第7話 遅れた朝

目を開けた瞬間、私はまず匂いを疑った。
乾いた埃と湿った壁紙、これまで幾度となく嗅いできたこの部屋の匂いに、今朝はもう一段階、水の底のような重さが混じっていた。息を吸い込むと、喉の奥にひやりとした感触が残る。カーテンの隙間から差し込む光は、いつもの朝と変わらず白かった。だが、その光が届く範囲だけが妙に浅く、部屋の奥にはまだ夜が居座っているように見えた。
壁時計を見た。
長針と短針は、私のスマートフォンの表示より十二分も遅れていた。三分から始まったずれが、ここまで来た。数字を確かめながら、私は自分の心拍が一段階速くなるのを感じた。十二分という数字そのものより、それが徐々に増えてきた経過のほうが恐ろしかった。壊れた時計なら、遅れは一定であるべきだ。だが、この時計は明らかに、何かに合わせて遅れを深めている。
換気扇は止まっていた。スイッチにも触れていない。なのに、部屋の空気には、まだ何かが回転したあとのような、薄い渦の気配が残っていた。天井の隅に目をやると、そこだけ空気が澱んでいるように見える。錯覚だと自分に言い聞かせても、肌がその澱みを覚えていた。
布団を出て、まず玄関脇の棚を見た。
鍵皿が反対を向いていた。
昨夜、私は皿の縁に指で触れ、位置と角度を確かめてから眠りについた。鍵の持ち手を左に、十円玉を奥に。それが、この部屋に来てから積み重ねてきた、私だけの手順だった。だが今、皿は百八十度近く回転し、鍵の持ち手は右を向いている。皿の縁に沿って薄く積もっていた埃の筋までもが、なぞり直されたように逆の弧を描いていた。
誰かが、丁寧に、時間をかけて、位置を戻したのだ。
戻した、という言葉が頭に浮かんだ瞬間、背筋の産毛が逆立った。乱したのではない。戻された。私が積み上げてきた秩序のほうが、実は誰かの秩序を乱していたものとして扱われている。
私は部屋の中を一周した。
ベッドは壁際へわずかに寄っていた。数センチのことだが、私が寝る位置からすれば、確かに違う。机の上のメモ帳は、私が最後に書いた最新のページではなく、入居初日に書きつけた最初のページが開かれていた。インクの色は同じ黒だが、そこに並んだ文字の角度が、心なしか丸みを帯びて見えた。
冷蔵庫の扉には、昨夜にはなかった水滴が並んでいた。結露にしては数が多すぎ、しかも扉の縁に沿って規則正しく並んでいる。指で拭うと、冷たさの奥にぬめりのようなものが残った。棚の上のラベルシールは、私が几帆面に貼った位置から半分だけ浮き上がり、剥がれかけの端が小さく震えているように見えた。
窓を開けると、外の朝は普通だった。隣のビルの壁に、乾いた光がまっすぐ落ちている。車の音、駅の方角から届く踏切の警報、誰かの自転車のブレーキ音。世界は変わらず動いていた。なのに、室内だけが、まだ昨夜の続きを生きていた。
私は棚のカレンダーを見た。
最後の赤丸が、今日の日付に重なっていた。二重丸ではない。だが、これまでの単なる印よりも、輪郭が濃かった。まるで、誰かが何度もなぞり直して、その日を待ち構えていたかのように。
出勤の支度をする気にはなれなかった。だが、部屋にとどまることも、同じくらい恐ろしかった。私は鍵と財布と社員証を確かめ、扉に手をかけた。
一度。
鍵を確認する。
二度。
取っ手を引く。
三度。
施錠されていないことを確かめる。
扉を開けた瞬間、私は動きを止めた。
廊下は、いつもの廊下だった。蛍光灯、灰色のリノリウム、隣室のドア。だが、視線を奥へ向けたとき、廊下の突き当たりの壁とドアの並びが、なぜか自分の部屋の内部と同じ配置に見えた。冷蔵庫の位置に相当する場所に、掃除用具入れの扉があり、机の位置に相当する場所に、消火器の赤いボックスがある。廊下という一本の通路のはずなのに、それは私の部屋の間取りを引き延ばしたもののように見えた。
試しに一歩、外へ踏み出した。
足の裏に触れたのは、廊下のリノリウムの冷たさではなかった。自室の玄関の三和土と同じ、ざらついた硬さだった。振り返らなくても分かった。私は外へ出たつもりで、部屋の内側へ戻っている。
スマートフォンを取り出し、震える指で凛の番号を呼び出した。

呼び出し音が三回鳴って、一度切れた。心臓が跳ねる。もう一度かけ直すと、今度はすぐに応答があった。
「もしもし」
凛の声は低く、寝起きとは思えないほど張り詰めていた。
「今、部屋を出ようとしたんです。でも、廊下が――」
「音が、いつもより一つ多いです」
私が言い切る前に、凛の言葉が被さってきた。それは私の状況への返答ではなく、彼女自身が今、聞いているものについての報告だった。
「一つ多いって、どういうことですか」
「換気扇、配管、あなたの部屋の床、それから、もう一つ。今まで聞いたことのない音が、その隙間に入っています。低くて、規則正しくて、まるで――誰かが息を合わせようとしているみたいな」
彼女の声には、それでも取り乱した響きはなかった。恐怖を感じていないわけではない。ただ、恐怖よりも先に、聞こえたものを正確に伝えることを優先する人だった。私はその声の落ち着きに、かろうじて自分をつなぎとめた。
「凛さん、廊下に出ようとしたら、外に出たはずなのに、部屋の中へ戻っているんです。足元の感触が、玄関のものと同じで」
「動かないでください」
凛の声が初めて強くなった。
「動くと、その感覚のほうが正しくなります。今、あなたが立っている場所を、これ以上疑わないでください。今日だけは、疑うことが、あなたを削ります」
「疑わなければ、どうなるんですか」
「分かりません。でも、これまでのあなたは、疑うことで自分を保ってきたはずです。鍵を三回確認する、物の位置を戻す、写真を撮る、記録する。それは、あなたが自分の生活を自分の手で作っている証拠でした。でも今日は――今日だけは、違うかもしれません」
私は扉を開けたまま、廊下とも部屋の内側ともつかない場所に立っていた。手のひらに、じっとりとした汗がにじんでいる。
「今日、私がここで何をすればいいんですか」
「私にも分かりません。ただ、今から、あなたの部屋の前まで行きます」
その言葉と同時に、電話の向こうで衣擦れの音と、鍵を回す音が二度聞こえた。凛が自分の部屋を出る音だった。
私は扉を閉め、鍵をかけずにドアスコープへ顔を寄せた。魚眼レンズの向こうに、廊下の白い光が滲んで見える。蛍光灯がわずかに点滅し、その明滅のリズムが、換気扇の唸りの間隔と重なっているように感じられた。
足音が、確かに近づいてくる。
だが、レンズの丸い視界の中に、凛の姿は現れなかった。
足音だけが、私の部屋の前で止まる。息づかいのようなものが、扉一枚を隔てた向こうにある。私はその気配に向かって、声をかけようとした。だが、喉の奥から出てきたのは、掠れた空気の音だけだった。
ふと、自分の右手を見た。
ドアノブにかけた指先の輪郭が、光の加減のせいなのか、いつもよりわずかに薄く見えた。骨の形が透けて見えるほどではない。だが、確かに、私という存在の縁が、ほんの少しだけ滲んでいる。
壁時計の秒針が、遠くでひとつ、重たく動いた。
その音は、もう何分遅れているのか、私にはもう数えられなかった。
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