8話 ぶっきらぼうな合流

赤ペンの先が、原稿の余白で止まった。

窓の外から、開会式の準備を知らせる放送が聞こえている。誰かの声が、校庭のスピーカーを通って薄く歪み、旧校舎三階まで上がってきた。言葉の端が風に削られ、意味の手前でほどけていく。

私は書きかけの台本を見下ろした。

〈今夜、ここに残っていた声を聞きました。〉

そこから先が決まらない。

遙の原稿をそのまま使わない。名前も、告白も、謝罪も、私のものとして語らない。けれど、あの紙に残っていた空白まで切り捨てたくはなかった。

私は「好き」という一文字を、台本の端に書いてみた。すぐに赤線で消す。

消したはずの文字は、紙の下から透けて見えた。

そのとき、放送室のドアが勢いよく開いた。

「いた。やっぱりここだ」

早瀬真琴が、肩で息をしながら入ってきた。片手には丸めた看板の下書き、もう片方には紙袋を提げている。白い絵の具が頬に細くつき、黒いマーカーの匂いと、乾きかけた絵の具の甘い臭いが、彼女の動きに合わせて部屋へ流れ込んだ。

「真琴、おはよう」

「おはようじゃない。もう開会式の二十分前。あんた、朝から何食べた?」

「えっと……」

「その顔は食べてない」

「水は飲んだ」

「水は食事じゃない」

真琴は紙袋を机へ置いた。中から、つぶれかけた菓子パンと、ぬるそうなカフェオレが出てくる。続けて、昨夜使っていた汚れた軍手を机の端へ放り、私の台本の束を持ち上げた。

「何するの」

「何って、散らかってるから片づける。あと、あんたが倒れたら私が困る」

「でも、今は台本を――」

「台本より先に顔を直せ。泣きそうな顔、やめろ」

乱暴な言葉だった。

けれど、真琴が私の前へ置いた紙コップの水は、こぼれないように机の中央へ丁寧に置かれていた。紙袋の底には、冷えたペットボトルを包んでいたらしい薄いタオルまで敷かれている。

「泣いてないよ」

「泣きそうって言ってんの。泣いてるとは言ってない」

「同じじゃない?」

「違う。泣いてから来る奴と、泣く前に黙り込む奴は別」

真琴は私の返事を待たず、机の上から進行表を引き寄せた。赤字の変更箇所を指で追い、時刻を確認する。目の動きが速い。看板の文字を配置するときと同じで、迷いながらも手を止めない。

「開会式前の案内、八時二十分。体育館音響、八時半。中庭の臨時放送が十時。特別企画は十一時に繰り上がってる」

「うん」

「うんじゃない。昨日より増えてる」

「分かってる」

「分かってる人間は、台本の余白に同じ言葉を三回書いて消したりしない」

私は台本を伏せた。

真琴の視線が、伏せられた紙の上へ落ちる。

「何を書いたの」

「何でもない」

「それ、昨日から何回目?」

「……分からない」

「数えたくないくらい多いってことね」

真琴は舌打ちしかけ、途中で飲み込んだ。代わりに、机の端からガムテープを取り上げる。紙袋の角が破れているのを見つけたらしく、そこへ短くテープを貼った。

びり、と音がした。

その音を聞くと、胸の奥の焦りがほんの少しだけ薄くなる。真琴は、話したくないことがあるほど手を動かす。看板を押さえ、紙を揃え、テープを裂く。その動作のひとつひとつが、言葉の代わりになっている。

「真琴」

「なに」

「昨日、約束したよね」

「何の?」

「放送が終わったら、原稿のことを話すって」

「覚えてる。忘れるほど馬鹿じゃない」

「その前に、話してもいい?」

真琴の手が止まった。

「今?」

「今」

「あと二十分で開会式」

「分かってる」

「分かってるなら、なんで今言うの」

「今じゃないと、また言えなくなる気がするから」

真琴は私を見た。絵の具のついた頬も、乱れた前髪も、昨夜より疲れている。けれど、その目だけは妙に鋭かった。

「それ、原稿の続きを書いたから?」

「それだけじゃない」

「じゃあ何」

喉の手前に、いつもの一拍が生まれた。

私は紙コップを持ち上げた。水はぬるい。飲めば時間を作れる。いつもなら、それで逃げる。けれど今回は、口をつける前に戻した。

「真琴が来てくれて、助かった」

「それは昨日も聞いた」

「昨日のは、たぶん違った。助かったって言えば、それで全部済むと思ってた。けど、本当は、来てくれたことを嬉しいと思ってる。私が一人で抱えてるのを、見つけてくれたことも。乱暴に紙を取ったり、勝手に水を置いたりするのも……」

「勝手にって言うな。必要だから置いた」

「そういうところも、分かってる。分かってるけど、分かってるだけで言わなかった」

真琴は黙っていた。

私は自分の声を聞いた。通っている。けれど、語尾は少し震えていた。

「私は、真琴がいることを当たり前にしてた。忙しいから頼めないとか、真琴なら気づくから言わなくていいとか、そうやって勝手に甘えてた。真琴が手を動かしてくれるから、私は言葉を出さなくても隣にいられると思ってた」

「……それ、褒めてるの?」

「違う。謝ってる」

「謝るなって言ったでしょ」

「でも、謝りたいこともある」

真琴は視線を落とし、黒いマーカーを指先で転がした。カチ、カチ、と蓋が鳴る。

「私だって、灯が言わないから放っておいた。気づいてたのに、気づいてないふりをした。あんたが何か言いかけて黙るたび、聞き返せばよかった。でも、聞き返して、何も返ってこなかったら嫌だったから、手を動かして誤魔化した」

「真琴も?」

「私も。だから、あんたばっかり悪いみたいな顔するな」

その声は荒かったが、最後のところだけ低くなった。

「私、灯が放送部を続けるのかも、ちょっと怖かった」

「え?」

「文化祭が終わったら、三年の先輩たちは引退する。来年は私たちが中心になる。あんたが放送をやめたら、私には止める理由がない。止める資格もない。でも、今までみたいに隣にいられなくなる気がして、嫌だった」

真琴の指が、マーカーの蓋を強く押さえた。

「だから、原稿を読んでる灯を見て、十年前の人に取られるみたいに感じた。あんたが過去の声の方へ行って、今ここにいる私たちを置いていくみたいで、腹が立った」

「置いていかないよ」

返事が、思ったより早く出た。

真琴が顔を上げる。

「まだ、何も決めてないけど。放送部を続けるかとか、来年どうするかとか、ちゃんとは考えられてない。でも、真琴がいる今を、過去の誰かのために消したいわけじゃない。遙さんの原稿を読んだからこそ、今ここにいる人の声を聞きたいと思った」

「私の声も?」

「うん」

「なら、もっと早く言え」

「今、言った」

「遅い」

「ごめん」

「だから謝るなって」

真琴はそう言って、私の台本を伏せたままの手に、自分の黒いマーカーを押しつけた。

「書け」

「何を?」

「今の話。放送で読むかどうかはあとで決める。忘れないように書いとけ。あんた、口で言ったこと、あとで勝手に消すから」

私はマーカーを受け取った。太いペン先が掌に食い込む。

「真琴の字で書くの?」

「私が書いたら看板になる。あんたの声なら、あんたの字で書け」

私は台本の新しいページを開いた。

何も書かれていない余白が、朝の光の中で白く浮かんでいる。いつもなら、すぐに埋めたくなる。けれど今は、何を書かないかも考えた。

私は一行目に、ゆっくりと文字を置いた。

〈来てくれて、嬉しかった。〉

真琴が横から覗き込む。

「短」

「これから続ける」

「最初から長くしようとするから詰まるんだよ。看板だって、いきなり全部描かない。まず線を引くだろ」

「真琴、看板と何でも結びつけるね」

「手を動かしてきた人間は、だいたいそう」

私は二行目を書いた。

〈一人でやらなくていいと、思い出せた。〉

そこまで書いて、マーカーを止める。

「これ、放送で読んでもいいかな」

「私に聞くなよ」

「でも、真琴のことだから」

「私の名前を出さないなら、好きにすれば。名前を出すなら、先に聞け」

「出さない。誰か一人のためだけに流すんじゃなくて、聞いている人が、自分の言えなかったことを少し思い出せるような放送にしたい」

「ずいぶん大きく出たね」

「怖いよ」

「そうは見えない」

「声だけはそう聞こえる」

真琴は一度、私の顔を見た。何か言いかけたが、代わりに机の上のテープケースへ手を伸ばす。ラベルの剥がれかけた部分を、指の腹で丁寧に押さえた。

「これ、どうする」

「流さない」

「即答」

「遙さんの声を勝手に使わない。テープは先生に渡す。でも、ここに残っていたことは放送で話したい」

「それも、名前を出さずに?」

「うん。十年前の放送部に、送れなかった原稿があったこと。書いた人は、言えなかったことまで消さずに残したこと。そして今、私たちがその続きを作ろうとしていること」

「それ、誰が聞くの」

「分からない。聞かれないかもしれない」

「聞かれなくても?」

私はテープケースの表面を見た。細かな傷の奥で、青い文字がかすれている。

「聞かれなくても、言う。聞かれないかもしれないから言わない、ってしていたら、ずっと送れないままだから」

真琴はしばらく黙った。

廊下の向こうで、開会式の音響確認が始まった。太鼓が鳴り、マイクを叩く乾いた音が重なる。誰かが走りながら「ケーブル、そっちじゃない!」と叫んでいる。

「灯」

「なに」

「今の、台本に書いといて」

「もう書いた」

「じゃあ、読めるようにしとけ」

「真琴は聞いてくれる?」

「聞く。途中で止まったら、机を叩く」

「本当に?」

「本当に。三回くらいなら」

「三回も止まる前提なの?」

「一回で済むなら、それに越したことないけど」

真琴は立ち上がった。机の上の進行表を二つに分け、一枚を私へ、一枚を自分の胸元へ押し込む。

「私は中庭側のスピーカーを見てくる。戻るまでに、放送の順番を決めといて。開会式の案内、各部紹介、特別回。特別回は最後に置くと時間が押すから、昼前の臨時放送に入れる」

「分かった」

「それから、カフェオレ飲め」

「真琴も飲んでないでしょ」

「私は歩きながら飲める」

「それ、体に悪いよ」

「先生みたいなこと言うな」

真琴は紙袋からカフェオレを一つ取り出し、私の手へ押しつけた。

「これ、二本買った。一本はあんたの」

「ありがとう」

「今度のは、軽くない?」

私はカフェオレの缶を握った。ぬるい金属が掌に馴染む。

「うん。ちゃんとありがとう」

真琴は一瞬、目を逸らした。

「なら、飲め。声が死んでる」

「またそれ?」

「何度でも言う。あんたの声は使えるから、壊すな」

ドアへ向かった真琴が、ふいに振り返った。

「あと、灯」

「なに?」

「文化祭が終わったあとも、隣にいてほしいとか、そういう話。放送が終わってから聞くから」

心臓が一度、大きく跳ねた。

「……分かった」

「今度は逃げるなよ」

「逃げない」

「なら、ちゃんと声にして」

真琴はそれだけ言って、廊下へ出ていった。軍手の擦れる音、早い足音、階段を下りる気配。彼女が遠ざかるほど、放送室には朝の広さが戻ってくる。

私はカフェオレの缶を開けた。

甘い匂いが立つ。ひと口飲むと、冷えていない液体が喉をゆっくり通った。声の奥に残っていた乾きが、少しだけほどける。

机の上には、真琴が整えた進行表と、遙の未送信原稿と、私が書き始めた新しい台本が並んでいる。

過去の紙と、今日の紙。

どちらにも、空白がある。

私はその空白を、急いで埋めなかった。代わりにマイクのスイッチを入れ、音量を確かめる。メーターの針がふわりと振れ、スピーカーの奥で小さな唸りが生まれた。

ノイズはまだ消えていない。

けれど今は、その音の下に、自分の呼吸がある。

私は台本を持ち上げた。

「こちらは東雲高校放送部です」

声が廊下へ流れる。

喉の手前で一拍、引っかかる。それでも私は止めなかった。

「今日の紫苑祭では、いつもの案内放送に加えて、少しだけ特別な時間を作ります。誰かが残した言葉と、今ここにいる私たちの声を、同じ場所から届けます」

言い終わるまで、声の芯を手放さなかった。

校庭のどこかで、誰かが返事をした。遠くのスピーカーから、自分の声が遅れて返ってくる。少し歪んで、少し薄くなって、それでも確かにこちらへ戻ってきた。

私は赤ペンを台本の脇へ置いた。

今度は、言葉を消さない。

書き直すことはあっても、なかったことにはしない。真琴が押さえてくれたテープケースも、遙が残した空白も、私の震える声も、そのまま次へ持っていく。

廊下の向こうから、真琴の声が飛んできた。

「灯! 中庭側、音出た!」

「分かった!」

返事は、朝の校舎をまっすぐ走った。

私は台本を抱え、放送室のドアへ向かった。白い光の中で、ガムテープの匂いがまだ残っている。階段の先には、始まりかけた紫苑祭のざわめきが待っていた。

その騒がしさの中へ、自分の声を持っていく。

私は一度だけ、机の上の未送信原稿を振り返った。

そして今度は、誰かが戻ってくるのを待つためではなく、誰かと一緒に進むために、放送室を出た。

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