第1話 段ボールと黒丸

ヴェルデ桜台のエントランスを抜けたとき、雨はまだ降っていなかった。けれど空気には、濡れたアスファルトの匂いが先に混じっていた。駅から八分歩いただけなのに、靴の中がひどく蒸れている。転職初日の帰りにそのまま新居へ向かったせいで、肩には仕事用の鞄、右手にはコンビニで買った洗剤の袋が食い込んでいた。
オートロックの扉が閉まる音を背中で聞き、私は一度立ち止まった。
鍵。財布。スマートフォン。
いつもの順番で確認してから、エレベーターのボタンを押す。指先に残った金属の冷たさが、妙に長く消えなかった。
六階で降りると、廊下の窓から薄い灰色の光が差していた。角部屋の602号室までは、十歩もない。足音がタイルの上で乾いて返ってくる。誰かが隣の部屋にいる気配はなかった。仕事帰りの時間なら、どこかでテレビの音や水道の音がしてもおかしくないのに、六階の廊下は、建物全体から切り離されたように静かだった。
鍵を差し込む前に、私はまた一度、番号を確かめた。
602。
契約書にも、スマートフォンに保存した入居案内にも、間違いなくそう書いてある。
ドアを開けると、冷えた空気が足首にまとわりついた。空室だった部屋の匂いではなかった。洗剤とも、黴ともつかない、長く閉じた紙箱のような匂いがした。壁紙は薄いベージュで、夕方の光を吸い込んでいる。床は掃除されていたが、素足で立ったら冷たそうだった。
引っ越し業者が置いていった段ボールは、壁際に二つだけ残っていた。食器、と油性ペンで書いた箱と、文具・衣類と書いた箱。どちらも箱の角が少しずつずれている。私は鞄を置くより先に、食器の箱を壁に対してまっすぐ押しつけた。もう一つの箱も、同じ幅だけ壁から離す。床に貼られた養生テープの跡が、斜めに残っていたので、そこだけは諦めた。
諦めた、という感覚が嫌だった。
新しい部屋では、最初から自分の手順を作りたかった。転職して、職場も通勤経路も変わった。今日一日、何度も社員証の向きを確かめ、共有フォルダの場所を覚え、知らない人たちの名前を間違えないようにしていた。生活の形が崩れたままでは、明日の朝に何を着て、何時に家を出ればいいのかさえ、ひどく不確かなものに思える。
だから、荷解きより先にカレンダーを出した。
以前の部屋から持ってきた、白いマグネット式のカレンダーだった。月ごとに紙を差し替えるタイプで、右端には小さなメモ欄がある。私は冷蔵庫の脇に貼りつけ、少し離れたところから水平を見た。右が二ミリほど下がっている。いったん剥がし、マグネットの位置を変えて貼り直した。
今月の欄に、明日の出勤時間と、週末の段ボール回収の日を書き込もうとして、ペン先が止まった。
黒い丸があった。
日付の数字を囲むのではなく、数字の横、曜日の欄でもなく、白い余白の決まった位置に押された丸だった。直径は一センチに満たない。濃い黒。ひとつだけなら、誰かが予定を消した跡か、マーカーの試し書きに見えたかもしれない。
しかし、同じ丸が、月の中にいくつもあった。
私はカレンダーを冷蔵庫から外した。裏に何か挟まっている可能性を考えたからだ。マグネットを一つずつ外し、紙を裏返す。何もない。冷蔵庫の側面にも、黒い汚れや書き込みは見当たらなかった。
紙を表に戻して、丸の数を数えた。
今月は四つ。来月は三つ。翌月は四つ。どれも同じ列に寄っている。日付の数字を基準にすると、毎月二十日前後の同じ曜日に近い。ただし、予定表のように整然と並んでいるわけではない。少しずつ位置が違う。それでも、同じ人間が同じ手順で付けたものだと分かる程度には似ていた。
私は仕事用の細字ボールペンを取り出した。
黒丸のひとつに、ペン先をそっと触れさせる。インクの表面は乾いているはずなのに、紙の奥から冷気が上がってくるようだった。丸の縁をなぞると、紙がわずかにへこんでいる。何度も同じ場所を押したのだろう。筆圧が強いというより、ためらいなく、同じ動作を繰り返した跡に見えた。
指先に黒がついた。
ペンのインクではない。黒丸のほうが、指に移ってきた。
私は反射的に手を引いた。黒い汚れは、乾いた煤のようではなく、湿った鉛筆の粉のように皮膚の細かな溝へ入り込んだ。ティッシュで拭いても薄く伸びるだけだった。水道で洗うと、黒はすぐ落ちたが、指先には冷たさだけが残った。
洗面所から戻ると、部屋はさっきより暗くなっていた。
窓の外では、向かいの建物の窓に順番に明かりが灯っている。誰かがカーテンを閉め、別の部屋では白いシャツの人影が横切った。都市の夕方は、ひとつひとつの生活がガラス越しに見えるのに、互いには届かない。その距離が、今日は心地よくなかった。
私はカレンダーの紙を新しいものに替えようとした。
予備の紙は、文具と衣類の箱の中に入れてある。箱を開けるため、カッターを取り出した。刃を出し、上面のテープを一文字ずつ切っていく。中には畳んだシャツ、筆箱、ファイル、手帳、収納用の小さなケースが詰まっていた。物にはすべて置き場所がある。ペンは長さ別、付箋は色別、ケーブルは用途別。分類してしまえば、知らない部屋でも少しは自分のものになる。
手帳を取り出したとき、背表紙の隙間から小さな紙片が落ちた。
見覚えのない紙だった。
白ではなく、日焼けした薄い黄色。長方形に切られているが、切り口はまっすぐではない。誰かが急いで破ったように、端が毛羽立っていた。
紙片には、黒い丸がひとつだけ書かれていた。
その下に、ひらがなが二文字ある。
――なお。
私は床にしゃがんだまま、しばらく紙片を拾えなかった。

自分の名前だと決めつけるには、字が幼すぎた。丸みのある、力の弱い文字。けれど「な」の最後の払い方に、見覚えがあった。小学生の頃、通信簿の連絡欄に書かれていた自分の字。母に渡した手紙の隅に残っていた、頼りない字。
私は紙片を裏返した。何も書かれていない。
いつから手帳に挟まっていたのか分からない。引っ越し前の部屋で、自分が挟んだ覚えはなかった。そもそも私は、紙片を手帳に入れるような雑な保管をしない。必要なものはクリアポケットに入れ、不要なものは捨てる。そうしてきた。
それなのに、手のひらの上に知らない字がある。
私は紙片を捨てず、机の引き出しに入れた。入れる前に、写真を撮った。撮影した時刻も手帳に記した。
十九時三十二分。
自分でも、そこまで記録する必要はないと思った。けれど、記録しないほうが落ち着かなかった。
カレンダーの黒丸も撮影し、丸の位置を数値にして書き留めた。紙の左端から何センチ、上端から何センチ。こうしておけば、明日以降に増えたかどうかが分かる。
写真を撮り終えたところで、玄関のチャイムが鳴った。
短く、ひとつ。
私は立ち上がった。予定外の訪問が苦手だった。引っ越し業者はもう帰ったし、契約関係の書類も受け取っている。宅配便の予定はない。スマートフォンを確認しても、通知は何も来ていなかった。
チャイムがもう一度鳴った。
今度は、さっきより音が小さかった。押されたというより、玄関の向こうで誰かが指を近づけ、触れる直前に離したような響きだった。
私は廊下へ出る前に、カレンダーを見た。
黒丸が一つ増えていた。
さっき撮った写真では、今月の丸は四つだった。写真を開いて確かめる。やはり四つ。目の前には、五つある。今まで白かった余白に、濡れたような黒が沈んでいた。新しい丸は、他のものより少しだけ大きく、輪郭が崩れている。
私はカレンダーに手を伸ばしかけて、止めた。
玄関の向こうで、何かが動いた気配がした。
ドアスコープを覗く。廊下には誰もいない。天井の照明が白く床を照らし、602と603の間にある消火器の赤だけが浮いている。正面の窓は黒い。ガラスに映った自分の顔が、実際より遅れて瞬きをしたように見えた。
私は鍵を開けなかった。
しばらくして、廊下の奥でエレベーターが動き出す音がした。低い機械音が壁を伝い、六階で止まる。扉の開く音。誰かの足音。けれど、その足音は602へ近づかず、エレベーターの前で途切れた。
沈黙のあと、玄関脇の郵便受けから、金属が擦れる音がした。
口金が、ゆっくり開いた。
私は息を止めた。部屋の内側にある郵便受けは、玄関ドアの下部に取りつけられている。外から差し込まれた郵便物が、薄い金属の蓋を押し上げて落ちてくる仕組みだ。だが今の音は、誰かが外から投函したものではなかった。蓋だけが、少しずつ持ち上がり、途中で止まり、また下がった。
カチ、という小さな音。
それから、紙が一枚、床へ滑り落ちた。
私は数秒間、動けなかった。
ようやく玄関へ近づき、しゃがんで紙を拾う。不在票だった。宛名には、私の名前ではなく、佐伯修一と印字されている。差出人の欄は空白。配達日だけが、今日の日付になっていた。
私はカレンダーを見た。
新しく増えた黒丸は、今日の日付の横にあった。
紙の裏面には、配達員が書いたものらしい走り書きが残っていた。
不在――ではない。
その文字は途中で細く途切れていた。書き手が急に手を止めたように、最後の一画だけが紙の端へ伸びている。
玄関の外から、再び口金の音がした。
今度は、部屋の内側ではなかった。
誰もいないはずの廊下で、郵便受けが開いた。
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