第9話 前の形

呼吸を合わせなかった。
部屋の奥で、何かがゆっくり息を吐いた。換気扇の音に似ていたが、機械の回転ではない。吸う前にわずかな間があり、吐き終えたあとにも、誰かが次の呼吸を待っているような沈黙が残った。
私は床の下へ差し込んだ紙から手を離した。
紙の端が、指先の皮膚に張りついている。剥がそうとすると、紙のほうがこちらへ引かれる感触があった。私は力を抜いた。白い紙は床の暗がりへ、ゆっくり沈んでいった。
「朝倉さん、今、何をしましたか」
凛の声が、電話の向こうから聞こえた。
「紙を、床の下へ入れました」
「触ったんですか」
「はい」
「どんな紙でしたか」
「名前と、日付が並んでいました。全部、朝倉悠真という名前です」
凛はすぐには答えなかった。電話の向こうで、彼女が何かを片づける音がした。机の上の物を一つずつ直線に揃えているのだろう。いつもなら、その几帳面な音に安心できた。今は、その音が部屋の奥から返ってくるのを待つように聞こえた。
「田所さんを知っていますか」
「誰ですか」
「前の部屋で、私に会いに来た人です。前の住人の知人だと言っていました。あなたの部屋にも、たぶん来ます」
「どうして分かるんですか」
「音が変わったからです」
凛の声が少し低くなった。
「今まで、部屋の中の音だけでした。換気扇、配管、家具を引く音。けれど、さっきから廊下の端で、誰かが鍵を選んでいる音がします。金属を一つずつ触って、合うものを探している音です」
その直後、玄関の外から、金属の触れ合う音がした。
ひとつ。
ふたつ。
細い鍵束が、誰かの手の中で擦れている。
私は玄関へ近づいた。壁時計を見る。針は、スマートフォンの時刻より十八分遅れていた。もう数字の差に驚くことはなかった。驚かない自分のほうに、恐怖を覚えた。
インターホンが鳴った。
一度だけ。
私は応答しなかった。
外から男の声がした。
「朝倉さん。いらっしゃいますよね」
落ち着いた、よく通る声だった。扉一枚を隔てているのに、声だけが部屋の中へ先に入ってくる。
「田所篤と申します。前の入居者の方から、少しお預かりしているものがありまして」
私はチェーンをかけたまま、扉を開けた。
廊下に、四十代の男が立っていた。濃紺のジャケットに、皺のない白いシャツ。身なりは整っているのに、視線だけが落ち着かない。私の顔を見たあと、玄関脇の棚へ移り、鍵皿、カレンダー、壁時計の順に確認していった。
その目の動きは、部屋の状態を見ているというより、決められた位置に物が戻っているかを点検しているようだった。
「田所さん、という方に心当たりはありません」
「そうでしょうね。前の方も、最初は私を知りませんでした」
「前の入居者の知人だと聞きました」
「そう名乗っています」
田所は口角だけを上げた。笑ったというより、相手がその言葉に引っかかったことを確認したような表情だった。
「知人ではないんですか」
「知人でした。今は、少し違います。朝倉さんは、前の方のことをどこまでご存じですか」
「何も知りません。管理会社に聞いても、急な退去だったとしか言われなかった」
「では、あなたは、何を見ましたか」
質問に質問で返され、私は扉の隙間から彼を睨んだ。
「答えるのはあなたでしょう」
「そう思いますか」
「あなたは、前の入居者の知人だと言った。なら、その人がいつ出て、なぜ出て、何を残したのかを話してください」
「話せば、信じますか」
「信じるかどうかは、私が決めます」
田所の表情から、わずかに余裕が消えた。彼は喉を一度鳴らし、手にした古い革の手帳を、廊下の壁と平行に揃えた。
「それは、朝倉さんの得意なやり方ですね。物を並べて、順番を決めて、最後に自分が判断する。前の方も同じでした」
「前の方も、私と同じだったんですか」
「同じではありません。似ていました。部屋へ入った者は、みな最初に自分の形を作ろうとします。鍵を置く場所、寝る向き、冷蔵庫の中身、時計の合わせ方。生活は自分のものだと確認したいからです」
田所はそこで言葉を切り、私の背後へ目を向けた。
「でも、部屋には先に形がある。新しく入った人は、自分の形を作っているつもりで、前の形をなぞっているんです」
「そんなもの、ただの癖でしょう」
「そう言い切れますか」
「言い切れます。私が鍵皿を置いた場所も、缶コーヒーを並べた順番も、私が決めた」
「では、なぜ戻したんです」
指先が冷えた。
田所は、私が答えられない間を待っていた。凛が言っていた。音の向こう側にいるものは、返事を待つ。言葉にしたものを残す。田所も同じように、私が自分の口から何かを認める瞬間を待っている。
「戻した?」
「鍵皿を元の位置へ。缶を賞味期限の順へ。時計を正しい時刻へ。あなたは何度も、部屋の中のものを直している。けれど、直したあとに、いつも元へ戻される。あなたが乱したからではありません。前の形から外れたからです」
「前の形というのは、誰の形ですか」
「さあ」
田所は答えを濁した。
「前の住人でしょうか。もっと前の住人でしょうか。それとも、住人がいなくなるたびに残っていく、生活そのものの形でしょうか。朝倉さんは、何を知りたいんです。誰がこの部屋を動かしているのか。それとも、自分が誰なのか」
私は扉を閉めようとした。
田所が手を伸ばし、ドアノブには触れずに、扉の縁だけを押さえた。力は強くない。だが、閉じようとすると、なぜか扉が動かなかった。
「あなたは、この部屋に来るのが初めてではありません」
「嘘です」
「そう思うなら、なぜこの鍵を持ったとき、三回確認したんですか」
「癖です」
「癖は、どこで身についたんでしょう」
「黙ってください」
「朝倉さん。あなたの名前が並んだ紙を見たでしょう。あれは契約書ではありません。部屋が覚えている住人の一覧です。名前は同じでも、日付が違う。顔も、仕事も、持ち物も違う。けれど、部屋に入った人間は、最後には似た手順を身につける。前の人間の生活を覚え、次の人間へ渡すために」
「なら、私は何なんですか」
声が自分のものではないように響いた。
「今ここにいる私は、誰なんですか。転職して、地方から出てきて、この部屋を借りて、毎朝会社へ行こうとしている。写真も、手帳も、母からの手紙もある。全部、私のものです。それなのに、あなたは私が前にもここにいたと言う。証拠はどこにあるんですか」
「証拠は、あなたが捨てたものの中にあります」
「何を」
「思い出せなかった時間です」
田所の言葉が、部屋の奥へ落ちた。
換気扇が低く唸った。音の中に、二つの呼吸が混じった。ひとつは私のものではない。もうひとつは、電話の向こうで凛が息を止めた音だった。
「田所さん」
凛の声が、スピーカーから漏れた。
「何をさせるつもりですか」
田所は私の手元のスマートフォンを見た。
「西園寺さん。あなたはまだ、部屋の外にいるんですか」
「あなたに関係ありません」
「関係ありますよ。あなたは前の部屋から逃げたあと、何人の住人を見ましたか。見て、何もしなかったでしょう」
「……あなたも同じです」
「ええ。だから、分かるんです。何もしないことは、何かを選ぶことです」
凛の沈黙が、電話の向こうで長く続いた。
田所は声を落とした。
「あなたは、前の人を助けられなかった。私は、助けようとした。けれど、途中でやめた。その結果、私はこの部屋の順番を見届ける側になった。誰かが入れば、変化を確認し、次へ渡す。そうすれば、少なくとも完全に消えることはないと思ったんです」
「誰が消えたんですか」
私は訊いた。
「前の住人ですか。それとも、あなた自身ですか」
田所の口元から笑みが消えた。
「朝倉さんは、思ったより早い」
「答えてください」
「あなたは、以前ここにいました。名前は今と同じだった。いや、同じ名前に戻されたのかもしれない。あなたは一度、部屋の記録を全部剥がそうとした。カレンダーを破り、鍵皿を割り、時計を捨てようとした。けれど、最後に一つだけ残した」
「何を」
田所は革の手帳から、折り目のついた紙を取り出した。
赤い汚れのような滲みが、紙の片隅に残っている。そこには、私の筆跡に似た文字で、短く書かれていた。
次の人に、知らせる。
私は紙を受け取ろうとした。田所はすぐには渡さなかった。

「知らせるために、何をしたんですか」
「カレンダーに印を付けた」
「それで、次の人が助かると思ったんですか」
「思いました。印の日付を追えば、部屋の変化に気づける。記録を残せば、上書きに抗える。そう信じたんです」
「なら、なぜ私を止めるんです」
「止めていません。確かめているだけです」
「同じことです」
「違います。私は、あなたが記録を残せる人間かどうかを見ています。名前を書いた紙を床下へ差し込んだ。あれは、部屋に渡した記録です。あなたの字と声と手順が、部屋の中へ入った。もう戻せません」
胸の奥で、何かが崩れた。
自分を守るために書いていた手帳が、部屋へ自分を預けるための容器だった。記録すればするほど、自分の生活は固定され、その固定された形を、部屋は正確に再現できるようになる。
凛が電話の向こうで言った。
「朝倉さん、手帳を捨ててください」
「でも、記録が」
「記録を残すことと、記録に残されることは違います。あなたは今まで、同じだと思っていた。だから部屋に利用された」
私は机の上の手帳を見た。
表紙のラベルは、半分剥がれている。朝倉悠真の文字が、中央から裂けていた。下の紙に、別の筆跡が重なっている。私の名前なのに、私が書いたものではないように見えた。
「田所さん。あなたは、前の人に何を渡したんですか」
「鍵です」
彼はポケットから、古い鍵束を取り出した。使われなくなった鍵が三本、細い輪に通されている。
「返されなかった鍵です。部屋を出た人間は、鍵を返す。返せない人間は、次の誰かに渡す。私は何度も、それを受け取りました」
「あなたも、この部屋に住んでいた?」
「ええ。ずいぶん前に」
「なぜ、今もここに関わっているんですか」
「関わっているのではありません。残っているんです」
田所は鍵束を握りしめた。
「部屋を出ても、前の形を持ち出した人間は、完全には外へ出られない。私は何度も引っ越しました。けれど、鍵皿の位置や時計の遅れを見つけると、ここへ戻ってきてしまう。前の住人を見届けるためではありません。自分がまだ自分であると、確認するためです」
田所の声には、初めて疲労が滲んだ。人を試すことでしか、自分の位置を確かめられなくなった人間の疲れだった。
私は扉を閉めた。
田所は抵抗しなかった。廊下に立ったまま、鍵束を握っている。
「田所さん」
「はい」
「私は、ここから出ます」
「出られると思いますか」
「出るかどうかを、部屋に決めさせない」
私は玄関の鍵皿を手に取った。白い陶器の底に、細かなひびが走っている。二枚の十円玉を掴み、床へ落とした。硬貨は転がらず、玄関の隅で立ったまま止まった。
カレンダーを外す。
赤丸の付いた紙を、破らずに二つ折りにした。印を消すためではない。捨てるためでもない。私はそれを、机の上の写真の下へ置いた。
写真の中の私の背中が、こちらを見ているように感じた。
「それを持って出るんですか」
田所が訊いた。
「持っていきません」
「では、何を残すんです」
「私が見たという事実だけです」
凛が、電話の向こうで静かに息を吸った。
「朝倉さん、名前を言ってください」
「朝倉悠真」
「誰の名前ですか」
「私の名前です」
「ここにいるあなたは、誰ですか」
私は部屋を見回した。
壁時計。鍵皿。赤い丸。机の上の写真。床下へ沈んだ紙。生活の形を作るために持ち込んだ物が、いつの間にか私を囲む順番になっている。
「私は、この部屋に住んでいた人間ではありません」
そう言った瞬間、換気扇が激しく回った。
風は出ていない。なのに、カーテンが膨らみ、机の上の写真が床へ落ちた。壁時計の針が一気に進み、スマートフォンの時刻へ追いつく。遅れが消えた。
同時に、玄関の外で田所が息を呑んだ。
「違います」
彼が初めて、はっきりと否定した。
「あなたは、もう前の住人です。そう言わなければ、部屋はあなたを――」
「前の住人になることと、前の形になることは違う」
私は扉越しに言った。
「私はここにいたかもしれない。何度も来たかもしれない。誰かの生活を引き継いだのかもしれない。でも、それを私の現在にするかどうかは、私が決める」
「決められません」
「それを決められないと言う人間が、次の人間を部屋へ送っている」
田所は黙った。
「あなたは、前の人を助けられなかったと言った。だから次の人を同じ場所へ立たせて、自分だけが順番を知っている側にいた。井口さんも、記録を残さずに帳尻を合わせている。みんな、部屋を管理しているつもりで、部屋の順番を守っているだけだ。私も同じだった。物を整え、記録を残し、正しい場所へ戻していれば、自分を守れると思っていた」
私は手帳を開いた。
最後のページに、震える字で書かれた文章がある。
私は朝倉悠真である。
その下に、もう一行。
この部屋は、私のものではない。
私はペンを置いた。
書き足さなかった。訂正もしなかった。正しい答えを完成させることをやめた。
部屋の中から、誰かが机を引く音がした。
一度。
二度。
三度。
私は数えなかった。
音は四度目を待ったまま、止まった。
凛の声がした。
「朝倉さん。今、何が聞こえますか」
「生活音です」
「それだけですか」
「それ以上の名前を、付けません」
私はカレンダーを棚へ戻した。赤丸の日付を表に向けたまま、鍵皿の横へ立てかける。皿は中央より少し右にある。私は直さなかった。
壁時計も、合わせなかった。
机も、写真も、床下の紙も、そのままにした。
朝になった。
窓の外から、通勤する人々の足音が聞こえた。隣室で凛がドアチェーンを外す音がした。田所の気配は、いつの間にか廊下から消えている。
私は玄関を開けた。
今度は、足裏に廊下のリノリウムの冷たさがあった。灰色の床。白い蛍光灯。隣室のドア。外へ出られる。
振り返ると、部屋の中は暗かった。
棚の上に、赤い丸の付いたカレンダーだけが残っている。鍵皿は、私が最後に置いた位置のままだった。壁時計は、スマートフォンより三分遅れている。
凛が隣の扉を開けた。
「出られたんですね」
「はい」
「何を持って出たんですか」
私は鞄を見た。財布、スマートフォン、社員証。黒い手帳は、部屋の机の上に置いてきた。
「記録は、置いてきました」
「それでいいんですか」
「分かりません」
以前なら、その言葉を聞いただけで、何かを決めるまで動けなくなっていた。だが今は、分からないまま歩き出すことができた。
廊下の先で、エレベーターが開いた。
中の鏡に、私の姿が映る。疲れた顔をしている。けれど、写真の中で丸まっていた背中とは少し違っていた。
私はエレベーターへ乗り込んだ。
扉が閉じる直前、部屋の奥から換気扇の音が聞こえた。
その唸りの中に、誰かがゆっくり息を吸う間があった。
私は振り返らなかった。
扉が閉まり、鏡の中の私だけが、最後までこちらを見ていた。
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