第2話 引き出しの底の控え

朝、私は段ボールをほどく手を止めた。
昨夜のことを思い返すと、指先がまだ冷たいような気がした。郵便受けの口金が独りでに動いた記憶は、寝ても覚めても薄れなかった。だが朝の光は容赦なく部屋の隅々まで白く照らし、昨夜の出来事を、まるで見間違いだったかのように押し流していく。カーテンを開けると、向かいの棟のベランダに洗濯物が揺れ、下の道路を自転車が通り過ぎる音がした。ありふれた朝だった。ありふれているからこそ、私は昨夜見たものを、簡単には棚上げにできなかった。
古い部屋に住むときは、まず前の住人の痕跡を片づける。それが私のやり方だった。誰かの生活の残り香が残ったまま新しい生活を始めれば、いつまでも自分の部屋にならない気がする。だから私は、荷解きよりも先に、備え付けの棚と、洗面台の下と、そして寝室の作り付け収納の引き出しを、順番に検めることにした。
一番奥の引き出しは、木が反っているのか、少し力を入れないと開かなかった。埃っぽい匂いと一緒に、黄ばんだ紙の束が出てくる。私はそれを畳の上に並べ、一枚ずつ広げていった。
未投函の不在票が、三枝。宛名の欄はかすれていて、判読しにくい。管理会社の点検票は、東栄ライフサポートの角ばったロゴが印字され、点検日と署名欄には几帳面な字で日付だけが書き込まれていた。そして最後の一枚――退去手続きの控えらしき紙に、「佐伯修一」という名前が、印字ではなく、はんこのようにくっきりと刻まれていた。
紙は黄ばんでいるのに、日付の部分だけが妙に鮮やかだった。まるでその日付だけ、あとから別のインクで上書きされたかのように。
私は控えの日付と、冷蔵庫脇のカレンダーに並ぶ黒い丸印の日付を、頭の中で照らし合わせた。ぴったり重なるわけではない。けれど、近い。近すぎる、と言ったほうが正しいかもしれない。ひと月に一度、決まって同じ曜日に近い日。それは退去日という、本来なら一度きりのはずの出来事と、毎月繰り返される印とが、同じ規則の上に乗っているということだった。
私は控えを写真に撮り、手帳に日付を書き写した。こうしておけば、あとで見返したときに、自分の記憶違いかどうかを確かめられる。記憶は簡単に姿を変えるが、記録は変わらないはずだった。少なくとも、そう信じてきた。
昼前、私は東栄ライフサポートの管理会社番号に電話をかけた。呼び出し音は五回鳴り、若い男の声が応じた。名乗ると、相手はすぐに部屋番号を確認した。
「602号室ですね。ご入居ありがとうございます」
「ありがとうございます、ではなくて。前の住人の方について伺いたいんです。佐伯修一様という方、いらっしゃいましたよね」
「……お調べしますので、少々お待ちください」
保留音が長く続いた。エレベーターの中で流れるような、無機質なメロディだった。三分近く待たされたあと、担当者の声が戻ってきた。
「お待たせいたしました。ご退去済みのお部屋ということで間違いございません」
「退去、というのは、普通の引っ越しということですか」
「はい、通常の退去手続きとして処理されております」
「私が伺いたいのは、その退去の経緯なんです。連絡が取れなくなった、というようなことは」
「申し訳ございません、個人情報になりますので、詳しい経緯についてはお答えいたしかねます」
私はカレンダーを膝の上に広げたまま、受話器を持ち直した。
「では、もう一つ伺います。冷蔵庫の脇にあったカレンダーに、黒い丸印が並んでいるんです。前の住人の方の書き込みだと思うんですが、これについて、管理会社として何かご存じのことは」
「カレンダーの書き込みについては、弊社では把握しておりません」
「把握していない、というのは、記録がないという意味ですか。それとも、知っているけれど答えられない、という意味ですか」
「……記録には、特に記載がございません」
「同じ位置に、同じような丸が、毎月同じ時期に付いているんです。予定のメモにしては、あまりに規則的すぎると思うんですが」
「申し訳ございません。カレンダーの記載内容については、弊社の点検項目に含まれておりませんので」
同じ言葉が、少しだけ言い換えられて返ってくる。まるで台本を読んでいるようだった。私は苛立ちを声に出さないように気をつけながら、もう一段階、踏み込んだ。
「点検票が引き出しの中に残っていました。点検日と、担当者の署名があります。この点検のとき、部屋の様子に何か変わったところがあった、という報告はありませんでしたか」

「弊社の点検は、設備の不具合の有無を確認するものでして、お部屋の使用状況について立ち入った報告をすることはございません」
「説明のないまま、そういう部屋を契約させられたとは思っていません。ただ、知っていることがあるなら、教えてほしいんです」
「私どもとしましても、お客様にご不便がないよう、誠心誠意対応させていただいております」
言葉は増えるのに、内容はひとつも増えなかった。誠心誠意、という言葉の中身が、空洞のように軽く感じられた。私は礼を言って電話を切った。切ったあとも、受話器を握ったままの手を、しばらく下ろせなかった。手帳の該当ページを開き、今のやりとりを箇条書きで書き留める。退去は処理された。カレンダーは把握していない。点検で報告なし。並べてみると、どの答えも矛盾はしていない。矛盾していないことが、かえって奇妙だった。まるで、初めから「答えても差し支えのない範囲」だけを選んで、正確に切り取ってきたかのようだった。
昼過ぎ、私は交番へ向かった。駅前の細い通りに面した小さな建物で、ガラス戸の向こうに石田裕也が座っているのが見えた。彼は机の上の書類を、いつものように角を揃えながら整理していた。私が入っていくと、視線だけをこちらへ向け、それから書類を脇へ寄せた。
「三枝さん。今日はどうされました」
「前の住人のことで、伺いたいことがあって来ました。佐伯修一さんという方、ご存じですか」
石田は名前を聞いた瞬間、手元のペンを止めた。すぐには答えず、机の引き出しから薄いファイルを取り出す。
「……少し、お待ちください」
ファイルをめくる指が、ある一枚のところで止まった。控えの日付を見比べるように、私が持ってきた紙とファイルの中身を交互に確認している。その間、彼は一度だけ、はっきりと眉を寄せた。何かを言いかけて、それを飲み込むような間があった。
「何か、気になることでもありましたか」
私が尋ねると、石田はゆっくり顔を上げた。
「いえ……日付の並びが、少し気になっただけです」
「気になる、というのは」
「うまく言葉にできないんですが」
彼はそう言ったきり、しばらく黙った。私はその沈黙を埋めるように、続けた。
「私、大げさに騒ぐつもりはないんです。カレンダーに変な印があって、たまたま前の住人の退去日と近かった。それだけのことかもしれません。ただの勘違いなら、それでいいんです」
言い終えた自分の声が、思ったより硬いことに気づいた。石田は否定しなかった。かといって、頷きもしなかった。
「三枝さんが持ってこられた控え、コピーを取らせていただいてもよろしいですか」
「はい、構いません」
彼は立ち上がり、奥のコピー機まで歩いていった。紙が吐き出される音がして、戻ってきた石田は、コピーを相談記録のファイルに挟み込んだ。その手つきが、やけに丁寧だった。整えるべき角を、何度も指で揃え直している。まるで、その紙一枚が今にも動き出しそうなのを、押さえつけているみたいに。
「何かわかったら、必ずお伝えします」
石田はそれだけ言った。私はその言葉を、そのまま信じることにした。信じるしかなかった、というのが正しいかもしれない。
交番を出ると、昼の光が思ったより強く、目の奥が痛んだ。手帳を鞄にしまいながら、私は自分の指先を見た。黒い丸に触れたときの冷たさが、まだそこに残っている気がした。記録は嘘をつかない。そう信じてきたはずなのに、今日聞いた言葉のどれもが、記録という名の空白でしかなかった。
帰り道、川沿いの遊歩道を歩きながら、私はふと立ち止まった。対岸の柵の向こうで、誰かが釣り糸を垂れている。水面に落ちる影が、風もないのにゆっくりと揺れていた。理由のない揺れを見ていると、昨夜の郵便受けの口金の動きを思い出した。あれにも、理由などなかったのだろうか。それとも、私がまだ知らないだけの、確かな理由があるのだろうか。
602号室に戻ると、部屋の空気はまだ昨日と同じ、あの紙箱のような匂いを保っていた。冷蔵庫の脇のカレンダーを見る。黒い丸は、五つのまま増えてはいなかった。安堵よりも先に、私は数え直した。何度も、何度も。数えるたびに、指先の冷たさだけが、確かめるように戻ってきた。
← 横にスクロールして読み進められます
