来ても、ドアを開ける前に声を確認して。名前と会社名を聞く。返事があっても、確認できないなら開けない」

「そんなことを言われると、余計に怖くなります」

「怖がらせたいわけじゃない」

「分かっています。でも、分からないものを記録して、分からないまま増やしていくのも、十分怖いんです」

蓮はしばらく黙った。

それから、缶コーヒーを私へ差し出した。冷たい缶だった。表面の水滴が手のひらに移る。

「飲む?」

「結構です」

「そう」

彼は缶を引っ込めた。押しつけることも、慰めることもなかった。ただ、廊下に一緒に立っている。そのことだけが、妙に心強かった。

部屋へ戻る前に、私は玄関の前を見た。

ドアの下、床と扉の隙間に、黒い紙片が挟まっている。

しゃがんで拾い上げると、細長い紙に、丸がひとつだけ書かれていた。その下には、数字がある。

20:00

私は時刻を確認した。

十九時五十九分。

冷蔵庫のモーターが止まった。換気扇の音だけが残る。マンション全体が息を吸い込んだように、廊下の空気が薄くなった。

そして、602号室の内側から、郵便受けの口金がゆっくり開いた。

カチ。

蓮がレコーダーを起動する。

私は鍵を握り直した。

黒丸の日にだけ、順番は同じになる。チラシ。管理会社の封筒。不在票。そのあとに、部屋の中の何かが少しだけずれる。

今夜は、点検の予定が最後に加わった。

私はまだ、封筒を開けていない。けれど予定は、もう部屋の中へ届いていた。

← 横にスクロールして読み進められます

順番だけが同じ - 黒丸の継承 - 誰でも作家life