第9話 結果から逆算する男

開会式のざわめきが遠くで潮のように引いていくころ、私は放送室の机に、書き終えた台本を並べていた。
三枚。多くはない。だが空白の位置まで、私は自分の意志で決めた。真琴が録ってきたガムテープの音、看板を貼る音、ミキサーのノイズ――それらを重ねる順番も、頭の中でおおよそ組み終えている。あとは声にするだけだった。喉の奥にはまだ、いつもの一拍が残っている。それでも今は、その一拍ごと持っていくつもりだった。
扉が、ノックもなく開いた。
「編集、終わった」
黒木瞬だった。ノートPCを片手に、もう片方の手にはヘッドホンを提げている。傷の入ったイヤーパッドが、蛍光灯の光を鈍く反射した。彼は机の上の台本へ視線を落とすと、すぐに手に取った。
「……三分十秒。尺は合う」
「読んだの」
「読んだ。三好遙の原稿も、これも」
短い返事のあとに続く沈黙が、いつもより長かった。私は身構えた。使える、という一言が、また彼の口から出てくるのではないかと思ったからだ。原稿を引き戻す準備をするように、指先が自然と台本の端へ動く。
「それ、使える」
来た。案の定だった。私は台本を掴んだ。
「勝手に――」
「灯の台本の話をしている」
瞬の声は、いつもと同じ平坦さだった。だが、続く言葉は、私が予想していたものとは違っていた。
「三好遙の原稿は、映像には使わない。空白の位置も、消された名前も、あれは編集で削れる種類のものじゃないと分かった。読んで、判断した」
「……読んで」
「五分では判断できないと言っただろう。だから昨夜、全部読んだ。何度も」
私は台本を握った手の力を、少しだけ緩めた。瞬は椅子を引き寄せもせず、机の端に腰を預けた。ノートPCの画面には、編集済みのタイムラインが並んでいる。ガムテープの音の波形、紙の擦れる音の波形、そして声を録るために空けられた、まだ何も入っていない帯。
「三好の原稿には、削れない空白があった。あれは間を取っているんじゃない。止まっているんだ。放送のリズムのための沈黙と、本人が止まった沈黙は、波形を見れば違う。分かるようになる」
「波形で、分かるの」
「分かる、と言えば怒られるかもしれない。だが、少なくとも僕には、そう見えた」
瞬はヘッドホンを机に置いた。傷の入った革が、蛍光灯の下で古びた艶を見せる。
「僕は、感傷を切ってきた。感傷を残したまま作業をすると、判断が遅れる。判断が遅れると、締切に追われて全体が崩れる。それを何度も見てきたし、自分でもやった。締切前日に、大事な素材を捨てられなかったせいで、映像全体が完成しなかったことがある。あの時、僕は感傷を憎んだ。感傷のせいで、間に合わなかったと思った」
「でも」
「でも、今回は違う話だった」
瞬は台本を私の手から取り上げた。指先が紙の端に触れる。冷たかった、初めて原稿を手に取った時と同じように。
「灯が書いたこれは、感傷で止まっていない。空白を残しているのに、次の行へ進んでいる。三好の原稿は、空白のまま終わっていた。でも、これは違う。三行分の白の後に、灯の言葉が続いている。それが、僕の中の基準で言う『使える』の意味だ」
「基準って、間に合うことでしょう」
「間に合うことだけじゃない。届くことも含めた基準だ。締切に間に合っても、届かないものは意味がない。逆に、届くはずのものを、締切のせいで潰すのも意味がない。僕はずっと、前者だけを気にしてきた。後者を気にする余裕がなかった」
真琴が机の下から顔を上げた。看板の固定作業を手伝っていたらしく、両手にガムテープの切れ端を持っている。
「黒木、それ、灯に言うために来たの」
「言うために来た。あと、確認したいことがある」
瞬は台本のページをめくった。二枚目の下、赤いインクで薄く書かれた一文に、指を止める。
〈それでも、この校舎でまだ鳴っている声を、なかったことにはしたくない。〉
「これは、三好の原稿の一文だな」
「……うん。そのままじゃないけど、近い言葉を使った」

「そのまま使わなかった理由は」
「三好さんの言葉は、三好さんのものだから。私が言うなら、私の言葉にしないと、意味が変わる」
瞬はしばらく黙っていた。窓の外から、体育館側のスピーカーが遠く響いている。開会式の司会の声が、風に流されて途切れ途切れに届いた。
「その判断は、正しいと思う」
短い言葉だったが、瞬にしては珍しく、断定でも冷淡でもなかった。
「僕なら、そのまま使っていた。文章として優れているなら、書き手が誰であっても構わない、と考える。だが、灯のやり方は、僕のやり方より時間がかかる分、たぶん長く残る。理由は分からないが、そう思う」
「理由、分かるよ」
真琴がガムテープの切れ端を丸めながら言った。
「時間かけて自分の言葉にしたものは、あとで誰かに聞かれたとき、ちゃんと自分で説明できる。黒木のやり方だと、あとで『これ誰の言葉だっけ』ってなる。灯のは、絶対に灯の言葉だって分かる」
「それは、非効率の言い換えに聞こえる」
「効率の話してないんだよ、今」
真琴が肩をすくめる。瞬は反論しなかった。代わりに、ノートPCの画面を私の方へ向けた。
「音の帯は空けてある。読む順番と、間の長さは灯に任せる。ただし――」
「ただし?」
「一度録ったら、僕はそれ以上、編集で調整しない。声の震えも、詰まった部分も、そのまま使う。それが、灯の言った『間違いを消さない』ということの意味だと理解している」
胸の奥が、細く鳴った。
「……分かった」
「あと、もう一つ」
瞬はヘッドホンを持ち上げ、私へ差し出した。
「三好の原稿は、僕が藤沢先生に返す。その前に、テープケースのラベルの写真だけ撮らせてほしい。記録として残す。使うためじゃない。ただ、あったことを、僕の中にも残したい」
その言葉は、いつもの瞬の口調からわずかに外れていた。感情を測る単位を持たない男が、初めて別の単位を探しているような、そんな言い方だった。
「いいよ」
「ありがとう」
礫のように短い礫だったが、私はそれを、確かに受け取った。
真琴が窓の外を見て、時計を確かめる。
「あと十五分で、開会式終わる。特別回、昼前の枠だよね」
「うん」
「じゃあ、録るなら今」
私はヘッドホンを受け取り、片耳に当てた。マイクの前に座る。台本を机に置き、赤ペンを指の間で一度だけ回した。カチ、と軸の先が机に触れる音がする。
窓の外では、まだ紫苑祭の一日目が始まったばかりだった。校庭のスピーカーからは司会の声が流れ、遠くで太鼓が一度、また一度と鳴っている。放送室の中には、瞬の編集した音の帯と、真琴が録ってきた準備の音と、十年前の誰かが残した空白と、そして今、私が声にしようとしている言葉が、同じ場所に並んでいた。
「録るよ」
私は言った。
瞬が頷き、真琴が机の端を軽く叩いた。合図でも励ましでもない、ただそこにいるという証のような音だった。
私はマイクのスイッチへ手を伸ばした。赤いランプが灯る。喉の手前で、いつもの一拍が生まれる。
けれど今度は、その一拍ごと、声にするつもりだった。
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