10話 返却されない鍵

エレベーターが一階に着くまで、私は鏡を見なかった。

見れば、また自分だけがこちらを見ている気がした。背中を向けて立っている私ではなく、鏡の中でこちらを待っている私。振り返らない限り、どちらが本物なのかを決めずに済む。

扉が開いた。

ロビーには、朝の湿った空気が流れ込んでいた。自動ドアの向こうを、傘を閉じる人や、コンビニの袋を提げた人が行き交っている。マンションの外へ出ても、世界は何も変わらなかった。車の音。信号機の電子音。遠くで鳴る工事の金属音。

私は一歩、外へ出た。

その瞬間、ポケットの中で鍵が鳴った。

私は反射的に手を入れた。部屋の鍵が一本。見慣れた銀色の鍵だ。けれど、昨日まで付いていた青い目印がなくなっている。代わりに、鍵の根元に赤い汚れのような線があった。

私はそれを指で擦った。

汚れは落ちなかった。

「朝倉さん」

背後から声がした。

凛が、マンションのエントランスに立っていた。髪を低くまとめ、片手にスマートフォンを持っている。眠れていないのか、目の下に薄い影があった。

「ずっと外にいたんですか」

「いいえ。あなたが出てくるまで、部屋にいました」

「部屋に?」

「自分の部屋です」

凛はそう言ってから、少しだけ視線を逸らした。

「あなたが出たあと、隣から音がしました」

「何の音ですか」

「鍵を置く音です」

胸の中が冷えた。

「私の部屋から?」

「はい。あなたが玄関を開けて出た直後です。鍵皿に、何かを置く音がしました」

「部屋には何も置いていません」

「分かっています。だから、確認しませんでした」

凛はスマートフォンの画面を見せた。録音アプリが開いている。再生すると、まず廊下を歩く私の足音が聞こえた。次に、エレベーターの扉が閉まる音。私が外へ出たあとに拾われたはずの、マンションの外の車音。

その奥で、陶器が触れ合った。

かすかな音だった。

鍵皿に鍵を置く音。

続いて、机を引く音がした。

一度。

二度。

三度。

私は再生を止めた。

「部屋に戻るつもりはありません」

「戻れと言っていません」

「そういう顔をしています」

「どんな顔ですか」

「私が戻るのを待っている顔です」

凛はしばらく私を見た。否定しなかった。

「管理室へ行きましょう」

「井口さんのところへ?」

「はい。あなたの部屋の記録を、最後に確認します」

「記録なら、もう信じません」

「信じる必要はありません。照合するだけです」

凛の言葉は、以前の私なら好んだはずのものだった。記録と記録を並べ、違いを見つけ、正しい順番へ戻す。けれど今は、その作業自体が部屋の手順に見えた。

それでも、私は管理室へ向かった。

ひかり通商マンション管理室のドアは開いていた。井口美帆はいつもの机に座り、書類の角を揃えていた。こちらを見ると、立ち上がらずに微笑んだ。

「おはようございます、朝倉様。お引っ越しは無事にお済みでしょうか」

私は足を止めた。

「済んでいません」

「そうですか」

「部屋から出ただけです」

井口はペンを置いた。机の上には、私の部屋の鍵と同じ形をした鍵が一本、白い封筒の上に置かれていた。

「退去のお手続きでしたら、事前のご連絡が必要になります」

「私は退去するなんて言っていません」

「ですが、今朝、退去立会いの記録が上がっています」

井口はファイルを開いた。

そこに、朝倉悠真の名前があった。

入居日。引越し当日の日付。

その下に、退去予定日。今日の日付。

私は紙を奪うように掴んだ。署名欄には、私の筆跡がある。黒いボールペンで書かれた名前。最後の「真」の横線が、少しだけ上へ跳ねている。

「これは偽物です」

「そうでしょうか」

「私は書いていません」

「では、どなたが書いたのでしょう」

井口は問い詰める声ではなかった。事実を確認する声だった。そのことが、かえって腹立たしかった。

「部屋を出たのは今朝です。退去を決めた覚えはない。荷物も部屋に残っています」

「荷物は、残ることがあります」

「何の話ですか」

「人が先に出て、生活だけが残ることです」

凛が一歩、前へ出た。

「井口さん。朝倉さんの入居記録を、最初から見せてください」

「個人情報が含まれますので」

「本人がここにいます」

「本人であることを、何で確認しますか」

凛が黙った。

井口は私の顔を見た。視線が、目から口元へ、それから手に移る。私の右手には、部屋の鍵が握られていた。

「鍵をお預かりします」

「渡しません」

「返却が必要です」

「まだ住んでいます」

「では、どこに住んでいるのですか」

言葉が詰まった。

私はマンションの外にいる。部屋は中にある。だが、部屋に戻れば、そこで誰かが私の生活を続けている。私はどこにいるのか。

凛が、私の手首を掴んだ。

「鍵を置いてください」

「あなたまで」

「置くんです。渡すのではなく、ここに置いてください」

管理室のカウンターに、鍵を置いた。

金属音がした。

その音に、私は覚えがあった。

玄関脇の鍵皿へ、鍵を置く音。

けれど、ここには皿がない。

井口の机の下から、同じ音が返ってきた。

ひとつ。

遅れて、もうひとつ。

凛の指が、私の手首から離れた。

管理室の奥で、紙をめくる音がした。

井口はファイルを閉じた。

「朝倉様」

「何ですか」

「お部屋へお戻りになりますか。それとも、こちらの鍵を返却されますか」

私はカウンターの上の鍵を見た。

赤い線が、以前より濃くなっている。

そのとき、ポケットの中でスマートフォンが震えた。画面には、知らない番号から一件のメッセージが届いていた。

添付された写真には、私の部屋の玄関が写っている。

鍵皿の中に、一本の鍵が置かれていた。

写真の端に、黒い手帳がある。

開かれた最後のページには、私の字でこう書かれていた。

朝倉悠真は、退去しました。

私は画面を消した。

管理室の奥から、換気扇の音が聞こえた。

この建物には、管理室に換気扇などないはずだった。

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返却されない鍵 - 入居上書き - 誰でも作家life