第10話 封を切る日

十七日の朝、私は郵便受けを見に行った。
鍵を差し込む前から、何も入っていないことは分かっていた。いつもの角形封筒があれば、蓋の重みがほんの少し変わる。郵便受けは空で、底に昨夜の湿気だけが薄く溜まっていた。
私は指でそこを拭い、濡れた指先を見た。
黒い汚れはつかなかった。
店へ戻ると、机の上には昨夜のまま、白い封筒が置かれていた。差出人欄も宛名もない。紙は古く、折り目だけが新しい。美和が十年のあいだ箱の底へしまい、取り出しては戻した紙だった。
鳥居志保は午前中に来た。
黒い手帳と、厚みの増したファイルを抱えている。ファイルの背には、沢井冬馬の名前が書かれていた。これまで別々の紙に散っていた名前が、初めて一冊の中に収まっている。
「正式な扱いは、これからです」
志保はそう言い、ファイルを机へ置いた。
「失踪届、火災記録、診療所の記録、遺品整理の経緯。すぐに一つの結論へまとめることはできません。ただ、記録が分散された理由と、誰が何を動かしたかは、確認できる範囲で整理します」
「罪になるかどうかは」
「別の話です」
彼女は封筒を見た。
「起きたことを記録するのが先です。罪にできないことでも、起きなかったことにはなりません」
私は封筒の端を指でなぞった。
「これを開けると、何かが終わる気がします」
「終わらないかもしれません」
「では、何のために開ける」
志保は少し考えた。彼女が考えるとき、手帳の端を爪で押さえる。
「開けなければ、封筒の中身が存在しないことになりますか」
「そうはならない」
「記録も同じです。書かれていないから、起きていないわけではない。ただ、書かれていないものは、誰かがあとから都合よく形を変えられる」
志保は封筒を私の側へ押した。
「読むかどうかは、篠原さんが決めてください。でも、読まないことを選ぶなら、それも自分の記録に残しておいた方がいい」
彼女が帰ったあと、翠がリリオから運んできた珈琲を机の端へ置いた。湯気が封筒の表面を撫で、紙の古い匂いが少し濃くなる。
「志保さん、相変わらずですね」
「何が」
「選ばせるように見えて、逃げ道だけは残さない」
「逃げ道が必要なときもある」
「蓮さんは、逃げ道を使わないでしょう」
翠はそう言って、封筒の隣に小さな紙文鎮を置いた。冬馬の遺品箱に入っていたものだ。黒い石の表面が、窓から差す冬の光を鈍く返している。
「これは、どうして」
「紙が飛ばないように」
「冬馬が使っていた」
「はい。書いたものを、どこかへ飛ばさないために」
翠はそれ以上何も言わなかった。
私は封筒を裏返した。糊は一度剥がされ、別の糊で閉じ直されている。美和が開けなかったという言葉を、私は疑わなかった。これは誰かが、十年前に一度だけ開け、また閉じた封筒だった。
細いヘラを差し込む。
紙の繊維が、乾いた音を立てた。
中には便箋が一枚と、薄い布に包まれた小さな金属片が入っていた。金属片は、万年筆のペン先を固定するための古い部品だった。閉店の日、私が見落とした一本から欠けていたものと同じ型だ。
便箋を広げる。
文字は冬馬のものだった。
《篠原さんへ》
書き出しのあとに、長い空白があった。紙の中央に、筆を置いたまま考えた跡が残っている。インクは黒ではなく、深い藍だった。
《この手紙をあなたが読む頃、私はもう自分で説明できない場所にいると思います。もし、万年筆が月舟堂に届いたら、直さなくていい。壊れた理由だけを見てください》
私はそこで手を止めた。
ペン先の切り割り。コンバーターの接続部。軸の内側に巻き込まれていた紙片。あれは証拠を隠すための仕掛けではなかった。壊れた理由を、私に見せるために残されたものだった。
《私が困っているのは、誰かを罰してほしいからではありません。人は、守ろうとして記録を壊します。私もそうです。書かなければ、なかったことになる。書けば、誰かの手に渡る。その間で、ずっと迷っています》
便箋の端に、インクの小さな滲みがあった。冬馬の文字は最後の一画だけが、いつものように内側へ縮んでいる。
《もし私の名前が、どこかで別の出来事の中へ紛れていたら、見つけてください。私のためではなく、名前がそこにあったという事実のために》
最後の行は短かった。
《受け取る人を、間違えないでください》
私は便箋を伏せた。
店の中で、時計の針が一つ進んだ。音は小さかったが、修理台の金属音よりはっきり聞こえた。
「蓮さん」
翠が呼んだ。
私は返事をしなかった。代わりに、机の引き出しから新しい修理台帳を取り出した。古い台帳の隣へ置き、表紙を開く。
最初の頁に、日付を書いた。
依頼人の欄には、沢井冬馬。
品名の欄には、万年筆一式。
状態の欄には、ペン先の偏り、旧式コンバーターの欠損、軸内に紙片あり、と記した。
しばらく迷ってから、備考欄へ続けた。
《本人の意志により、修理せず保管。記録を確認》
書き終えた文字が乾くまで、私は手を離さなかった。
やがてインクの艶が消え、紙の上に線だけが残った。
その日の夕方、月舟堂の看板を拭いた。店を再開するつもりはまだなかった。けれど、戸を閉めたままにしておく理由も、以前とは違っていた。
郵便受けは空だった。
私は鍵を掛け、少しだけ蓋を開けておいた。風が通るほどではない。ただ、次に誰かが手紙を入れたとき、紙が底で湿らないように。
濡れた石畳の向こうで、商店街の灯りが順にともった。
私は店の中へ戻り、閉じなかった台帳の頁を、紙文鎮で押さえた。
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