第9話 誰かの手で整えられた夜

その夜、私は月舟堂の明かりを落とさずに、美和を待った。
修理台帳、四通の封筒、早潮印刷の伝票、紙鳩の受領メモ、そして万年筆の内部から出てきた紙片。机の上に並べたそれらは、もう資料というより、十年という歳月そのものの断片だった。翠が隅の椅子に腰掛け、志保が戸口に立ったまま動かない。誰も、美和が来るかどうかを言葉にしなかった。ただ、来るだろうという確信だけが、店の湿った空気の中に静かに満ちていた。
戸が開いたのは、商店街の明かりがほとんど落ちた頃だった。
美和は白い手袋をしていなかった。素手で、遺品箱を胸に抱えている。彼女は机の上の紙の並びを一瞥し、それから、逃げる場所を探すのをやめたように、ゆっくりと腰を下ろした。
「三月十七日の夜、何があったんですか」
私が訊くと、美和はしばらく黙っていた。だがそれは、以前のような閉じるための沈黙ではなかった。開くための、最後の呼吸だった。
「冬馬は、あの日の夕方、月舟堂の裏口に来ました。手には万年筆と、封筒の束。それから、誰かに見られてはいけない紙も持っていました。私はそれを見ていません。でも、あとで分かりました。あの人は、自分の勤め先で見つけてしまった不正を、誰かに預けようとしていたんです」
「不正」
「詳しいことは、私にも分かりません。ただ、冬馬は几帳面すぎる人でした。数字が合わないことに気づいたら、見ないふりができなかった。誰かに正すよう求めても、揉み消される。それなら、自分の手で記録を残すしかない。あの人は、そう考えたんだと思います」
美和の指が、箱の縁を撫でた。
「その夜、冬馬は診療所の裏で誰かと会う約束をしていました。渡すはずだった証拠を、代わりに誰かへ届けてもらうために。悠里さんが運んだのは、その一部です。でも――」
彼女の声が、初めて震えた。
「冬馬は、その約束の場所には辿り着けませんでした。空き家で火が出たのは、その帰り道です。事故だったのか、誰かに口を塞がれたのか、私には今でも分かりません。分かっているのは、あの人が死んだという事実と、その死が、都合よく『失踪』として扱われたということだけです」
志保が一歩、机に近づいた。
「失踪届が先に出されたのは、遺体の確認が遅れたからですか」
「いいえ」
美和は首を振った。
「確認が遅れたのではなく、確認させなかったんです。冬馬の勤め先の人間が、家に来ました。火災と冬馬を結びつけないでほしい、と。世間体のためでも、私のためでもない。あの会社の名前を守るためです。私は、抗いませんでした。抗う強さがなかった。だから、失踪届を出し、遺品を三つの箱に分けて、誰にも全体が見えない形にしてしまった」
「万年筆は、月舟堂へ」
私が言うと、美和は頷いた。
「冬馬が最後に望んだのは、たった一つでした。『受け取る人を間違えないで』。あの人は、証拠を正しく届けたかった。けれど私は、その言葉さえ都合よく解釈しました。誰にも渡さなければ、誰も傷つかないと思い込んだ。蓮さんに預けた万年筆は、本当なら、冬馬が最後に選んだ相手への贈り物だったのに、私はそれを、ただの遺品として棚に沈めてしまった」
早瀬が、いつの間にか戸口に立っていた。乾も、竹下も、それぞれ少し遅れて店に入ってきていた。誰も呼んでいない。だが、誰も来ないという選択肢はもう残っていなかったのだろう。
「封筒を刷ったのは俺だ」
早瀬が言った。
「美和さんから頼まれた。宛名は自分で書くから、紙とインクだけ用意してくれと。俺は、それが何のためかを深く聞かなかった。聞けば、断れなくなると思ったからだ」

「部品は俺が渡した」
乾が続けた。
「旧式のコンバーターだ。冬馬さんが、蓮さんの店で直せるようにと、自分で選んだ型だった。俺はそれを、裏口で美和さんに渡した。帳面には書かなかった。書けば、誰が何のために動いたか、筋が見えてしまうからだ」
「最後に運んだのは私です」
竹下が言った。
「封筒の束と、店の鍵。渡した先は美和さん。中身を知らなかったというのは噓じゃない。でも、重さと金属の音で、ただの手紙じゃないことは分かっていました。分かっていて、何も聞かなかった」
美和は、その三人の声を、身じろぎもせず聞いていた。
「私は、十年のあいだ、箱を閉じ続けました。閉じることが、冬馬を守ることだと思っていた。でも去年の秋、蓮さんがまだこの店にいると知って、初めて気づいたんです。私が守っていたのは、冬馬ではなく、自分の沈黙だったと」
彼女は遺品箱の底から、あの白い封筒を取り出した。差出人欄のない、まだ死者の名を借りていない紙。
「毎月十七日に届けていたのは、私です」
その言葉は、驚きを連れてこなかった。ただ、机の上に並んだ紙の全てが、その一言のために存在していたのだと、私は今さらのように理解した。
「最初の一通は、蓮さんに気づいてほしくて、精一杯冬馬の字を真似ました。でも書くたびに、自分のしていることが怖くなった。死んだ人の名前を使って、生きている人を動かすことの意味が、書けば書くほど重くなっていった」
翠が静かに言った。
「筆圧が浅くなっていったのは、そのせいですね」
「はい。逃げたかったんです。でも、途中でやめれば、冬馬の最後の望みごと、もう一度沈めてしまう気がして。だから、怖いまま、書き続けました」
私は、机の上の万年筆を手に取った。ペン先を光にかざす。右側の切り割りに残る、わずかな開き。十年前、私が見過ごした歪みは、冬馬が最後に託した重みそのものだった。
「この封筒は」
私は白い封筒を見た。
「誰宛てですか」
「蓮さんです」
美和の声は、初めて澄んでいた。
「まだ、宛名を書いていません。冬馬の字も、私の字も。どちらでもない形で、あなたに渡したかった」
私はその封筒を受け取った。封を切らなかった。切れば、十年という時間が、一枚の紙の答えに縮んでしまう気がした。
窓の外では、商店街の明かりが一つ、また一つと落ちていく。雨上がりの匂いはもう薄れ、乾いた夜気だけが残っていた。私は台帳を閉じず、ただ頁を押さえた。見落とした一本の万年筆は、見落としたまま消えなかった。誰かが、誰かに届く順番を、長い沈黙の中で選び続けていた。その順番の最後に、自分の名があったことを、私はようやく受け取った。
月舟堂の郵便受けは、もう鳴らない。だが夕暮れは、以前よりほんの少しだけ、長く感じられた。
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