5話 管理室の机の角

翌日、私は昼休みを使って、ひかり通商マンション管理室へ向かった。

朝から風が強かった。駅前の交差点では、ビルの谷間を抜けた風が、歩行者の服の裾や広告旗を同じ方向へ押し流している。私は何度か手帳を鞄の中で確かめた。赤丸の日付、交通系ICの履歴、写真に写っていた部屋の配置。順番に並べてある。順番が崩れていなければ、話すべきことを忘れずに済む。

駅から管理室までは、歩いて七分ほどだった。

以前は十分と見積もっていた道のりが、今日はひどく長く感じられた。横断歩道を渡り、薬局の角を曲がり、灰色のビルの脇を通る。何度も歩いたはずの道なのに、途中で一度、私は足を止めた。

目の前の細い路地に、見覚えがあった。

どこで見たのか思い出せない。けれど、路地の奥にある室外機の位置も、剥がれた青い塗料も、以前から知っているような気がした。記憶を探ろうとすると、部屋の壁紙の湿った匂いが鼻の奥によみがえった。

私は視線を逸らし、歩き出した。

管理室は、駅前の雑居ビルの一階にある。ガラスの自動扉を抜けると、外の風が嘘のように途切れた。空調の乾いた風、コピー機の内部で紙が送られる音、遠くで鳴る電話。生活の場所ではなく、生活を記録するための場所に入ったようだった。

窓口の奥で、井口美帆が書類を整理していた。

彼女は私に気づくと、すぐに立ち上がった。薄いベージュのブラウス、髪を後ろでまとめた清潔な身なり。机の上には黒いバインダーと、青、黒、赤のボールペンが一本ずつ置かれている。ペン先の向きまで揃っていた。

「朝倉様。昨日もお越しいただきましたね」

「はい。もう一度、確認したいことがあります」

「承知しました。どうぞお掛けください」

美帆は椅子を引いた。背もたれの角度まで、来客を拒まないように調整されている。私は座らず、鞄から手帳を出した。

「前の入居者の退去日と、私への鍵の受け渡し日を、正確に教えてください」

「契約上の必要な範囲でしたら、確認いたします」

「必要かどうかを決めるのは、私ではないんですか」

美帆の口元に、笑みが残った。

「もちろん、朝倉様が何を知りたいとお感じになるかは、尊重しております。ただ、個人情報や管理上の都合もございますので、すべてをお伝えできるわけではありません」

「私は前の人の名前を聞いているんじゃありません。日付を聞いているだけです。いつ退去したのか。いつ清掃したのか。いつ鍵を交換したのか。それだけです」

「前の入居者様は、急な退去でした」

「それは昨日も聞きました」

「はい」

「理由は聞いていません。日付を聞いています」

美帆は返事をせず、黒いバインダーへ手を伸ばした。紙をめくる音が、事務所の静けさの中でやけに大きく響いた。

彼女が開いたページには、物件名と部屋番号が記載されていた。入居者の氏名は黒く塗りつぶされている。私はその上の空欄を見た。

「ここです。退去確認日が空いている」

「記載が抜けているようですね」

「昨日は、記載漏れかもしれないと言いましたよね」

「はい。可能性として申し上げました」

「では、確認してもらえますか。清掃会社に問い合わせるなり、担当者に聞くなり」

「必要な記録は、残っております」

「また、その言い方です」

美帆は手を止めた。ペンの先が、紙の端から数ミリ離れたところで静止している。

「朝倉様、不安なお気持ちは分かります。新しく生活を始める場所で、前の方の私物が残っていたり、時計の調子が悪かったりすれば、気になるのは当然です。ただ、設備の不具合であれば、設備として対応できます。前の入居者様の生活や、その方が何を考えていたかまでは、私どもの管理範囲ではありません」

「生活の話ではありません」

声が出る前に、喉の奥が乾いた。

「部屋の中で、私の置いたものが動いているんです。鍵皿の位置が変わる。冷蔵庫の缶が一本だけ手前へ出る。壁時計が合わせても遅れる。写真には、私が撮った覚えのない部屋が写っている。そこに、私の持っていない物がある」

「写真、ですか」

初めて、美帆の声に小さな揺れが混じった。

「はい。前の住人のものらしい名札ケースと灰皿です。家具の配置も違う。私が入居した日の写真なのに、私がそこにいた記憶がない時間に撮られている」

「その写真は、拝見できますか」

「見せる必要があるんですか」

「状況を正確に把握するためです。こちらで確認できるものは、確認しておいたほうがよろしいかと」

「確認して、何をするんですか」

「必要であれば、設備点検を手配します」

「設備点検で、写真の中の部屋の配置が直るんですか」

美帆は答えなかった。

机の上の三本のペンが、いつの間にか少しずれていた。青いペンの先が、黒いペンよりわずかに前へ出ている。美帆はそれに気づいたのか、指先で二本を同時に押して揃えた。

その動作を見ていると、急に吐き気がした。

彼女も、ずれを見逃さない。見逃せないのではなく、ずれを見つけたら必ず元に戻す。私と同じだと思った。けれど、美帆が整えているのは自分の生活ではない。誰かの生活が崩れないように、書類と日付と人間を、決められた位置へ押し込んでいる。

「この部屋の空室期間は、何日ですか」

「契約上、空室期間を入居者様へお伝えする義務はございません」

「義務があるかどうかではなく、知りたいんです」

「朝倉様」

「私は、知る必要があるんです」

そこまで言うと、私の手は無意識に机の角をなぞっていた。木目の浮いた合板。角は何度も拭かれているのに、そこだけ黒ずんでいる。美帆が手を置く場所らしく、指の形に沿って光沢が違っていた。

彼女は私の指先を見た。

「そのようにお調べになっても、かえってご不安が強くなるだけかもしれません」

「不安だから調べるんです。調べないまま従うほうが、よほど危険です」

「危険、とおっしゃいますが、何か具体的な被害があったのでしょうか」

「被害がなければ、何をされてもいいんですか」

「そういう意味ではありません」

「では、どういう意味ですか」

美帆は一拍置いた。口元の笑みは消えなかったが、目の奥から温度が抜けた。

「住まいというものは、完全に新しい状態でお渡しできるものではありません。前の方が使った傷、匂い、設備の癖、そういったものは多少残ります。入居者様は、それを含めて契約されたお部屋にお住まいになる。全てを自分の思い通りにできるわけではありません」

「それは分かっています」

「本当に、分かっていらっしゃいますか」

初めて、彼女の言葉が私のほうへ向けられた気がした。

「部屋は、朝倉様が思っているほど白紙ではありません。前の方が使った時間も、設備の経年も、管理側の記録も、すべて消してからお渡しすることはできません。ですから、残っているものをすぐに異常と決めつけるのではなく、少し様子を見ていただくことも必要です」

「様子を見る間に、私の記憶が抜けてもですか」

美帆の指が、机の角から離れた。

「記憶、ですか」

「赤丸の日付に、交通系ICの履歴がない。買い物のレシートはあるのに、そこへ行った記憶がない。写真の中には、自分が撮ったはずのない自分の背中が写っている。これを、部屋の癖や経年劣化で説明できますか」

美帆は私を見なかった。黒いバインダーの背表紙へ目を落とし、そこに書かれた部屋番号を指でなぞった。

「記録というものは、必ずしも人の記憶と一致するとは限りません」

「だからこそ、記録を見たいんです」

「記録が正しいとは限りません」

「では、何が正しいんですか」

答えはすぐには返ってこなかった。

事務所の奥で電話が鳴り、二回目の呼び出しで誰かが取った。別の窓口から、宅配便の受け取りについて話す声が聞こえる。誰かの生活が、何事もなく進んでいる。その日常の音が、私の問いだけを取り残していく。

美帆は新しい書類を一枚、私の前へ滑らせた。

「こちらが、鍵の受け渡し記録です」

日付は、私が入居した日の前日になっていた。

「これは、私への受け渡しですよね」

「はい」

「でも、私が鍵を受け取ったのは当日です」

「管理室での正式な受け渡しは前日処理になっていたのかもしれません」

「かもしれない?」

「現場と事務処理の時間に差が出ることはございます」

「清掃確認は?」

「その下です」

清掃確認の日付は、鍵の受け渡し日と同じだった。だが、清掃担当者の確認印の横に、時刻の記載がない。さらにその下の「最終室内確認」の欄は空白だった。

私は紙を机に押しつけた。

「これで、清掃が終わったことになるんですか」

「確認印がございますので」

「誰が確認したんですか」

「担当者です」

「名前は」

「記録上、担当者名までは必要とされておりません」

「では、部屋は誰も確認していない可能性もある」

「そのような言い方は適切ではありません」

「適切かどうかは関係ない。記録にないんでしょう」

美帆は、また半拍だけ黙った。

「記録にないものを、あったとも、なかったとも申し上げられません」

その言葉は、私が昨夜書いた手帳の一文と似ていた。

分からないものは分からないままにしておく。

以前の私は、それが大人のやり方だと思っていた。職場で何か問題が起きたときも、誰かが曖昧な言葉で話を畳もうとすると、私は黙って従った。確証がないまま追及すれば、面倒な人間になる。そう考えて、何度も見過ごした。その結果、失敗した。

東京へ来たのは、今度こそ確認を怠らないためだった。

「この部屋に、空白の時間がある」

私は自分に言い聞かせるように呟いた。

「鍵の受け渡しと清掃の間にも、私の記録にも、空白がある。そこを、なかったことにしないでください」

「私は、なかったことにはしておりません」

「そう言いながら、空白の上に紙を重ねているだけです」

美帆の表情が初めてわずかに硬くなった。

「朝倉様。管理会社は、入居者様の不安を一つひとつ引き受ける部署ではありません。契約に基づき、設備を維持し、必要な手続きを行うための窓口です。お部屋で感じられたことについて、医療的な問題や、端末の不具合まで、こちらで責任を負うことはできません」

「責任を負えと言っているんじゃない。説明を求めているんです」

「説明できる範囲には限りがあります」

「その限りを、誰が決めているんですか」

美帆は黙った。

机の角に置かれた彼女の社員証が、表を伏せていた。角が擦り切れている。そこだけ何度も指で触れられた跡があった。私はなぜか、その社員証にも赤い丸が付いているような気がした。いつかの誰かが、返却された日や、消えた日を記録しているような。

美帆はバインダーを閉じた。

「朝倉様、カレンダーは処分してください」

「なぜですか」

「古いものですし、衛生上もよくありません。必要であれば、こちらで回収します」

「印があるからですか」

美帆の指が、バインダーの表紙の上で止まった。

「そのような意味ではありません」

「では、なぜ、そんなに早く処分を勧めるんですか」

「残置物だからです」

「前の人が置いていった物を、管理会社は確認していないんですか」

「確認しております」

「何を確認したんです」

「室内に残っていたことを確認しました」

「中身は?」

「カレンダーです」

「印は?」

美帆は答えなかった。

私は彼女の沈黙を待った。田所という名前も、まだ知らない。凛の録音も、ここにはない。あるのは、私の手帳と、紙の空白と、彼女が揃え続けるペンだけだった。

長い沈黙のあと、美帆はようやく顔を上げた。

「印については、私には分かりません」

「本当に?」

「はい」

「誰にも確認していない?」

「確認する必要がありませんでした」

「なぜ」

「退去された方が急いでいたからです」

「急いでいた?」

「お忘れ物を取りに戻る時間もなく、鍵だけを返されたと聞いております」

「誰から聞いたんですか」

「記録上の申し送りです」

「その申し送りを書いた人は?」

美帆は再び、机の角を見た。

「朝倉様。これ以上は、私から申し上げられることはございません」

「前の入居者は、自分の意思で出ていったんですか」

質問した瞬間、室内の空調音が一段低くなった。

美帆の目が、初めて私を正面から見た。

「そのようなことを、私に聞かないでください」

声は静かだった。怒っているわけでも、怯えているわけでもない。ただ、長く守ってきた境界線を、私が踏んだのだと分かった。

「では、誰に聞けばいいんですか」

「それを私に決めさせないでください」

「あなたは管理会社の人でしょう。部屋の記録を持っている。前の人がいつ出て、いつ清掃されて、いつ鍵を渡されたのかを知っている。なのに、必要な分しか残っていないと言う。私が何を聞いても、急な退去だった、記載漏れかもしれない、確認できない。その言葉だけで終わらせる。これで、何を信じろというんですか」

「信じていただく必要はありません」

その答えは、あまりに平坦だった。

「契約に従って、お住まいいただければ結構です」

胃の底が冷えた。

信じなくていい。ただ住めばいい。部屋に入り、家賃を払い、決められた場所へ鍵を置き、決められた時間に眠る。自分が何者なのか、何を見たのかを問わず、生活の形だけを保てばいい。

私は鞄からスマートフォンを取り出し、写真を一枚表示した。

「この写真を見てください」

画面には、段ボールの前に座る私の背中があった。逆向きの時計。古い名札ケース。灰皿。今の部屋とは違う配置。

美帆は画面を見た。

ほんの一秒だけだった。

それから、目を逸らした。

「撮影日時は、入居初日になっていますね」

「はい」

「端末の写真情報は、編集や移行によって変わることがあります」

「編集していません」

「そうお感じになっていても、端末の仕様については、こちらでは」

「あなたは、部屋を見ていない」

「何がでしょうか」

「写真の中の部屋を見て、家具の配置を確認したんじゃない。撮影日時だけを見て、端末のせいにした」

美帆は黙った。

私は画面を引き戻し、写真の中の時計を拡大した。針は四時十八分を指していた。入居初日に部屋で見たときと同じ時刻だった。私のスマートフォンは四時二十一分だった。

三分遅れている。

あの日から、時計はずっと三分遅れていた。

いや、あの日からではない。

私がこの部屋へ来る前から、すでに。

その考えが形になる前に、管理室の奥で電話が鳴った。三回目の呼び出しで、美帆が受話器を取った。

「ひかり通商マンション管理室です。はい。……はい、確認いたします」

彼女は私を見ないまま話していた。

私は手帳を閉じた。まだ帰るつもりはなかったが、これ以上ここにいても、彼女の言葉は同じ場所を回るだけだった。

立ち上がると、美帆が受話器を耳に当てたまま、空いた手で書類の角を揃えた。何枚も重なった紙のうち、一枚だけがわずかに外へ出ている。彼女はそれを押し戻した。

その紙の端に、赤いインクの跡があった。

日付の丸に見えた。

私は身をかがめ、目を凝らした。

赤い跡は、書類の文字を囲むように、二重になっていた。

美帆が受話器を置く。

「何かございましたら、いつでもご連絡ください」

「今の紙を見せてください」

「業務書類ですので」

「赤い印がありました」

「印刷の汚れかもしれません」

「見せてください」

「朝倉様」

「私の部屋の記録ですか」

美帆の口元から、笑みが消えた。

「お帰りください」

拒絶ではなく、手続きの終了を告げる声だった。だからこそ、その言葉の冷たさがはっきり分かった。

私は書類の束を見た。黒いバインダーの背表紙。整列したペン。机の角の擦れ。どれも、誰かが長い時間をかけて、同じ形に戻し続けた跡だった。

「あなたは、あの部屋で何人の人を見送りましたか」

美帆は答えなかった。

「前の人が退去した日を、覚えていますか」

それでも答えない。

「それとも、退去した人が、同じ人ではなかったことを、覚えていますか」

美帆の喉が一度だけ動いた。

私はそれを見た。

手帳の余白に、書き留めたくなった。だが、ペンを出すのをやめた。書かなければ残らない。書けば残る。そう思っていたのに、記録すること自体が、誰かの決めた手順に組み込まれているような気がした。

管理室を出ると、風が戻ってきた。

白いビルの壁に反射した光が、目に痛かった。駅へ向かう人の流れは途切れず、誰もがスマートフォンを見たり、コンビニの袋を提げたり、次の予定へ向かったりしている。私だけが、空白の上に立っていた。

交差点の信号が青になった。

歩き出す。

途中で、私は立ち止まった。

自分の部屋へ戻る道を、知っている。

駅からマンションまでの道を、もう何度も歩いた。角を三つ曲がり、薬局の前を通り、細い路地を抜ける。けれど今、足元の道は、私が覚えているより一本多いように見えた。

どの道を選んでも、部屋へ戻れる。

そのことが、急に怖くなった。

鞄の中で、スマートフォンが震えた。凛からのメッセージだった。

「管理室で、何か聞けましたか」

私は返信画面を開いた。

聞けなかった。

空白がありました。

そう打ち込み、消した。

赤い印のことを聞きました。

それも消した。

最後に、短く送った。

「まだ、何も分かりません」

送信した直後、スマートフォンの表示時刻が一度消え、数秒後に戻った。

現在時刻は、実際より三分遅れていた。

私は画面を見つめたまま、指先で鞄の角をなぞった。

その夜、部屋へ戻ると、机の上に置いていた写真が一枚だけ裏返っていた。

表には、段ボールの前に座る自分の背中。

裏面には、見覚えのない赤い丸が一つ、紙の中央に押されていた。

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