1話 鍵と棚と、残された日付

鍵を受け取ったとき、井口美帆は「こちらで間違いございません」と言った。

その言い方が、妙に耳に残った。部屋番号を確認しただけなのに、まるで私の名前や住所や、これからここで暮らす時間まで、ひとまとめにして渡されたようだった。

「何かございましたら、管理室までお電話ください。設備については、先ほどお渡しした案内に記載がございます。給湯器のリモコンは少し古い型ですが、操作方法は同じですので」

美帆は黒いバインダーを閉じ、角を指で一度だけ揃えた。書類の端がきれいに重なっている。私はその手つきを見ながら、鍵をもう一度、掌の中で確かめた。

「前の入居者の荷物は、残っていませんよね」

「はい。引き渡し前に確認しております」

「壁や棚に、何か書き込みが残っているとか、そういうことも」

「通常の清掃と確認は済んでおります。気になる箇所がございましたら、写真を撮ってお送りください。入居時の状態として記録いたしますので」

質問に答えているようで、答えは私の手元へ届かない。けれど、これ以上聞けば細かい人間だと思われる気がして、私は礼を言った。

転職初日を三日後に控え、私は東京へ来た。地方での仕事を辞めた理由を、誰かにきちんと説明したことはない。説明しようとすると、失敗したこと、逃げたこと、逃げた先でも同じように失敗するかもしれないことが、一つの文章の中で絡まってしまう。だから「環境を変えたかった」とだけ言っていた。

この部屋では、余計なことを考えないつもりだった。

駅から徒歩十分。築二十八年。オートロック付き。南向きではないが、窓の外に隣の建物の壁が見えるだけなので、余計な景色に気を取られずに済む。家賃は予算を少し超えたが、管理費込みで計算すれば許容範囲だった。私は契約書の数字を何度も確認し、月々の支出を黒い手帳の後ろのページに書き出していた。

玄関の鍵穴へ鍵を差し込む。回す。抜く。

一度。

ドアを開けて荷物を入れ、閉める。再び鍵をかける。

二度。

それから取っ手を引いて、施錠されていることを確かめる。

三度。

癖というより、手順だった。手順を守れば、少なくとも自分が何をしたか分からなくなることはない。

扉を開けた瞬間、乾いた埃の匂いがした。清掃済みだと聞いていたが、床には細かな砂のようなものが残り、壁紙からは湿った紙の匂いが上がっていた。新しい家具の匂いを期待していたわけではない。それでも、誰も住んでいなかった部屋の匂いではないと思った。

運送会社の男たちが段ボールを運び込んでいる間、私は玄関の脇に立ったまま、部屋の全体を見ていた。

細長いワンルームだった。入ってすぐ右に小さなキッチン、左に備え付けの棚。奥に窓があり、その手前に壁時計が掛かっている。壁時計は白い枠の安価なものだった。針は午後四時十八分を指していたが、スマートフォンは四時二十一分だった。

私は時計を外し、背面のつまみを回した。秒針が一度、引っかかるように震え、それから動き出した。

「時計、前から付いてたんですね」

段ボールを置いた男が言った。

「そうみたいです」

「壊れてたら管理会社に言ったほうがいいですよ。こういうの、止まってても気づかない人多いんで」

男は笑って、次の箱を持ち上げた。私は笑い返しながら、時計の針をスマートフォンに合わせた。

箱を開けるたび、部屋は少しずつ私のものになった。寝具、食器、洗面用品、仕事用の鞄。地方の部屋から持ってきたものは、思ったより少なかった。持ち物を減らしたのは、過去を捨てたかったからではない。何を持っていけばいいか、もうよく分からなかったからだ。

最後の箱を開けた頃には、外が暗くなっていた。

玄関脇の棚へ、鍵皿を置いた。薄い陶器製で、白地に細い青線が入っている。新居用に買ったものだ。棚の中央より少し右へ寄せ、鍵を置く。鍵の持ち手が左を向くようにして、財布の小銭入れから十円玉を二枚出し、皿の奥へ並べた。

鍵、十円玉、鍵。

それが私の帰宅後の形になる。

棚の奥に何かが立てかけられていることに気づいたのは、そのときだった。

引き抜くと、古い壁掛けカレンダーが出てきた。表紙はなく、月の名前も見えない。紙は黄ばんでいて、下端に水が染みたような波打ちがある。曜日の並びから今年のものではないことは分かったが、何年前のものかまでは判別できなかった。

日付のいくつかに、赤い印が付いていた。

最初は、予定を書き込んだ跡だと思った。通院日か、家賃の支払日か、ゴミ出しの日。だが、印は文字ではなかった。日付を囲む赤い丸。そのうち一つだけ、同じ場所をなぞったように二重になっている。

それが、今日の日付だった。

私はカレンダーを棚の上に置き、スマートフォンの日付を確認した。間違いない。引越しの日。私がこの部屋の鍵を初めて回した日。

赤丸の下には、何も書かれていない。

私は指で紙の表面を撫でた。赤い部分だけ、少し盛り上がっている。ペンではなく、朱肉を押しつけたような色だった。乾いた赤ではない。古い血のようだ、と思ってしまい、すぐにその考えを打ち消した。

血に見えるものは、たいてい赤いインクだ。古い部屋に古いカレンダーが残っている。それだけのことだ。

そう考えながら、黒い手帳を開いた。

日付を書いた。

曜日を書いた。

入室時刻、荷物の搬入完了時刻、鍵を差し込んだ回数を書いた。

さらに、カレンダーに赤い二重丸があることも記録した。理由は不明。前居住者の忘れ物と思われる。処分予定。

最後に、処分予定の文字を二重線で消した。捨てる前に管理会社へ確認する、と書き直した。

理由のないものを、そのまま部屋に置いておくのが嫌だった。理由が分かれば、怖くない。怖くないというより、怖がる必要がなくなる。

私は部屋の整理を始めた。

冷蔵庫に缶コーヒーを四本入れ、賞味期限の近い順に左から並べた。台所の洗剤は流しの右側へ置き、スポンジは蛇口から一定の距離を取った。机は窓と平行にし、椅子は机の中央へ戻した。段ボールは壁に沿わせ、結び目を同じ向きに揃えた。

生活は、物の位置から始まる。

物の位置が決まれば、次に行動の順番が決まる。朝はカーテンを開け、湯を沸かし、コーヒーを入れる。帰宅したら鍵を皿に置き、手を洗い、鞄を机の右側へ置く。決めた手順を繰り返せば、昨日までの自分と明日の自分をつなぐことができる。

前の職場では、それができなかった。

決めた予定が崩れ、確認すべきことを確認できず、あとから誰かに指摘されるたび、自分の中の一部が少しずつ欠けていった。東京へ来たのは、仕事を変えるためだけではなかった。自分の生活を、自分の手で組み直すためだった。

だから、棚の鍵皿がずれていることに気づいたとき、私は最初、腹を立てた。

置いた位置から、三センチほど奥へ移動している。

もちろん、皿が動くことはある。鍵を置くときに指が当たったのかもしれない。段ボールを運んだ際の振動で滑った可能性もある。私は棚板の奥行きを測り、皿の縁に鉛筆で小さく印を付けた。

それから、皿を印の位置へ戻した。

念のため、スマートフォンで写真も撮った。写真には、鍵皿、鍵、二枚の十円玉、背後のカレンダーが写った。私は画像を確認し、時刻を見た。午後八時四十七分。

その時刻も手帳に書いた。

夕食はコンビニの弁当で済ませた。プラスチックの蓋を開けると、冷えた米と醤油の匂いがした。窓の外では、車が濡れた道路を走る音が途切れずに続いている。雨は降っていないのに、どの車も濡れているような音を立てた。

食べ終わった容器を袋に入れ、玄関脇へ置いた。袋の口を結ぶ。結び目は二つ。明日の朝、燃えるゴミに出す。

そのとき、換気扇が回った。

スイッチは切っていた。だが、キッチンの上から低い唸りが聞こえた。一定の回転音ではない。音が膨らみ、少し沈み、また膨らむ。その途中に、誰かが息を止めているような短い間があった。

私は食卓代わりの机から立ち上がり、キッチンへ向かった。

スイッチを確認する。切れている。

ブレーカーを落とす必要はない。換気扇の故障だろう。古いマンションなら珍しくない。そう自分に言い聞かせながら、耳を近づけた。

唸りの底に、別の音があった。

擦れる音。

机か、椅子か、何か重いものを床の上で引いている。隣室から伝わっているのかもしれない。壁の向こうで誰かが家具を動かしている。そう考えると、音の位置が少しずつ変わっていくのが分かった。キッチンの天井から、壁へ。壁から床へ。床から玄関のほうへ。

私は息を止めた。

音が止まった。

停止したことで、かえって部屋の広さが分かった。冷蔵庫のモーター、配管の奥を流れる水、遠くの救急車。東京の夜には、無音になる瞬間がない。何かしらが鳴っている。だからこそ、その中から消えた音の形が分かった。

私は照明を消し、すぐに点けた。

部屋は同じだった。

机も、椅子も、段ボールも、冷蔵庫の缶コーヒーも、私が決めた位置にある。

玄関へ行き、鍵を確認した。施錠されている。取っ手を引いてみる。動かない。

棚を見る。

鍵皿は印の位置にあった。鍵も、十円玉も、並びは崩れていない。

カレンダーだけが、先ほどより少し傾いていた。

私は手を伸ばし、まっすぐに戻した。紙の裏に指が触れた。冷たかった。部屋の中に置かれていた紙とは思えないほど、冷たく、湿っていた。

カレンダーを捨てるため、棚から取り出した。

紙を二つ折りにしようとしたが、赤い二重丸のある日付が目に入った。丸の中心に、細い線が一本走っている。印の下には、消しゴムで削った跡があった。かつて何か書かれていたらしい。文字の形は残っていない。ただ、筆圧だけが紙に沈んでいた。

私はカレンダーを丸め、ゴミ袋の横へ置いた。

その直後、玄関の向こうで足音がした。

一人分。

廊下を歩いてくる音が、私の部屋の前で止まった。鍵を持つ手に力が入る。インターホンが鳴るかと思ったが、鳴らなかった。

代わりに、棚の奥から小さな音がした。

紙が擦れる音だった。

振り返ると、丸めたはずのカレンダーが、棚の上に立てかけられていた。

赤い二重丸が、こちらを向いていた。

私はしばらく動けなかった。外の足音も消えていた。誰かが立っている気配だけが、ドア一枚向こうに残っている。

やがて、壁時計の秒針が一つ進んだ。

その音は、実際より少し遅れて聞こえた。

私はカレンダーを手に取り、今度は棚の下へ押し込んだ。上から段ボールを重ね、見えないようにする。鍵皿を持ち上げ、置き場所を変えた。棚の右端ではなく、左端。鍵の向きも逆にした。十円玉は一枚だけにした。

自分の部屋なら、自分のやり方で決めていい。

そう思った。

ベッドへ入る前、私は黒い手帳を開いた。今日の記録の最後に、短く書き足す。

カレンダーは処分していない。棚の下に保管。赤い印の意味は不明。

ペン先を止めた。

その下に、もう一行書いた。

この部屋に、私の知らない手順がある。

書いてから、私はその文を何度も読み返した。大げさだと思った。疲れている。引越しの日は、誰でも普段と違う音を聞く。知らない部屋では、知らない匂いがする。物の位置が少しずれることもある。時計が遅れることも、換気扇が故障することもある。

それでも、眠る前に私は玄関へ戻った。

鍵を確認する。

一度。

取っ手を引く。

二度。

棚の鍵皿を見る。

三度。

皿は、左端に置いたはずだった。

だが今は、中央より少し右にある。

その縁に、薄い埃の筋がついていた。さっきまで置かれていた場所を示す筋ではない。誰かが、皿を滑らせたあと、指先でその跡をなぞったような筋だった。

私は皿を持ち上げ、元の位置へ戻した。

換気扇が、また回り始めた。

今度は、その音の中に、はっきりと息が混じっていた。誰かがすぐそばで、私の眠りを待つように、ゆっくり息を吐いている。

壁時計の針が、三分遅れていた。

この夜、私はまだ、それをただの見落としだと思っていた。

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