第6話 壁の向こうの録音

裏返った写真を机に置いたまま、私はしばらく動けずにいた。
赤い丸は、紙の中央に押されていた。表の私の背中と、裏の赤い印。まるで一枚の紙の両面が、別々の持ち主に属しているようだった。表はまだ私のものだ。裏は、もう違う。そう思ってしまう自分に、私は小さく苛立った。誰のものかを紙一枚で決めるほど、私は追い詰められていたのだろうか。
玄関のチャイムが鳴ったのは、そのときだった。
のぞき穴から見ると、廊下の白い光の下に西園寺凛が立っていた。今日はマグカップを持っていない。代わりに、スマートフォンを両手で包むように持っている。私は鍵を確認し、チェーンをかけたままドアを開けた。
「今、大丈夫ですか」
「大丈夫です。ちょうど、こちらからも話したいことがありました」
凛は私の顔を見て、少しだけ眉を寄せた。
「顔色、悪いです」
「そう見えますか」
「見えます。何かあったんですね」
言い切る口調ではなかった。確認するでもなく、決めつけるでもない、ただ相手の言葉を待つための間の置き方だった。私はチェーンを外し、彼女を部屋の中へ招き入れた。他人を部屋に上げるのは初めてだったが、今の私には、誰かに見ていてもらう必要があった。自分ひとりの目だけでは、もう足りない気がしていた。
凛は玄関脇の棚をまず見た。鍵皿、カレンダー、そして机の上に置かれた、裏返ったままの写真。
「これですか」
「はい」
彼女は写真を手に取ろうとして、指先を止めた。
「触っても?」
「どうぞ」
凛は写真を裏返し、表と裏を交互に見た。段ボールの前に座る私の背中。逆向きの時計。古い名札ケース。灰皿。裏面の赤い丸。彼女の目がそれぞれの要素を、順番に、丁寧に辿っていくのが分かった。急がない人だった。急がないことが、彼女の誠実さの形なのだと、私はこのときようやく理解した。
「管理室で、何か言われましたか」
「言われたというより、言わせようとして、言わせてもらえませんでした」
私は今日あったことを話した。前日退去の記録。清掃確認の空白。担当者名の不在。写真を見せたときの美帆の一瞬の反応。書類の端に浮かんでいた、二重の赤い跡。話しながら、自分の声がだんだん硬くなっていくのが分かった。整理して話しているつもりなのに、言葉が勝手に速くなる。凛は遮らず、最後まで聞いた。
「その赤い跡は、朝倉さんの部屋の記録だと思いますか」
「分かりません。でも、確認しようとしたら、帰ってくださいと言われました」
「それは、追い出されたということですか」
「業務としての終了、という言い方でした。でも、意味は同じだと思います」
凛はスマートフォンを操作し、録音アプリを開いた。
「私も、今日また録りました。聞いてもらえますか」
「聞きます」
彼女がボタンを押すと、低い唸りが室内に流れ出した。換気扇の音だ。だが、以前より明らかに音の密度が違う。膨らみ、沈み、また膨らむ、その反復のあいだに、以前は一箇所だった空白が、今回は二箇所ある。息を吸って、止めて、吐く。そのリズムがそのまま音に写し取られているようだった。
「増えていますね」
「はい。前は一回でした。今日は二回。私は、これが赤丸の数と関係していると思っています」
「数と、間隔とですか」
「はい。あなたのカレンダーには、四つの印がありましたよね。最初の二重丸を含めて。今、印はいくつまで進みましたか」
私は手帳を開いた。最初の二重丸の日から数えて、私はすでに二つ目の印の日を過ぎ、三つ目に近づいている。
「三つ目の手前です」
「なら、この録音の中の空白が二つあるのも、辻褄が合います」
凛の声は淡々としていたが、その淡々さの奥に、明らかな緊張があった。感情を出さないようにしているのではなく、感情を出す余裕がないほど、集中しているのだと分かった。
「凛さんは、この録音を、誰かに聞かせたことがありますか」
「ありません」
「どうして」

「聞かせても、信じてもらえないからです」
その答えは、あまりに簡潔で、逆に重かった。信じてもらえない、ではなく、信じてもらえないから、という理由で最初から諦めている響きがあった。私はそこに、彼女がこれまで抱えてきた孤独の形を見た気がした。
「私は、信じます」
そう言うと、凛は初めて、驚いたような顔をした。
「なぜですか」
「私も、同じものを見ているからです。信じるかどうかを選ぶ余裕は、もう私にはありません」
凛は少しのあいだ黙り、それから小さく頷いた。
「床板の音も、変わりました」
「どんな風にですか」
「以前は、隣の部屋、つまりあなたの部屋の方から、机を引くような音がしていました。今日は、その音が、私の部屋の中からも聞こえるようになりました」
背筋が冷えた。
「凛さんの部屋の中から、ですか」
「はい。壁の外からではなく、部屋の中の、床の下あたりから。最初は空耳だと思いました。でも、耳を当てて確かめました。空耳ではありません」
「それは、あなたの部屋にも、印が及んでいるということですか」
「分かりません。でも、もし赤丸が住人を入れ替えるための合図だとしたら、次に狙われるのは、あなたの後という保証はありません」
その言葉の意味を、私はすぐには飲み込めなかった。私は自分だけが対象だと思っていた。だが、凛の部屋にまで音が漏れ出しているのなら、この部屋の異常は、壁の内側だけに留まらない何かかもしれない。
「時計は、まだ遅れていますか」
凛が尋ねた。
「まだ三分です。でも、増えていく気がします。管理室に行った日、写真の中の時計と、私のスマートフォンの時刻を比べたら、同じだけずれていました」
「同じだけ、ということは」
「入居前から、この部屋の時間だけが、三分遅れているということです」
凛は壁時計を見上げた。白い枠の安価な時計。針は確かに、彼女のスマートフォンより遅れて動いていた。
「これは、故障ではないと思います」
「私もそう思います」
「では、何だと思いますか」
私は少し考えてから、口を開いた。
「この部屋には、私が来る前から続いている時間があって、私の時間は、その時間に少しずつ合わせられているんだと思います。三分は、まだ小さなずれです。でも、印が進むごとに、そのずれは大きくなっている。最後の印の日には、たぶん、私の時間が完全に、この部屋の時間に合わせられてしまうんじゃないかと思います」
言いながら、自分の声が震えているのが分かった。凛は何も言わず、ただ私の目を見ていた。慰めるためでも、否定するためでもない、事実を事実として受け止めるための沈黙だった。
「合わせられたら、どうなると思いますか」
「分かりません。でも、写真の中の背中を見たとき、あれが、これから私がなる姿なんじゃないかと思いました」
凛はスマートフォンをポケットにしまい、玄関の方へ視線を向けた。
「今夜も、録音を続けます。もし何か変わったことがあれば、すぐに知らせてください」
「あなたは、どこまで付き合うつもりですか」
私が尋ねると、凛は少しだけ視線を落とした。
「分かりません。ただ、今度は、聞こえたものを聞こえなかったことにはしません。それだけは決めています」
彼女が部屋を出ていくと、廊下の鍵を回す音が二度聞こえた。私も自室の鍵を確認した。一度。二度。三度。
深夜、換気扇を止めた。だが、耳の奥には低い回転音の残響がまだ残っていた。壁の向こうで、何かを並べ直すような擦過音が続く。以前より近い。以前より、長い。
私は壁時計を見上げた。針は、また三分遅れていた。
その三分の中に、私の知らない時間が、静かに積み重なっていくのを感じながら、私は朝が来るまで、まんじりともせずに過ごした。
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