3話 湯気の向こうの視線

管理人室へ向かう前に、私は一度、602号室の玄関で立ち止まった。

鍵を閉めたかどうか、もう二度確認している。ガス栓も閉じた。窓も、洗面所の蛇口も見た。いつもの手順を終えたのに、部屋を出ることができなかった。

冷蔵庫の脇に貼ったカレンダーが、背中から私を見ているような気がした。

振り返ると、黒丸は五つ、昨日と同じ位置にあった。今月の日付欄に四つ、そして新しく増えた一つ。どの丸も紙の上に印刷されたものではなく、誰かが指先で押しつけた痕のように見える。見慣れるほど、印の形ははっきりしてきた。黒い円の中心には、針の先ほどの浅い窪みがある。押して、離し、また押す。その動作を何度も繰り返したときにだけできる窪みだった。

私はカレンダーの写真を撮った。時刻も手帳に記した。

十四時十七分。

その数字を書き終えてから、管理人室へ行く理由を考えた。入居者として挨拶をしていなかった。台車を借りたい。郵便受けに前の住人宛ての不在票が入っていた。どれも嘘ではない。けれど、本当の用件は、冷蔵庫脇に残された黒丸の意味を誰かに尋ねることだった。

エレベーターを待つあいだ、廊下の窓から外を見た。駅へ向かう道路に、傘を持った人が何人か歩いている。空は晴れているのに、遠くの雲だけが雨を含んだように暗い。窓ガラスに映った自分の姿は、実際の私より少し遅れて首を傾けた。

エレベーターが来る。扉が開く。

中には誰もいなかった。

乗り込んだ私は、階数ボタンの脇にある鏡を見ないようにした。代わりに、階数表示の赤い数字を追った。六、五、四、三、二、一。地下へ下りるわけではないのに、数字が減るたび、身体の内側だけが深く沈んでいくようだった。

一階に着くと、エントランスの自動ドアが開いた。外気が流れ込み、湿った土と排気ガスの匂いが混じる。掲示板には、今週末の消防設備点検のお知らせと、駐輪場の利用規則が並んでいた。どの紙もきれいにラミネートされ、角まで揃っている。生活を規則に押し込めれば、建物は安全に見える。けれど、その下に何があるかまでは、掲示板は教えてくれない。

管理人室の窓は半分開いていた。中から湯呑みを置く音がして、私はガラス戸を二度叩いた。

「はい、どうぞ」

村瀬トシ子は机の向こうから顔を上げた。白髪を後ろでまとめ、薄い茶色のカーディガンを着ている。窓際には小さな扇風機が置かれていたが、羽根は回っていなかった。机の上の番茶から、細い湯気だけが立ちのぼっている。

「こんにちは。昨日引っ越してきた三枝です」

「ああ、三枝さんねえ」

村瀬はすぐにそう呼んだ。

私は名乗ったのが今なのか、契約時に一度顔を合わせたのか分からなくなった。契約書類を受け取ったとき、管理人室の前を通った記憶はある。けれど、この人と話した覚えはない。

「お部屋は、落ち着いたかしら。最初は何かと足りないものが出てくるでしょう。台車なら、裏に一台ありますから、必要ならお貸ししますよ」

「ありがとうございます。実は、荷物のことではなくて」

私は手にしていたカレンダーを少し持ち上げた。黒丸のある紙を外してくることはできなかったので、スマートフォンに保存した写真を開いた。

「部屋に、前の住人の方が残したものがありました。冷蔵庫の脇にカレンダーが貼ってあって、そこに黒い丸がいくつも書かれています」

村瀬の笑顔は消えなかった。

ただ、湯呑みに伸びた指が、茶碗の縁で止まった。

「まあ。そういうものは、前の方の予定でしょうねえ」

「予定にしては、同じ位置に並びすぎているんです。毎月、同じ時期に同じような丸があって。それから、佐伯修一さん宛ての不在票もありました」

村瀬は返事の代わりに、湯呑みを両手で包んだ。茶の匂いが濃くなる。番茶の香ばしさの奥に、湿った紙のような臭いが混じっていた。

「古い住人のことは、あまり覚えていないのよ」

「佐伯さんという名前も、ですか」

「名前はねえ、書類にあれば分かるけれど、人の暮らしまで覚えているわけじゃないから」

「でも、管理人さんなら、住人の出入りは把握しているんですよね。退去日や点検日も」

「そりゃあ、鍵の受け渡しや郵便物のことはね。けれど、部屋の中で何をしていたかまでは、こちらから聞けませんもの」

「聞いていない、ではなくて、覚えていないんですか」

自分の声が少し強くなった。村瀬の足元に置かれた小さな段ボール箱へ視線を落とす。蓋には油性ペンで、忘れ物、と書かれている。文字の横に、小さな黒い丸があった。

私の呼吸が浅くなった。

「その箱を見せてもらえますか」

「こちらは住人の方の忘れ物ですから、勝手に開けるわけにはいかないのよ」

「佐伯さんのものが入っている可能性は」

「可能性は、どこにでもあるでしょう。郵便受けに届いたものにも、廊下に落ちた鍵にも。だから、管理人は物を捨てないようにしているんです。誰のものか分からないまま捨てると、その人の暮らしまで捨てることになるでしょう」

穏やかな声だった。けれど、その言葉の底には、こちらへ近づくなという硬さがあった。

「では、佐伯さんは普通に退去したんですか」

「そういう記録になっています」

「記録になっている、という言い方は、普通に退去したとは違いますよね」

村瀬は湯呑みを置いた。陶器が机に触れる音が、必要以上に大きく聞こえた。

「三枝さん。住む人が変われば、部屋も変わるんです。前の人のことをいくら調べても、今の人の暮らしには戻ってこないものですよ」

「戻ってこないようにするために、調べているんです」

言葉が出たあと、胸の奥がざらついた。私は何を守ろうとしているのだろう。部屋を自分のものにしたいだけなのか。それとも、誰かが残したものを、見なかったことにされるのが嫌なのか。

「カレンダーを貼り替えれば済むことなら、そうします。でも、あれはただの書き込みに見えません。昨日、黒丸が一つ増えました。私が見ている前で、何も触れていない紙に」

村瀬の目が、初めて私の顔を見た。

その視線は短かった。だが、そこに驚きはなかった。驚かないということが、何より不自然だった。

「増えた、のね」

「ご存じなんですか」

「いいえ。知らないわ」

「今、増えたと言いましたよね」

「あなたがそう言ったから、繰り返しただけですよ」

「そういう言葉の取り方をしているんじゃありません。私は、何かを隠しているなら説明してほしいんです。前の住人が何をしていたか、部屋に何が残っているか、管理人さんが知っていることを教えてください。私は、知らないまま従うのが嫌なんです」

村瀬は黙っていた。

窓の外で、自動ドアが開閉した。誰かが入ってきて、掲示板の前で足を止め、すぐに出ていく。管理人室の中だけが、建物の時間から切り離されたように静かだった。

「知ることが、いつも人を助けるとは限らないのよ」

村瀬は、独り言のように言った。

「知らないままにしておけば、少なくとも眠れる人もいます。暮らしというのは、全部を明るく照らすことではなくて、見ない場所を決めることでもあるでしょう」

「それは、管理人さんが決めることですか」

「決めるのではなく、保つの。ここで暮らす人たちが、隣の部屋の事情まで背負わずに済むように」

「でも、誰かが消えても、退去したことにして保つんですか」

村瀬の指が、机の端に置かれた鍵束へ伸びた。鍵の金属を指の腹でひとつずつなぞる。その音は小さく、けれど規則正しかった。

「消えた人のことを、消えたままにしない方法が、いつも見つかるとは限らないのよ」

「なら、記録に残すべきです」

「記録に残せば、戻ってくると思う?」

問いかけられて、私は答えられなかった。

「記録は、忘れないためにあるんじゃないんですか」

「そうねえ。けれど、記録は残った人のために書かれるものでもあるでしょう。残った人が、明日も同じ場所でご飯を食べて、仕事に行って、帰ってこられるように。そういう形に整えられた記録もあるのよ」

その言い方は、妙に優しかった。だからこそ腹が立った。誰かの不在を、残された人間が生きるための形へ整える。その整頓に、私は自分の生活の手順を重ねてしまった。

私もまた、忘れたことを整えてきたのではないか。

考えがそこへ触れた瞬間、首筋が冷えた。

602号室のことを、どうしてそんなふうに話すんですか」

村瀬は、また視線を落とした。今度は私のスマートフォンではなく、足元に置いた鞄を見ていた。

「部屋は、住む人で変わるからです」

「それは、さっきも聞きました」

「ええ。でも、同じことを何度も言わないと、部屋のほうが先に決めてしまうことがあるんです」

意味が分からなかった。

分からないまま、その言葉だけが私の中へ沈んだ。部屋のほうが先に決める。予定が書かれる。黒丸が増える。誰かの暮らしを次の人へ渡す。

管理人室の壁時計が、秒針を一つ進めた。

その瞬間、どこか遠くで、金属が擦れる音がした。

口金の音だった。

管理人室の外、エントランスの郵便受けのあたりから、かすかに、ゆっくりと金具が開く音が響いた。村瀬の顔から、穏やかな色が消えた。

私は立ち上がった。

「今の音、何ですか」

「郵便受けでしょう」

「誰かが投函したんですか」

「さあ。見に行かなくてもいいでしょう」

「私は見ます」

管理人室を出ようとすると、村瀬が私の手首を掴んだ。力は強くなかったが、指先が冷たかった。

「三枝さん。今日は、もう部屋へ戻りなさい」

「どうしてですか」

「あなたの部屋に、今夜また何か届いても、受け取らないこと。名前を呼ばれても、返事をしないこと。カレンダーは、見ないほうがいいわ」

私は手首を見た。村瀬はすぐに手を離した。

「それは、管理人としての忠告ですか。それとも、602号室を知っている人の言葉ですか」

村瀬は答えなかった。

ただ、鍵束の中から一本だけを抜き取った。古い黒いボールペンだった。鍵ではない。軸には細かな傷がいくつもあり、握る部分だけが白く擦れている。

村瀬はそれを机の引き出しへ戻した。

「捨てられないものって、あるでしょう」

その言葉を聞いたとき、私は管理人室を出た。

エントランスへ向かう廊下は、来たときより長く感じられた。床のワックスに照明が伸び、私の影が先に歩いている。自動ドアの向こうには、買い物袋を提げた住人が立っていた。私と目が合うと、相手は会釈だけして通り過ぎる。誰も、誰かの部屋のことを尋ねない。知らないことが、この建物の礼儀だった。

エレベーターのボタンを押す。

到着を待つあいだ、私は手首に残った村瀬の指の冷たさを擦った。肌には何も残っていない。それでも、触れられた場所だけが、部屋の壁紙に触れたときのように湿っている。

六階に着くと、廊下の照明が一つだけ消えていた。

603号室の前で、高見沢蓮が半開きのドアからこちらを見ていた。片手に小型レコーダー、もう片方の手には缶コーヒーを持っている。缶の表面には水滴が浮いていた。彼は私の顔ではなく、私の背後にあるエレベーターを見ていた。

「何か聞こえましたか」

私が尋ねると、蓮はすぐに答えなかった。レコーダーの表示を確認し、廊下の奥へ顔を向ける。

「下から上がってくる音が、途中で消えた」

「エレベーターの音ですか」

「いや。金属音。郵便受けか、鍵か、そのあたり」

蓮は缶コーヒーを床に置いた。指先でケーブルを巻きながら、低い声で続けた。

「あなた、管理人室で何を聞いた」

「前の住人のことを聞きました。村瀬さんは、知らないと言いました」

「それで、納得した?」

「していません」

「なら、部屋に戻ったほうがいい」

「村瀬さんと同じことを言うんですね」

「同じじゃない。あの人は、戻れと言っている。俺は、廊下にいないほうがいいと言っている」

蓮はそこでようやく私を見た。眠そうな目の奥に、昨日まで見えなかった緊張があった。

「何か知っているんですか」

「知っていると言えるほどではない。録音に残っているだけだ」

「何が」

「あなたが入居する前から、602号室の前で音がする。人が歩く音じゃない。紙をめくる音と、口金が開く音。あと、誰かが小さく名前を呼ぶ」

喉が詰まった。

「誰の名前を」

「聞き取れない。最初はノイズだと思った。でも、昨日あなたが来てから、音の間隔が変わった」

「私が来てから?」

「来る前は、一晩に一度。あなたが越してきた夜から、三回。昨夜は五回」

蓮はレコーダーを持ち上げた。

「録音を聞く?」

断るべきだった。けれど、私は頷いた。

蓮が再生ボタンを押す。

最初に、建物の低い唸りが聞こえた。換気扇か、エレベーターの機械音か分からない。遠くで車が走り、誰かのドアが閉まる。その上に、紙が擦れる音が重なった。

ぱさり。

少し間がある。

ぱさり。

音のひとつひとつは小さく、生活の中に紛れてしまいそうだった。けれど、聞いていると、紙がめくられているのではなく、何かを一枚ずつ剥がしているように思えた。

最後に、金属音がした。

口金が開く。

その直後、音声の奥から、息が漏れるような声が混じった。

――なお。

私はイヤホンを外した。

蓮は何も言わず、再生を止めた。

「今の、聞きましたよね」

「聞いた」

「私の名前です」

「そう聞こえる」

「そう聞こえる、じゃなくて」

「録音は、聞いた人間の記憶まで証明しない」

蓮の言い方は冷たかった。だが、冷たくしなければ壊れてしまうものを扱っているようにも聞こえた。

「じゃあ、あなたは何を証明したいんですか」

「証明したいわけじゃない。消したくないだけだ」

彼はレコーダーをポケットへしまった。

「音を消すと、なかったことになる。仕事で何度もそうしてきた。ノイズを切って、聞きやすい映像にする。その中に、本当は残すべきものが混じっていても、邪魔だから消す。あとから気づいても、元には戻せない」

「私にどうしろと言うんですか」

「何も。まだ」

「まだ?」

「カレンダーを見たなら、次に何が起きるかを記録しておく。写真でも、時刻でも、音でもいい。あなたはそういうのが得意そうだから」

私は笑いそうになった。笑える状況ではないのに、口元だけが歪んだ。

「記録して、どうなるんですか。記録した人が安全になるんですか」

「ならない」

蓮は即答した。

「でも、記録しなければ、何が起きたかを自分で決めることもできない。誰かが決めた形にされる」

その言葉が、管理人室で聞いた村瀬の声と重なった。

部屋のほうが先に決める。

私は602号室のドアを見た。ドアノブの下に、昨日はなかった黒い点が付いている。汚れか、影か、遠くて判別できない。近づけば分かるはずなのに、足が動かなかった。

そのとき、玄関の内側から音がした。

紙をめくる音。

ぱさり。

私と蓮は同時に602号室を見た。

鍵は、私の手の中にある。誰も部屋へ入っていない。なのに、ドアの向こうで、カレンダーの紙が一枚、静かにめくられた。

続いて、郵便受けの口金が開く音がした。

カチ。

蓮がレコーダーを取り出す。

私は鍵を差し込んだ。

管理人室で言われた忠告も、蓮の警告も、もう手遅れだった。私の部屋の中で、私が知らない手順が始まっている。開けるかどうかを決める前から、誰かが次の頁をめくっていた。

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