4話 見返した写真の中の背中

土曜日の午前中を使って、私は机の上に赤丸の日付を書き写した手帳と、スマートフォンと、財布の中から取り出したレシートの束を並べた。

窓の外は乾いた晴天で、隣の建物の壁に朝の光がまっすぐ落ちている。部屋の中はまだ、昨夜の湿った匂いを微かに残していたが、日中のこの時間だけは、少しだけ普通の休日らしい空気になる。私はコーヒーを一杯淹れ、机の左端に置いた。カップの持ち手は必ず右向きにする。そうしないと、作業を始める前の気持ちが定まらない。

手帳を開く。赤丸の付いた日付は、入居初日を含めて四つ。三日おき、あるいは四日おきという間隔で並んでいる。私はその日付をひとつずつ、スマートフォンの交通系ICアプリの履歴と突き合わせていった。

入居初日。改札を通った記録は、朝の八時十二分に一回。それだけだった。

おかしい。私はその日、荷物の買い足しで一度、駅前のホームセンターまで往復したはずだ。段ボールを組み立てるためのガムテープと、カッターと、延長コードを買った記憶がある。レシートの束を繰ってみると、確かにホームセンターの控えが出てきた。日付も時刻も、入居初日の午後三時過ぎになっている。

なのに、IC履歴には、その時間帯の乗車記録がない。

私は画面を指で何度も引っ張り、履歴を更新した。回線の反映が遅れているだけかもしれない。そう思って待ったが、何度読み込み直しても、朝の八時十二分から翌日の記録までのあいだに、駅を通った形跡が一切なかった。

歩いて行ったのだろうか。ホームセンターまでは、地図で見る限り徒歩十五分ほどの距離だ。あり得ない話ではない。荷解きの途中で気分転換に歩いた可能性もある。私はそう自分に言い聞かせながら、レシートの日付欄をもう一度確かめた。

時刻は、午後三時十七分。

だが、その三十分前後の記憶が、驚くほど薄い。ホームセンターの棚のあいだを歩いた感触や、レジで小銭を数えた指の動きは覚えているのに、そこへ向かう道のりの記憶が、すっぽりと抜けている。まるで、フィルムの一部だけを切り取られたようだった。

こういう時、私はいつも写真を見返すことにしている。撮った覚えのある写真を並べれば、記憶の抜けている部分を埋め合わせられる。それが私のやり方だった。地方にいた頃から、写真とレシートと交通履歴を突き合わせて、自分の一日を検算する癖がある。検算が合えば、安心できる。

スマートフォンの写真フォルダを開き、入居初日のアルバムを表示させた。

荷解きの様子、玄関脇の棚、鍵皿に置いた鍵と十円玉、壁に掛けた時計。見慣れた自分の記録が、日付順にきちんと並んでいる。私はそれを一枚ずつ、指先で送っていった。

九枚目で、手が止まった。

撮った覚えのない写真だった。

部屋の中、引越し荷物の段ボールがまだ積まれたままの光景。その前に、誰かが座り込んでいる。背中を丸め、段ボールの一つに手をかけている姿勢だった。着ているシャツには見覚えがある。今も持っている、灰色の無地のシャツだ。肩の位置、髪の分け方、耳の形。それは、私自身の後ろ姿だった。

撮影者は、部屋の隅の低い位置からカメラを構えていたらしい。床に近い高さから見上げるようなアングルで、机の脚の向こうに、私の背中が写っている。

私は画面を拡大した。

机の上に、見覚えのない品が二つ並んでいる。ひとつは、古い名札ケース。革の表面が擦れて、留め具のあたりが白く曇っている。もうひとつは、ガラス製の灰皿だった。私は煙草を吸わない。この部屋に灰皿を持ち込んだことは一度もない。だが写真の中の灰皿は、縁のあたりに指の脂のような曇りが幾重にも重なっていて、長い時間、誰かの手で使い込まれてきたことを示していた。

息を止めたまま、画面の中の部屋をもう一度見渡す。

ベッドの位置が違う。今、私が使っているベッドは窓の右側に寄せてある。だが写真の中では、左側の壁に沿って置かれている。壁時計も、今は玄関側の壁に掛かっているのに、写真では反対の、窓に近い壁に掛かっていた。棚の上の物の並びも違う。今の私が揃えている順番とは、まるで別の几帳面さで整えられていた。

同じ部屋のはずなのに、写真の中の部屋のほうが、先に「誰かの生活」を知っているように見える。

喉の奥が乾いていくのを感じながら、私は画像を何度も往復した。行き来するたびに、違いが増えていく気がした。最初は時計とベッドだけだったのに、二度目には、玄関の靴箱の位置が違うことに気づいた。三度目には、窓のカーテンの色が、今のものよりも濃い緑色をしていることに気づいた。

私はスマートフォンを机に置き、深く息を吐いた。

合成写真かもしれない。誰かが悪戯で、私の写真フォルダに紛れ込ませたのかもしれない。だが、自分のクラウドアカウントに他人がアクセスした形跡はない。ログイン履歴を確認しても、不審な端末は表示されない。撮影されたのは、この端末のカメラで、この端末に保存されている。それだけは、間違いようのない事実だった。

私はカレンダーの赤丸を思い出した。二重丸のついた、入居初日。あの日、私は間違いなくこの部屋で荷解きをしていた。だが、その記憶のどこかに、私の知らない三十分がある。ホームセンターへ向かった道のり。あるいは、この写真が撮られた瞬間。そのどちらかが、私の記憶からきれいに抜け落ちている。

もう一度、写真の中の自分の背中を見た。

その丸まった肩の線に、見覚えがあるようで、ないようで、私は自分自身を他人のように眺めている気分になった。

スマートフォンが震えた。

凛からのメッセージだった。「今夜、少し話せますか」とだけ書かれている。私はすぐに電話をかけた。

「すみません、急に」

凛の声は、いつもより少しだけ掠れていた。

「大丈夫です。ちょうど、聞いてほしいことがあったので」

「先に言わせてください。昨日の夜、また音がしました。今度は、あなたの部屋からじゃなくて――たぶん、あなたの部屋の“奥”からでした」

「奥、というのは」

「壁の向こう側じゃなくて、部屋の中の、もっと奥です。うまく言えませんが、あなたが今立っている場所より、さらに先にある部屋、というか。録音にも、少しだけそれらしい残響が入っていました」

私は写真の中のベッドの位置を思い出しながら、乾いた声で言った。

「今、写真フォルダを見返していたんです。入居初日の写真の中に、撮った覚えのない一枚がありました。自分の背中が写っている写真です。でも、部屋の中の家具の配置が、今とは違うんです。ベッドの位置も、時計の位置も、棚の並びも」

電話の向こうで、凛が息を吸う気配がした。

「その写真、いつ撮られたものか、分かりますか」

「日付は、入居初日になっています。でも、私にはその瞬間の記憶がありません。その日の午後、駅前のホームセンターへ買い出しに行った記憶はあるのに、行き帰りの交通履歴が抜けているんです。歩いたのかもしれないと思いましたが、それにしては記憶が薄すぎる」

「朝倉さん」

凛の声が、それまでより低くなった。

「これは、脅かすつもりで言うわけじゃないんですけど。前に住んでいた部屋でも、似たようなことがありました。私自身の記憶に、説明のつかない空白があったんです。買い物に出たはずの時間の記録がなくて、代わりに、自分の部屋の中にいる自分を、別の角度から撮ったような写真が、いつの間にか増えていました」

「増えていた、というのは」

「一枚だけじゃなかった、ということです。最初は一枚。次に気づいたときには、三枚になっていました。撮った覚えは、最後まで一度もありません」

私は言葉に詰まった。凛は続けた。

「それで、私はある時、ひとつの結論に至りました。突飛に聞こえるかもしれませんが、聞いてもらえますか」

「聞きます」

「あの部屋には、順番があるんです。誰かが先に住んで、その人の生活の形が部屋に染み込んで、次の人が来ると、その形へ少しずつ戻されていく。写真は、たぶん、戻す途中の記録です。まだ完全には戻っていない部屋を、誰かが――あるいは、部屋そのものが――確認するために撮っている。そんな気がしています」

「部屋そのものが、写真を撮る、なんてことがありますか」

「ないと思いたいです。でも、あなたの部屋にある赤丸の印は、四つありましたよね。最初の二重丸から数えて、三日、四日、また三日。その間隔が、たぶん、戻す作業の区切りです。写真は、その区切りごとに増えていくんじゃないかと思います」

私は手元の写真をもう一度見た。名札ケース、灰皿、逆側の時計。それらはすべて、私が持ち込んでいないものだった。だとすれば、それは「前の住人」の持ち物ということになる。前の住人の生活の形が、写真という形で、少しずつ私の記録の中に混ざり込んでいる。

「凛さんは、その部屋を出るとき、何か手がかりを掴んだんですか」

「いいえ」

彼女の返事は、あまりにあっさりしていた。

「掴めないまま、逃げるように引っ越しました。だから、今も分かりません。あなたが今、私よりも先に進んでいるかもしれません。写真に気づいたのは、あなたのほうが早かった」

「進んでいる、というのは、いいことなんですか」

凛はしばらく黙った。それから、静かに言った。

「分かりません。ただ、進んでいるなら、途中でやめるほうが、たぶん危ないです。私は、途中でやめました」

電話を切ったあと、私はしばらく机の前に座ったまま動けなかった。

その夜、私は写真フォルダの中の一枚を、部屋の小さなプリンターで印刷した。紙の上に浮かび上がった自分の背中は、画面で見るよりも生々しく、鮮明だった。名札ケースの革の擦れ、灰皿の曇り、逆向きの時計の針の角度まで、はっきりと読み取れる。

私はその紙を机の中央に置き、周りにレシートとICの履歴を印刷したものを並べた。空白のある日付を赤いペンで囲み、矢印を引いて、写真の日付と結びつける。手を動かしている間だけは、恐怖よりも作業への集中のほうが勝った。

だが、すべてを並べ終えて、椅子に深く座り直したとき、机の中央に置いた写真の背中が、ふいに違う角度から自分を見ているような気がした。

紙の上の私は、こちらを振り返っていないはずだった。

なのに、視線を感じる。まるで、写真の中の自分が、この部屋の「今」を、静かに観察しているかのように。

私は照明を消さずに、そのまま椅子に座り続けた。

壁時計の秒針が、スマートフォンの時刻より三分遅れて動く音だけが、部屋の中に規則正しく響いていた。

その音を数えながら、私はもう一度、写真の中の背中を見た。

肩の丸め方が、今の私の癖と、少しだけ違う気がした。

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