第2話 三分遅れの朝

目覚ましが鳴る前に目を開けた。
暗い部屋の中で、最初に聞こえたのは冷蔵庫の作動音だった。低く、一定の唸り。けれど、その音の下に別の音が重なっている。壁の奥を水が流れるような、細い振動だった。
私はしばらく布団の中で息を止めた。
音は、止まらなかった。
昨夜、換気扇の中に混じっていた息の音を思い出した。誰かが近くで、眠っている人間の呼吸を真似るように、ゆっくり息を吐いていた。あれから眠りが浅く、何度か目を覚ました。起きるたびに玄関へ行き、鍵を確認した。カレンダーは棚の下へ押し込み、上から段ボールを重ねた。鍵皿は左端へ寄せ、鍵の向きも変えた。
そこまで覚えている。
その後、布団に入った。
時計を合わせた。
照明を消した。
そこから先が、少し曖昧だった。
私は枕元のスマートフォンを手に取った。画面は午前六時二十七分。目覚ましの設定は六時三十分になっている。三分前に目が覚めたことは、よくあることだった。
壁時計を見上げた。
白い枠の時計は、六時二十四分を指していた。
三分、遅れている。
私は布団を出て、壁際へ歩いた。床が冷たかった。裸足の裏に、細かな砂のようなものが触れる。昨夜、掃除機をかけたはずだった。引越し直後で床が汚れていたから、家具の下まで一度通した。掃除機の音、ゴミをまとめた時刻、袋を玄関脇に置いた位置まで、手帳に書いてある。
それでも、砂は落ちていた。
時計の針を指で動かし、スマートフォンの時刻に合わせる。分針を三目盛り進めると、秒針がかすかに震えた。針は一度止まり、それから動いた。
合わせた。
そう思って手を離した直後、秒針が一目盛り戻った。
私は時計の前に立ったまま、針が進むのを待った。
一秒。
二秒。
三秒。
動いている。故障ではない。なら、なぜ遅れるのか。
壁時計を外して裏側を見た。電池は昨日交換したばかりだった。裏蓋の隙間には埃が詰まっている。指で拭うと、湿った黒い粉が爪の下に入った。匂いを嗅ぐと、壁紙と同じ、古い紙の匂いがした。
時計を戻す。
針は、もう一度三分遅れていた。
音がした。
玄関のほうから、陶器が棚板を擦るような音だった。
私は反射的に振り返った。
鍵皿が、棚の中央より少し右へ移動している。昨夜、左端へ寄せたはずだった。皿の中には鍵と十円玉が二枚入っている。十円玉は、昨夜一枚に減らしたはずなのに、いつの間にか戻っていた。
私は棚の前へ行き、鍵皿を持ち上げた。
皿の下に、細長い埃の跡が残っている。昨夜置いた場所から滑った跡ではない。棚の奥からこちらへ、誰かが引き寄せたような筋だった。
指先でその跡をなぞる。
湿っていた。
私は急に、部屋の中に自分以外の手があるような気がした。触れられない場所に、私の生活を直すための手が伸びている。鍵皿を正しい位置へ戻し、缶コーヒーを正しい順番に並べ、時計を正しい時刻へ戻す。その手は、私が乱したものを直しているのではない。私が決めたことを、別の決まりへ戻している。
その考えを振り払うため、洗面所へ向かった。
顔を洗い、歯を磨き、髭を剃る。鏡の中の顔は寝不足で目の下が暗かった。剃刀を置く位置が、いつもより二センチ左へずれている。私はそれを右へ戻し、タオルの端を折り直した。
背後で、床が鳴った。
振り返る。
誰もいない。
洗面所の入口から玄関まで、見通せる範囲に人影はなかった。なのに、鏡の中では、私の肩の後ろに薄い縦の線が見えた。壁の継ぎ目だと思った。目を細めて見ると、線は消えていた。
台所へ戻り、冷蔵庫を開けた。
缶コーヒーが一本だけ手前へ出ている。
昨日の夜、四本を賞味期限順に並べた。左から、六月、七月、八月、九月。今は七月の缶が、六月の缶より前に出ている。しかも、缶の表面には指の跡があった。水滴ではない。細い筋が、上下に二本。
私は缶を持ち上げ、元の位置へ戻した。
間隔を揃える。
ラベルの向きを揃える。
冷蔵庫の扉を閉める。
また開ける。
並びを見る。
閉める。
それでようやく、出勤の準備に取りかかれた。
会社へ向かう途中、私は何度もスマートフォンの時計を見た。電車の発車時刻、乗り換えの時刻、駅の構内にある時計。すべてを壁時計と照合した。壁時計だけが遅れている。三分。正確に三分。
ただの故障なら、昨夜合わせたあとに三分遅れる理由が分からない。
仕事中も、数字の入力を間違えた。普段なら見落とさない桁を一つ飛ばしていた。上司に指摘され、私は謝った。新しい職場で余計な印象を残したくなかった。地方の会社を辞め、東京へ来て、今度こそきちんとやると決めたばかりだった。
それなのに、頭の中には部屋の鍵皿と、三分遅れた時計が残っていた。
昼休みに、私は黒い手帳を開いた。
昨夜の欄には、こう書いてある。
カレンダーは棚の下に保管。鍵皿は左端。十円玉一枚。
その下に、見覚えのない筆圧が重なっていた。
十円玉二枚。
私はペンを握ったまま、しばらく動けなかった。自分で書いたのかもしれない。眠る前に書き忘れたことを、今になって思い出しただけかもしれない。
けれど、筆跡の最後の払いが、私のものより少し長かった。
帰宅したのは午後九時過ぎだった。
玄関を開ける前に、鍵、財布、社員証を確認した。順番を間違えないよう、指で触れて確かめる。一度。二度。三度。
部屋に入ると、昨日より湿った匂いがした。
照明を点ける。
鍵皿は中央より右。十円玉は二枚。
壁時計は、スマートフォンより三分遅れている。
私は鞄を机の右側へ置き、コートをハンガーにかけた。夕食を作る気にはなれず、コンビニで買ったおにぎりを一つ食べた。海苔の湿った匂いが口の中に残った。食べ終えた包みをゴミ袋へ入れ、袋の口を二度結んだ。
換気扇が回った。
スイッチは切れている。
昨日と同じ音だった。ただし、今日は少し高い。モーターの回転が速いのではなく、音そのものが天井の近くで張りつめている。一定の唸りの途中に、短い空白が挟まる。
回っている。
止まる。
また回る。
その間に、人の息がある。
私は椅子から立ち上がり、キッチンへ進んだ。スイッチを確認した。切れている。ブレーカーも落ちていない。換気扇の羽根は見えない。カバーの向こうで、何かがゆっくり回っている。
耳を近づけた。
息が、ひとつ。
私は息を止めた。
息が、ひとつ。
私の呼吸ではない。
音が止まった。
その直後、壁の向こうから擦過音が聞こえた。机の脚を引く音。短く、乾いている。
一度。
少し間を置いて、二度。
三度。
四度。
五度。
音は隣室の壁際から始まり、こちらへ近づいてきた。床の上を何かが滑っている。家具を動かしているというより、家具の位置を測っているような音だった。
私は数えるのをやめられなかった。
六度。
七度。
音が玄関側で止まった。
ドアの向こうではなく、こちら側。私の部屋の中、棚のすぐそばで。
鍵皿が動いた。
陶器の底が棚板に擦れ、かすかな高音を立てた。
私は振り向いた。
皿は、ゆっくりと右へ滑っていた。
誰も触れていない。けれど、皿は確かに動いている。鍵が皿の縁に当たって鳴る。十円玉が二枚、重なって転がる。

私は棚へ駆け寄り、皿を両手で押さえた。
冷たかった。
陶器の冷たさではない。水の中に沈めていたものを掴んだような冷たさだった。
皿の下から、紙が擦れる音がした。
段ボールをどける。
棚の奥へ手を入れる。
指先がカレンダーに触れた。
引き抜く前から、赤い丸が見えた。昨夜と同じ、二重の印。ところが、その下にもう一つ、薄い赤い輪が浮かんでいる。印刷された日付の周囲に、誰かが新しくなぞったような円だった。
私はカレンダーを取り出した。
赤い印の付いた日付は、一つではなかった。昨日まで気づかなかった小さな丸が、別の日にもある。どれも、同じ間隔で並んでいた。二日、三日、四日。日付の数字を追うと、最初の二重丸から、次の丸までが三日空いている。
その三日後にも、印がある。
さらにその先にも。
私は手帳を開き、日付を書き写そうとした。だが、ペン先が紙に触れた瞬間、換気扇が大きく唸った。
壁の向こうから、凛の声が聞こえた。
「朝倉さん」
隣室との壁越しではない。玄関の外だった。
私はカレンダーを手にしたまま、ドアへ向かった。のぞき穴から廊下を見る。西園寺凛が立っている。片手に薄いマグカップを持ち、もう片方の手でスマートフォンを握っていた。廊下の蛍光灯が彼女の頬を白く照らしている。
ドアを開ける前に、私は鍵を確認した。
一度。
二度。
三度。
チェーンをかけたまま、ドアを少し開けた。
「何かありましたか」
凛はすぐには答えなかった。壁のほうへ顔を向け、耳を澄ましている。彼女のマグカップから、薄いコーヒーの匂いがした。
「昨夜も、同じ音がしました」
「換気扇ですか」
「それだけじゃないです。音の出方が、昨日と違う」
「どう違うんですか」
「あなたの部屋の中にある音が、壁を越えてきます。換気扇とか、水道とか、椅子を引く音とか。普通なら、壁の中を通る間に混ざるんです。でも、今夜は一つずつ分かれて聞こえる。まるで、誰かが順番に鳴らしているみたいに」
私はカレンダーを背中側へ隠した。
「隣の部屋で、家具を動かしているんじゃないですか」
「私の部屋では動かしていません」
凛はそう言ってから、マグカップを持ち直した。
「疑っているわけではありません。私は音を記録しています。前の部屋でも、同じようなことがあったので」
「前の部屋でも?」
「壁の向こうから、誰かが生活を戻していく音がしたんです。最初は、隣人が家具を動かしていると思いました。でも、夜になると同じ位置から同じ音がする。机を引く音、鍵を皿に置く音、冷蔵庫を開ける音。人がいない時間にも続いていました」
「それで、引っ越したんですか」
「はい。引っ越せば終わると思ったので」
彼女はそこで言葉を切った。マグカップの中の液体が、わずかに揺れている。
「でも、終わりませんでした。次の部屋でも、音は少し遅れて聞こえた。自分が立てた音のあとに、同じ音が一つ返ってくるんです。返事みたいに。だから、気のせいで済ませるのはやめました。気のせいにしている間に、音のほうがこちらの生活を覚えてしまうから」
胸の奥に、冷たいものが落ちた。
「あなたは、この部屋について何か知っているんですか」
「知っているわけではありません。ただ、初日にカレンダーを見つけたなら、捨てないほうがいいです」
「どうして」
「印が付いているからです」
凛は私の背後へ視線を向けた。
「赤い丸は、予定を書いたものとは違います。予定なら、その日の前に準備するでしょう。でも、あれは終わったあとに付けた印に見える。何かが終わった日、あるいは、何かが始まった日。私にはそう聞こえます」
「印は、音じゃないですよ」
「そうですね」
凛の口元がわずかに動いた。笑ったのか、困ったのか分からない。
「でも、見えるものだけを信じると、見えないところで進んでいるものを見落とします」
換気扇が、また低く唸った。
凛の顔からわずかに血の気が引いた。彼女はマグカップを持つ手を止め、壁へ耳を向ける。
「今、聞こえましたか」
「何がです」
「一呼吸、遅れました」
私は答えなかった。
凛は玄関脇の棚を見た。私の背中に隠したカレンダーを見ようとしているのではない。鍵皿を見ている。
「鍵皿、昨日と場所が違います」
「動かしたんです」
「そう思うなら、それでいいです」
「思うなら、ではなく、動かしたんです」
声が少し強くなった。凛は私の顔を見た。目の奥に疲労がある。けれど、逃げる人間の目ではなかった。
「そう言い切れるなら、まだ大丈夫です」
「まだ?」
「自分で置いたものを、自分で置いたと言えるうちは」
彼女はそれ以上、説明しなかった。説明しないまま、ドアの外へ半歩下がった。
「明日、管理会社に聞いてください。前の住人のことを」
「聞きました。急な退去だったとしか言われませんでした」
「それなら、もう一度聞いてください。今度は空室期間も。鍵の交換日と清掃の日付も。数字は、音より嘘をつきにくいので」
「あなたは、どうしてそこまで」
凛は返事の前に、わずかに間を置いた。
「前に、聞こえたものを無視しました。隣の部屋で、誰かが毎晩、同じ場所を歩いていた。私は騒音だと思って、管理会社に連絡しただけです。相手が困っているとは考えなかった。ある朝、その音が急に消えました。静かになったから安心した。でも、数日後に部屋の前を通ったら、郵便物が溜まっていた。誰も、何も言わなかった。私も言わなかった」
彼女の声は小さかった。小さいのに、廊下の奥まで届くように聞こえた。
「だから、今回は無責任に大丈夫とは言いません。怖いなら怖いと言ってください。変だと思うなら、変だと言ってください。言葉にしたものだけが、あとで自分の側に残ることがあります」
私は手の中のカレンダーを見下ろした。
紙の端が湿っている。赤い印の周囲だけ、指先にざらつきが残る。
「……この印を、写真に撮ってもいいですか」
「撮ったほうがいいです」
「何枚も?」
「同じ角度で。時刻も一緒に。できれば、鍵皿と時計も入れてください」
凛はそう言って、スマートフォンを掲げた。
「私も録音を残します。明日の夜、音が変わったら比べられるように」
「あなたは、巻き込まれたくないんじゃないんですか」
「巻き込まれたくないです」
即答だった。
「でも、もう壁一枚のところにあります。知らないふりをしても、音は消えません。なら、聞こえたものを聞こえたまま残します。残すだけです。助けるとは言いません」
その言い方が、かえって信じられた。
凛が自室へ戻り、ドアが閉まった。鍵を回す音が二度聞こえた。彼女も、私と同じように確認しているのかもしれない。
私は部屋へ戻った。
換気扇の音は止まっていた。
壁時計を見る。スマートフォンより三分遅れている。
鍵皿は中央より少し右。十円玉は二枚。
私はカレンダーを机の上へ置き、赤い丸の日付を一つずつ書き写した。手帳のページを日付順に区切り、横に時刻、音、物の位置を書く。書いている間も、隣室から小さな物音が聞こえていた。凛が机の上を片づけている音だった。物を直線に揃える、細く乾いた音。
その音に重なって、部屋のどこかから、もう一つの擦過音がした。
凛の部屋より、ほんの少し遅れている。
私はペンを止めずに、間隔を数えた。
一つ。
二つ。
三つ。
四つ目の音が鳴ったとき、壁時計の秒針が動いた。
スマートフォンの時刻から、三分遅れて。
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