第8話 録音の中の空白

足音が、私の部屋の前で止まった。
ドアスコープの丸い視界には、誰の姿もなかった。白い蛍光灯と、灰色の廊下と、向かいの壁に貼られた消火器の案内だけが映っている。凛が来ると言っていた。だから、そこに立っているのは彼女のはずだった。
けれど、足音は一人分ではなかった。
ひとつが止まったあと、そのすぐ後ろで、もうひとつの足音が止まった。床を踏む間隔は同じで、音の強さも同じだった。誰かの後ろを誰かが歩いているのではない。先に歩いた足音を、別の何かが同じ場所でなぞっている。
私はドアから手を離した。
外から、凛の声がした。
「朝倉さん。聞こえていますか」
「はい」
返事をした瞬間、私の声が扉の向こうから返ってきた。
「はい」
凛の声ではなかった。低く、少し遅れている。録音を再生したような平坦さもない。私が今出した声を、誰かが同じ形で口にしたような響きだった。
廊下の向こうで、凛が息を止めた気配がした。
「今の、私ではありません」
「分かっています」
「ドアは開けないでください」
「あなたがそこにいるなら、開けてもいいんじゃないですか」
「今、私はあなたの部屋の前にいません」
短い沈黙が落ちた。
私はもう一度、ドアスコープを覗いた。廊下には何もない。だが、さっきまで消火器の赤い箱があった場所に、見覚えのない白い棚が見えた。玄関脇の備え付け棚と同じ幅で、同じ高さだった。上には、私の鍵皿が置かれている。
私は反射的に背後を振り返った。
玄関脇の棚にも、鍵皿がある。
白い陶器の皿が、部屋の内側と廊下の両方に存在していた。
「朝倉さん、今、何が見えていますか」
凛の声が、今度は電話から聞こえた。いつの間にか通話が繋がっている。私はスマートフォンを耳に当て、ドアスコープから目を離さなかった。
「廊下に、棚があります。私の部屋の棚と同じものです」
「見ないでください」
「見ないでと言われて、見ないでいられると思いますか」
「あなたは、そうやって確認することで、まだ自分を保っている。でも、今は確認したものが現実にあるとは限らない。見えたものを記録するのは必要です。ただ、それを自分の生活に入れないでください。名前を付けたり、触ったり、正しい場所へ戻そうとしたりしないで」
「戻そうとするなと言われても、私はそうしないと――」
言葉が止まった。
そうしないと、何なのか。
落ち着かない。気持ちが悪い。手順が崩れる。これまでなら、そのどれかで済んだ。だが今は、物の位置を戻すことが、自分の輪郭を戻すことと同じになっていた。皿を正しい場所へ置けば、私は私でいられる。時計を合わせれば、私の時間が戻る。写真を日付順に並べれば、私の過去が繋がる。
その考え自体が、誰かに教え込まれた手順かもしれなかった。
「朝倉さん」
「はい」
「今から録音を流します。音だけを聞いてください。見えるものは、私が確認します」
凛の声は小さかった。けれど、これまでにないほど明確だった。
ドアの向こうから、スマートフォンの再生音が漏れてきた。
最初に聞こえたのは、換気扇の低い唸りだった。音は一定ではない。回転が膨らみ、沈み、また膨らむ。壁の中で機械が古い息をしているようだった。その奥に、排水管を水が通る音が重なっている。遠くでは車が走り、タイヤが濡れてもいない路面を擦っていた。
私はその音を知っていた。
この部屋で、毎晩聞いていた音だった。
けれど、録音の中では、私が聞いてきたものとは少し違っていた。音の一つひとつが、薄い膜に包まれている。換気扇と配管と車の音が一つの生活音として混ざるのではなく、順番を与えられた部品のように、交互に現れては消える。
換気扇。
配管。
車。
沈黙。
換気扇。
配管。
車。
沈黙。
私は無意識に、指で太腿を叩いていた。四つの間隔。次も同じだと思った。
しかし、三巡目で音がひとつ抜けた。
換気扇。
配管。
車。
何もない。
次の換気扇の音が来るはずだった。だが、その間だけ、録音が薄くなる。音量が下がったのではない。そこにあった時間そのものが、切り取られている。
私は息を止めた。
空白の中で、誰かが息を吸った。
小さな音だった。喉の奥が震えるような、湿った吸気。私は自分の肺が動いていないことを確かめた。息を止めている。なのに、録音の中の何かは、私の呼吸を待つように、ゆっくりと息を吸い込んだ。
「ここです」
凛の声がした。
「今、少しだけ間がありました」
「分かりません」
「分からなくてもいいです。分からないことを、分かったことにしないでください」
凛は録音を巻き戻した。指が画面をなぞる小さな音まで、扉越しに聞こえる気がした。
「もう一度、流します」
同じ箇所が再生された。
換気扇。
配管。
車。
空白。
息。
私は今度、目を閉じた。
暗闇の中で、古いものが一つずつ浮かび上がった。地方の部屋で使っていた目覚まし時計。角の欠けた文字盤。退職前に同僚から渡された黒いボールペン。昼休みに、何度も同じ書類の端を揃えた指先。母から届いた封筒。転職祝いに買った腕時計。
どれも、持ち物としては覚えている。
しかし、それをいつ、どこで使ったのかが分からない。
目覚まし時計を止めた朝。ボールペンで退職届を書いた机。封筒を開いた夜。腕時計を初めて着けた駅のホーム。場面を思い出そうとすると、必ず途中で音が消える。記憶の内容が失われたのではなく、記憶と記憶の間にある時間だけが、誰かに抜き取られている。
「今、何を考えていますか」
凛に問われ、私はすぐには答えられなかった。
「物のことです。自分の持ち物を思い出しています」
「名前を言えますか」
「目覚まし時計。ボールペン。封筒。腕時計」
「それだけですか」
「……朝倉悠真」
自分の名前を口にした。
扉の外で、凛が小さく息を呑んだ。
「もう一度」
「朝倉悠真です」
「今、誰に向かって言いましたか」
「凛さんに」
「私は、あなたの前にいません」
その言葉に、喉の奥が冷えた。
「でも、声が聞こえます」
「電話の向こうです。玄関の外ではありません」
私はスマートフォンを見た。通話時間は、いつの間にか七分を超えている。ドアの向こうから聞こえる凛の声と、電話から聞こえる凛の声が、わずかにずれていた。
片方が話す。
少し遅れて、もう片方が同じ言葉を繰り返す。
「朝倉さん」
「はい」
「今、私の声が二つ聞こえていますね」
「はい」
「先に聞こえたほうが、私です。遅れて聞こえたほうは、返事をしないでください」
「どうして」
「それが、音の向こう側にいるもののやり方だからです。聞いた音を、少し遅らせて返す。返事をすると、その音があなたのものとして残る」
私は笑いそうになった。恐怖で、笑うしかない時がある。だが、口元は動かなかった。
「凛さんは、前の部屋でも同じことを?」
「はい。最初は自分の足音でした。歩くと、少し遅れて同じ足音が返ってくる。次に、椅子を引く音。水道をひねる音。最後は、自分が言った言葉です」
「何と言われたんですか」
「出ていく、と言いました」
「それが返ってきた?」
「はい。自分の声で、同じ言葉が返ってきました。だから、出ていけなくなりました」
凛の声が少し掠れた。
「出ていくと言った自分の声を、部屋が覚えたんです。そのあと、私は何度も同じ言葉を言いました。言えば言うほど、自分の声が薄くなった。最後には、私が話しているのか、部屋が返しているのか、分からなくなりました」
「それで、引っ越したんですね」
「はい。荷物を全部捨てて、名前も変えようと思いました。でも、名前は変えませんでした。変えたら、誰かに渡したことになる気がしたので」
凛の言葉が、私の胸の奥に残った。
名前を渡さない。
私は黒い手帳を机の上に置いていた。表紙の中央に、自分の名前を書いたラベルが貼ってある。朝倉悠真。入居初日に、新しい生活を始める記念として貼ったものだ。
そのラベルが、少し浮いていた。
私は近づいて、指で押さえようとした。
「触らないでください」
凛の声が飛んできた。
「今、何か動きましたか」

「手帳のラベルが剥がれています」
「触らないで。見えたことだけ、言葉にしてください」
「でも、剥がれたら名前が消えます」
「名前は、紙に貼ってあるものではありません」
「そんなことは分かっています」
「分かっているなら、どうして今、貼り直そうとするんですか」
私は答えられなかった。
部屋の中で、短い擦過音がした。
机の脚を引きずる音だった。
しかし、机は動いていない。音だけが、机の下から聞こえる。私は息を止めた。凛も同時に黙った。
擦過音は一度。
少し間を置いて、二度。
それから三度。
私が以前から数えていた音の間隔だった。
だが今回は、その音が壁の向こうではなく、私の足元から聞こえている。
「朝倉さん、今の音を聞きましたか」
「はい」
「何回ですか」
「三回」
「違います」
凛の返事は、すぐだった。
「四回です。最後の一回が、あなたには聞こえていない」
私は床を見た。
机の下の暗がりに、何か白いものがあった。紙の端のように見える。手を伸ばしかけて、止めた。カレンダーではない。紙は細長く、日付のような数字が並んでいる。古い名簿か、領収書か、あるいは私の手帳から切り取られたページ。
その紙の端に、赤い丸があった。
私は目を逸らし、スマートフォンのカメラを起動した。手を伸ばさず、床に向けてシャッターを切る。
画面には、机の下と紙の端が映った。
しかし、そこに書かれていた名前を見た瞬間、私はカメラを落としそうになった。
紙には、私の名前があった。
朝倉悠真。
その下に、同じ名前がもう一つ。
さらにその下にも。
筆跡は少しずつ違っていた。漢字の払い、名前の間隔、最後の「真」の横線。けれど、どれも私の名前だった。日付だけが違う。何年も前の日付が並び、最後の一行には、今日の日付が記されている。
赤丸は、今日の日付の横に押されていた。
「凛さん」
「見えましたか」
「私の名前が書かれています」
電話の向こうで、凛が黙った。
「何人分ですか」
「分かりません。何人もあります。でも、全部、朝倉悠真です」
「名前が同じなのではなく、同じ名前にされた可能性があります」
「そんなこと、あるわけが」
「あなたは、今まで何回、引っ越しましたか」
質問の意味が分からなかった。
「今回が初めてです。地方の家を出て、東京へ来ました」
「その地方の家に、何年住んでいましたか」
「……十年くらいです」
「十年前より前は?」
記憶が途切れた。
私は地方の家にいた。学校へ通い、働き、退職し、東京へ来た。その間のことは覚えている。だが、十年前のさらに前に、どこにいたのかが思い出せない。
私は母の顔を思い浮かべた。母から届いた封筒。地方の住所。子どもの頃の写真。すべてある。なのに、母と暮らしていた家の間取りが、どうしても浮かばなかった。
代わりに、玄関脇の棚が浮かんだ。
白い壁。
鍵皿。
赤い丸の付いたカレンダー。
私はその部屋を、以前にも知っている。
「朝倉さん?」
「昔、この部屋に来たことがある気がします」
「いつですか」
「分かりません。でも、鍵皿を置く場所を知っていた。時計が三分遅れることも、初めから知っていたのかもしれません。だから、直そうとした。違和感を見つけたんじゃない。知っていたものを、忘れたふりをしていた」
床の下から、もう一度、擦過音が聞こえた。
今度は四回だった。
私はその四回目を、はっきり聞いた。
机の脚を引く音のあとに、紙をめくる音が重なる。誰かが私の名前の並んだページを、ゆっくりとめくっている。
「凛さん。録音を止めてください」
「止めたら、音が残りません」
「もう十分です」
「残さないと、あなたの記憶から消えます」
「消えたほうがいい記憶もあります」
言ってから、自分の声が誰のものか分からなくなった。
私はこれまで、忘れたくないから記録してきた。忘れたら自分が壊れると思った。だが、記録することで、部屋に自分の声や手順を渡していたのだとしたら、私の几帳面さは抵抗ではなく、餌だった。
凛が静かに言った。
「朝倉さん。今から、あなたの名前を三回言ってください。ただし、録音に合わせないで。自分の声だけで」
「分かりました」
「朝倉悠真」
私は一度、名前を言った。
録音の中で、少し遅れて声が返った。
「朝倉悠真」
私は二度目を言った。
今度は、返事がなかった。
空白だけが残った。
換気扇の唸りも、排水管の音も、車の走行音も、その一瞬だけ消えていた。私の声だけが、どこにも戻ってこない。
「今です」
凛が言った。
「返ってこなかった声は、まだあなたのものです」
私は三度目の名前を口にした。
「朝倉悠真」
すぐに、部屋の奥から擦過音がした。
一度。
二度。
三度。
四度。
それから、私の声で、名前が返ってきた。
「朝倉悠真」
壁時計の秒針が動いた。
私はもう、遅れを確認しなかった。
机の下の紙から目を離し、玄関脇の棚を見た。赤丸のカレンダーが、いつの間にか棚の中央に立てかけられている。今日の日付の横に付いていた印は、二重になっていた。
扉の向こうで、凛が息を呑む。
「朝倉さん。今、何が見えていますか」
私は答えようとした。
だが、先に部屋の奥から声がした。
「何かございましたら、管理室までお電話ください」
井口美帆の声だった。
次に、凛の声が続いた。
「聞こえたものを、聞こえたまま残します」
最後に、私自身の声が重なった。
「この部屋に、私の知らない手順がある」
私は目を閉じた。
声の数を数えようとしたが、数えるたびに一つ増えた。名前を呼ぶ声、鍵を置く音、時計の遅れ、換気扇の息。部屋に残されたものが、私の記憶を使って、私の生活を組み立てている。
それでも私は、手帳を開いた。
新しいページに、震える字で書いた。
私は朝倉悠真である。
その下に、もう一行書く。
この部屋は、私のものではない。
ペン先を置いた瞬間、机の脚が床を擦った。
一度。
二度。
三度。
四度。
五度目の音が鳴る前に、私はページを破った。
紙を丸めず、折らず、赤い丸の付いた床の下へ差し込む。
部屋の奥で、誰かが息を吸った。
私はその呼吸に合わせなかった。
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