3話 ひかり通商マンション管理室

昼休みは四十五分しかない。

会社を出る前に、私は財布と社員証とスマートフォンの位置を鞄の中で確かめた。財布は内ポケットの右側、社員証は名刺入れの隣、スマートフォンは外側のポケット。順番を崩さなければ、戻ってきたときに慌てずに済む。そう決めてからずっと、そうしてきた。

駅前の雑踏を抜け、細い路地を折れると、ひかり通商マンション管理室の看板が見えてくる。ガラス張りの事務所は、昼間だというのに蛍光灯を点けたままで、その白さが妙に温度を持たない。中に入ると、コピー機の唸る音と、紙を扱う乾いた音だけが満ちていた。

窓口には、井口美帆が座っていた。

私が名乗るより先に、彼女は立ち上がった。

「朝倉様。いつもお世話になっております」

声は柔らかく、笑みも自然だった。だが、その自然さのどこかに、あらかじめ用意されていたもののような滑らかさがある。彼女は机の上のペンを一本、指先で軽く押して、角度を揃え直した。私が座る前に、その動作は終わっていた。

「今日は、前の入居者の方について、少し伺いたいことがあって来ました」

私は鞄から黒い手帳を取り出し、開いたページを机の端に置いた。日付、印の位置、鍵皿のずれ、時計の遅れ。几帳面に書き並べた文字を、彼女はちらりと見て、それから視線を私の顔へ戻した。

「前の入居者様のことですね。あちらは、急な退去でいらっしゃいました」

「急な退去、というのは、どういう理由でしょうか」

「詳細については、個人情報保護の観点から、こちらでは申し上げられないんです」

そう言う声には、責めるような硬さは一切なかった。むしろ、こちらの気持ちを気遣うような柔らかさすら感じさせた。だからこそ、私はその先へ進む言葉を探すのに、少し手間取った。

「理由を聞きたいわけではないんです。ただ、部屋の中に、前の方が使っていたと思われるものが残っていて」

「置き忘れの品でしょうか。それでしたら、写真を撮ってお送りいただければ、処分の手続きをこちらで進めます」

「カレンダーです。壁掛けの、古いものです。特定の日付にだけ、赤い印がついていて」

その一言を口にした瞬間、美帆の指先がわずかに止まった。ペンを揃えていた手が、机の上で一拍分だけ動きを止め、それからまた何事もなかったように書類の角を合わせ始める。

「カレンダーですか。それは、忘れ物として処分していただいて構いません」

「印の意味に、心当たりはありませんか」

「私どもでは、住まわれる方の生活習慣までは把握しておりませんので」

私は手帳のページをめくり、赤丸の並んだ日付を指で示した。三日ごと、あるいは四日ごとに、規則正しく現れる丸。それを見せたところで、彼女の表情が変わるわけではなかった。ただ、彼女の目が、紙面の上を素早く一往復した。それだけだった。

「印刷されたものではなく、手で書き込まれた印です。しかも、引越し当日の日付だけ、二重になっています」

「そうですか」

「そうですか、で終わる話でしょうか」

自分でも、声が少し尖ったのが分かった。美帆は表情を変えないまま、私の目を見た。

「朝倉様、私の仕事は、入居者様が安心して暮らしていただけるよう、必要な手続きを滞りなく行うことです。前の方の生活の細部まで、こちらで把握し、逐一お伝えすることは、業務の範囲を超えてしまいます」

「では、空室期間の記録は見せていただけますか。清掃の日付、鍵の受け渡し日、その辺りだけでも」

彼女は一拍置いて、黒いバインダーを引き出しから取り出した。指先で紙の束を整え、こちらへ向けて開く。鍵の受け渡し日。清掃業者の確認印。次回入居者への引き継ぎ事項。文字は整然と並んでいたが、清掃確認の欄と引き継ぎの欄のあいだに、まるで一行分だけ抜け落ちたような空白があった。

「ここが、少し不自然に見えるんですが」

「記載漏れかもしれません。事務的なミスは、稀に起こり得ます」

「稀に、ですか」

「はい。人がすることですので」

この人は、答えているようで何も渡さない。私はそのことに気づきながら、なぜかそれ以上強く問い詰めることができなかった。彼女の声は最後まで穏やかで、こちらの苛立ちを受け止める形をしていて、その形の中で、こちらの言葉だけが力を失っていく。

「前の方は、どれくらいこの部屋に住まれていたんですか」

「契約上のことは、こちらではお答えできません」

「では、私の前に住んでいた人は、何人いたんですか。ずっと同じ人だったんですか、それとも」

言いながら、私は自分がなぜこんな質問をしているのか、分からなくなっていた。ただ、聞かなければならない気がした。美帆はしばらく黙り、それから、初めて少しだけ視線を落とした。

「朝倉様。ひとつだけ申し上げますと」

「はい」

「この物件は、古いぶん、いろいろな方が入れ替わり住まれてきました。中には、短期間で退去された方もいらっしゃいます。ですが、それは特別なことではありません。都心の単身向け物件では、よくあることです」

「よくあること、で片づけていい話でしょうか。カレンダーの印は」

「印については、私も分かりません」

その言葉だけは、少し早口だった。取り繕う暇がなかったのかもしれない。私はその一瞬の乱れを、手帳の隅に小さく書き留めた。分かりません、という言葉が出るまでの、コンマ数秒の間。

「必要な記録は、残っているんですよね」

「必要な分は、残っております」

また、その言い回しだった。必要な分。誰にとっての必要か、彼女は最後まで言わなかった。私が黙ると、美帆はバインダーを閉じ、更新手続きの案内を淡々と読み上げ始めた。契約更新は半年後、更新料は家賃の一か月分、火災保険の継続手続きについて。その声は先ほどより滑らかで、まるで話題を切り替えることに安堵しているようだった。

私は礼を言い、席を立った。

「何かございましたら、いつでもご連絡ください」

美帆はそう言って、いつもの丁寧な笑みを浮かべた。だが、その笑みの下に、何かをそっと持ち帰るような気配があった。渡すべきものを渡さず、必要な部分だけをこちらの手から抜き取っていく。そんな感触だった。

事務所を出て、駅前のビルへ入り、エレベーターに乗った。鏡に映った自分の顔を、私はしばらく見つめた。

少し疲れている。いや、疲れだけではない。何かを見落とした人間の顔だった。手帳には、赤丸の日付と、空白の記録欄と、美帆の「分かりません」という早口の一言が並んでいる。それらを繋ぎ合わせても、まだ形にならない。

エレベーターの扉が開き、外の光が差し込んだ瞬間、胸の奥で、住み始めたばかりの部屋の匂いが、なぜか急に遠くなった気がした。乾いた埃と、湿った壁紙の匂い。あの匂いを、もう一度確かめなければならない気がした。

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