7話 机に広げた未送信

窓から入る光は、まだ湿り気を残していた。

旧校舎三階の放送室に、紫苑祭当日の朝が差し込んでいる。夜の白い蛍光灯とは違う、もっと粒の粗い光だった。棚の埃が、その光の筋の中で細かく揺れながら沈んでいく。埃は昨夜からずっとそこにあったはずなのに、朝になって初めて、こんなに多かったのかと思わされる。

私は机の前に立ち、未送信原稿を広げた。

紙は冷たかった。夜のあいだ、部屋のどこかで湿気を吸ったのか、指先に触れる感触が少しやわらかい。十年前の誰かのためらいが、紙の繊維の奥でまだ乾いていないような気がした。

赤ペンを指の間で回す。カチ、カチ、と軸の先が机に触れる音だけが、静かな部屋に響く。

昨夜、私はこの原稿を、そのまま読むまいと決めた。

三好遙の言葉をなぞれば、届かなかった声を再現することはできる。行頭から順に読み、空白の位置まで真似れば、十年前のあの夜に近いものを作れるかもしれない。けれど、それは私が欲しかったものではなかった。

私が欲しいのは、再演ではない。今の朝に、今の私の声で、間に合わせるものだった。

封筒の中から、原稿の一枚目を取り出す。

〈こんばんは。今日も、眠れない人のために、窓をひとつだけ開けておきます。〉

この文の下に、私は自分の台本の余白を並べて置いた。文化祭の案内放送のために書いた、几帳面な文字の列。遙の原稿とは違って、そこには空白がほとんどない。次の行、次の行と、詰め込むように埋められている。

私はその余白を、あえて空けた。

使い古したヘッドホンを机の端へ寄せる。文化祭の進行表を、その隣へ。少し欠けた赤ペンを、さらにその隣へ。机の上に、原稿の上に自分の声を置くための、何もない場所を作っていく。

扉が、控えめな音で開いた。

「まだいたのか」

藤沢先生だった。ワイシャツの袖を捲り上げ、片手に紙コップを持っている。中身は薄い緑茶らしく、湯気がわずかに立っていた。

「先生。おはようございます」

「おはよう、じゃない時間だろう。もう朝の八時前だ。開会式まで、あと一時間もない」

先生はそう言いながらも、机の上の原稿から目を逸らさなかった。私は封筒を隠さなかった。昨夜、真琴に約束したことを思い出す。隠したまま進めたら、また自分の中に閉じ込めてしまう。

「これ、見つけたことは真琴から聞いていますか」

「聞いた。昨夜、遅くにな」

先生は紙コップを机の端に置き、原稿の一枚目を覗き込んだ。指先で触れることはしない。ただ、しばらく紙の表面を見つめていた。

「三好の字だ」

短い一言だった。私は息を止めた。

「知ってるんですか」

「知ってるも何も、当時の顧問は私だ。この学校に十五年いれば、放送部の生徒くらいは覚えている」

先生は椅子を引き寄せ、私の向かいに腰を下ろした。埃の匂いの中に、緑茶の匂いが混じる。

「三好はな、書くことにかけては誰よりも丁寧だった。原稿の一文字ずつに、自分の重さをちゃんと乗せる生徒だった。だが、それを声にする段になると、いつも一歩、手前で止まる」

「止まる、って」

「送信の直前でな。テープを持って、放送室に一人残って、朝まで悩んでいたこともある。私が見回りで来ると、笑ってごまかしていたよ。『先生、今日はやめときます』とだけ言って」

先生はそこで一度、紙コップに口をつけた。緑茶の熱を確かめるように、ゆっくりと飲む。

「私はそのとき、何も聞かなかった。聞けば、三好が余計に困る気がしたからだ。今にして思えば、それは正しかったのか、間違っていたのか、まだ分からない」

「先生も、分からないんですか」

「分からないから、お前に聞かれても答えられない。原稿をどう使うか、放送するのかしないのか、それを決めるのは私じゃない」

先生は原稿の空白を見た。三行分の白いままの部分を、指の腹でなぞるように目で追う。

「三好が何を言いたかったのか、誰に伝えたかったのか。私にも分からない部分がある。ただ、卒業式の朝、あいつが最後にこの部屋を出るとき、一度だけ振り返ったのを覚えている。何かを言おうとして、結局黙って扉を閉めた。その顔だけは、今でも覚えている」

私は喉の奥が熱くなるのを感じた。

「先生は、それを止めなかったんですか」

「止められなかった。止めるという言葉が、そもそも合わない気がしたんだ。あれは、止めるものじゃなかった。あいつの中で、まだ終わっていないものだった」

先生は立ち上がり、紙コップを持ち直した。

「朝比奈。私はお前に、正しい答えを教えることはできない。三好の言葉をどう扱うか、放送でどう使うか、それはお前が決めることだ。ただ、一つだけ言えるとしたら――」

言葉を切り、先生は窓の外を見た。校庭では、すでに何人かの生徒が幕を張り、旗を立てている。紫苑祭の朝の色が、少しずつ濃くなっていく。

「消すことと、終わらせることは違う。三好が送らなかった原稿を、お前がここで消してしまえば、それはあいつの声を二度殺すことになる。だが、そのまま流すことも、あいつの声じゃない。お前が読めば、それはお前の声になる」

「私の声に、していいんですか」

「していい、じゃない。そうするしかないんだ。三好の代わりに三好を語ることは、誰にもできない。できるのは、三好が置いていったものを受け取って、自分の言葉に置き換えることだけだ」

先生は扉に向かい、途中で一度足を止めた。

「開会式は九時だ。それまでに、決めろ」

扉が閉じる音のあと、放送室にはまた静けさが戻った。カセットデッキの奥で、モーターがかすかに唸っている。誰も触れていないのに、機械はまだ何かを待っているようだった。

私は原稿を、もう一度机の中央へ置いた。

消すのではない。終わらせるのでもない。私は赤ペンを取り、自分の台本の余白に、遙の行間から拾った言葉を書き足していく。〈好き〉という一文字の重さ、消された名前の丸みを帯びた最初の一画、三行分の空白に流れていた息の浅さ。それらを、そのまま写すのではなく、私自身の呼吸に合わせて置き直していく。

喉が詰まる。だが今回は逃げなかった。机の木目を指でなぞりながら、私は小さく息を吸った。

未送信原稿は、終わらせるためにあるのではない。今ここで、更新するためにある。

その考えにたどり着いた瞬間だけ、胸の奥の焦りが、少しだけ静まった。

窓の外で、開会式の準備を告げる放送が、遠くのスピーカーから流れ始めた。私は赤ペンを握り直し、自分の台本に、もう一行を書き加える。

まだ、言葉は足りない。それでも、書き始めることだけは、もう止めなかった。

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