第6話 素材の名

私はマイクのスイッチを入れた。
赤いランプが点灯し、スピーカーの奥で、ぶ、と低い音が跳ねる。さっきまで聞き慣れていたはずのノイズが、今は別のものに聞こえた。機材の不調であり、同時に、誰かがここへ近づいてくる気配のようでもあった。
「旧校舎三階、放送室です。追加資料、受け取りました。確認してから――」
廊下へ向けて話しかけたところで、扉が開いた。
黒木瞬が、折り畳んだ三脚を肩に担いで立っていた。片手には傷のついたノートPC、もう片方にはラベルを揃えたSDカードケースがある。彼は私の声が切れるのを待ってから、机の上へ視線を落とした。
未送信原稿を挟んだクリアファイル。
その赤い文字を見て、瞬はほんの少しだけ目を細めた。
「それ、使える」
短い言葉だった。
私はファイルの上へ手を置いた。
「……使えるって、何に」
「文化祭特別映像のナレーション。昨日撮った準備風景に、音声を足す。尺もある。文章の構成も悪くない。今の企画に乗せれば、映像が締まる」
「だめ」
自分でも驚くほど、声が先に出た。
瞬は三脚を壁へ立てかけた。金属の脚が床を擦り、古い放送室の静けさを細く裂く。
「理由は」
「これは、そういうものじゃないから」
「そういうものじゃない、では判断できない。未送信の原稿なら、まだ誰の企画にも使われていない。使い道がないまま残るより、今の文化祭に接続した方が記録としては生きる」
「記録だからって、誰でも使っていいわけじゃないよ」
「所有者は?」
「……分からない」
「なら、使用禁止の根拠も弱い」
瞬の声は平坦だった。怒っているわけでも、からかっているわけでもない。ただ、机の上に置かれたものを、順番に分類している。その視線が原稿の紙質や赤い書き込みをなぞるたび、私は自分の皮膚まで測られているような気分になった。
「三好遙っていう人の原稿。十年前に書かれたもので、告白とか謝罪とか、そういう個人的なことが書いてある。放送されなかったからって、素材になるわけじゃない」
「個人的な内容をそのまま使うとは言っていない。文体と構成だけ借りる。必要なら名前を削る。尺に合わせて、感情の重い部分は落とす」
「落とすって、どこを」
「聞き手が退屈するところ」
瞬はノートPCを開いた。画面には、文化祭準備の映像が細かなサムネイルに分けられて並んでいる。体育館の幕。中庭の看板。廊下を走る生徒。笑っている顔。どれも明日のために切り取られ、番号を振られていた。
「映像は三分二十秒。現状、画はあるけど音が弱い。準備の熱気を見せたいのに、聞こえるのはカッターの音と雑談だけだ。そこへ原稿の冒頭を重ねれば、全体の軸ができる」
「〈窓をひとつだけ開けておきます〉っていう文章を、紫苑祭の紹介に使うの?」
「悪くない。閉じた校舎が、明日だけ開かれる。比喩として成立する」
「そういうふうに、きれいに並べ替えないで」
喉の奥が熱くなった。
「この原稿は、きれいに使うために残ってるんじゃない。書いた人が、書いたまま送れなかったものだよ。そこには、その人が止まった時間も、消した言葉も、残ってる。文章だけ抜き出して、文化祭の映像に貼りつけたら、送れなかったことまで別の意味に変わってしまう」
「意味は、受け取る側が決める」
「だから、勝手に決められたくないんだよ」
「本人は十年前に卒業している。ここにはいない。本人の意思は確認できない」
「いないからって、いないことにしていい理由にはならない」
言い切ったあと、声の余韻が壁に跳ね返った。
真琴が黙って私の横に立った。彼女はいつもならすぐに口を挟むはずだったが、今は手にした黒いマーカーの先で、机の端を一度だけ叩いた。
瞬は私ではなく、原稿へ視線を戻した。
「全部残しても、届かなきゃ意味がない」
「届かなくても、残る意味はある」
「それは、残した側の自己満足だ」
「そうかもしれない」
私はファイルの中の封筒を押さえた。紙越しに、赤い文字の凹凸が指へ伝わってくる。
「でも、自己満足だからって、なかったことにはできない。言えなかったことや、送れなかったことまで含めて、その人の記録だから。完成していないから価値がないっていうなら、私は自分の失敗も全部捨てなきゃいけなくなる」
「話を広げるな。今は文化祭の映像の話だ」
「私にとっては同じなんだよ」
瞬の指が、ノートPCの縁で止まった。
「同じじゃない」
「どうして」
「文化祭は明日始まる。映像は今夜中に完成させる。原稿の持ち主が誰か分からなくても、ここにある以上、選択肢として検討する必要がある。使えるものを使わず、完成度を落とす理由にはならない」
「完成度って、何」
「見た人が最後まで見ること。聞いた人が内容を覚えて帰ること。途中で切られないこと。感情を保存するだけなら、箱に戻して棚へ置けばいい。でも、それでは誰にも届かない」
「届けば、何をしてもいいの?」
「何をしてもいいとは言っていない。加工する。目的に合わせる。それが制作だ」
「加工されたら、別のものになる」
「別のものになっても、元のものが消えるわけじゃない」
瞬は淡々と続けた。
「映像も音声も、切り取った時点で現実そのものではない。三十秒の沈黙を残せば、見る側は三十秒待たされる。待たせる価値があるなら残す。でも、価値が説明できないなら削る。制作は、残すものを選ぶ作業だ」
「説明できないものは、価値がないの?」
「説明できないから残す、というのは簡単だ。感情を盾にすれば、何も決めなくて済む」
その言葉が、胸の奥へ刺さった。
私は原稿の空白を見た。三行分の白。消された名前。最後まで書かれなかった一文。私はそれらを守っているつもりで、実は決めることから逃げているのかもしれなかった。
何を残すのか。何を流すのか。誰に届けるのか。
原稿を大切にしたいと言いながら、私はまだ「大切」という言葉の外側に立っているだけだった。
「……瞬は、そうやって全部決められるの」
尋ねると、瞬はすぐには答えなかった。
ノートPCの画面に映った映像の中で、誰かが脚立を押さえている。撮影した瞬自身なのかもしれない。画面の端に、黒い手袋をした手が見えた。
「決めるしかない」
「間違うかもしれないのに」
「間違う。だから記録を取る。元データを残して、編集前の状態を保存する。やり直せるようにする」
「でも、言葉は元に戻せないよ」
「戻せないから、先に考える」
「考えても、相手の痛みまでは分からない」
「分からないから、扱わないのか」
瞬の声が、わずかに低くなった。
「それなら、誰も何も作れない。撮影する側は、映る人間の人生を全部知らない。編集する側は、その場にいなかった時間を切る。放送する側は、聞いている人の事情を知らない。それでも、届く形にするしかない」
「届く形にすることが、本人の許可より先に来るの?」
「順番の問題だ」
「私は順番を変えたい」
「変えたら、明日に間に合わない」
放送室のミキサーが、低く唸った。
赤いランプが一度明滅し、スピーカーから薄いノイズが漏れる。私は反射的に手を伸ばしかけたが、止めた。音は完全には消えない。消そうとするほど、別の場所から現れる。
真琴が、ようやく口を開いた。
「黒木。おまえの言ってること、分かるけどさ」
「何」
「使えるから使うって言い方、やっぱり腹立つ」
「感情の話はしていない」
「してるよ。してない顔で、してる」
真琴は黒いマーカーを机へ置いた。乾いた音がする。
「それ、看板の材料じゃない。誰かが夜中に書いて、消して、また書いたものだろ。あんたが三分二十秒に収めたいなら、まずその人が何を残したかったかを見ろよ。文章の長さや構成だけ見て、空白を無駄扱いするな」
「空白は時間を使う」
「だから何」
「時間は有限だ」
「人の気持ちも有限だよ。今しか言えないこともある。それを締切の外へ追い出したら、二度と戻ってこない」
「その結果、企画全体が崩れたら?」
「崩さない方法を考える」
「簡単に言うな」
「簡単じゃないから、手を動かすんでしょ」
真琴の声が少しずつ強くなる。
「私は看板を作ってる。何度も失敗した下書きを捨てて、色を塗り直して、貼り直して、それでも間に合わなくて、最後は人を呼んで手伝わせる。完成させるって、何かを切るだけじゃない。残したいものが多すぎるなら、手を増やす。時間が足りないなら、順番を変える。誰かのものを勝手に削って『完成』って呼ぶな」
瞬は真琴を見た。
「それで、明日の朝までに本当に間に合うのか」
「間に合わせる」
「根拠は」
「今から作る」
「根拠になっていない」
「うるさいな。根拠が最初からある現場なんて、どれだけあるんだよ。あんたは失敗したくないから、失敗しそうなものを先に切ってるだけじゃん。そうやって切ったあとで、何も残ってないことに気づいたらどうすんの」
瞬の表情は変わらなかった。けれど、彼の指がSDカードケースの角を強く押さえているのが見えた。
「……残ってない方が、まだ修正できる」
「何それ」
「中途半端に残ったものは、判断を鈍らせる。使えない素材を抱えたまま進めると、最後に全部が間に合わなくなる」
「使えないって、誰が決めるの」
真琴の問いに、瞬は答えなかった。
私はその沈黙を聞いていた。
瞬は感情を切り捨てたいわけではない。切り捨てなければ、前へ進めないと思っている。完成度に執着するのも、失敗を繰り返したくないからだ。だからこそ、彼の言葉は私に似ていた。止めたくない。間に合わせたい。誰かを待たせたくない。失敗した声を残したくない。
私もずっと、同じやり方で自分の言葉を削ってきた。
「黒木くん」

私が呼ぶと、瞬は視線だけを向けた。
「この原稿を、使うために読んだことはある?」
「全部ではない。冒頭と構成だけ確認した」
「じゃあ、使えるかどうかを決める前に、最後まで読んで」
「時間がない」
「五分でいい」
「五分では判断できない」
「判断しなくていい。読むだけ」
「読むことに意味があるとは限らない」
「でも、読まないまま切るのは嫌」
私はファイルから原稿を取り出した。紙のざらつきが指へまとわりつく。空白の前で、息を止めた遙の気配がまだ残っている。
「私は、この原稿をそのまま映像に使わせない。名前も、告白も、謝罪も、勝手に誰かへ届けない。でも、原稿が残したものを、なかったことにもしたくない」
「具体的には」
瞬が問う。
私はそこで、言葉を探した。
以前なら、問い返された瞬間に声が細くなっていた。正しい答えが見つからないから、黙ってしまう。けれど今は、机の上に並んだ紙と機材と、明日までの時間を見ていた。
「三好遙の原稿を使うんじゃなくて、原稿を見つけた今の私たちが、何を残すかを話す。特別映像の最後に、準備の音を入れたい。ガムテープを裂く音とか、看板を貼る音とか、ミキサーのノイズとか。そこへ、私が新しい文章を書く」
「新しい文章?」
「うん。遙の文を読んだことは、名前を出さずに触れる。でも、内容を借りない。私たちが今夜、言えなかったことや、間に合わなかったことを、自分の言葉で残す」
「抽象的だ」
「そうかもしれない。でも、遙の原稿を素材として切るよりは、残すための形に近いと思う」
「尺は」
「三分二十秒に合わせる」
「音は」
「必要なものを録る。黒木くんが編集する」
瞬の眉が、初めてわずかに動いた。
「僕が?」
「使える形にするのが得意なんでしょう」
「僕を利用するのか」
「利用じゃない。頼む」
最後の言葉が、喉で一度ひっかかった。
私は息を吸い、言い直した。
「黒木くんに、頼みたい。感情を削らずに、間に合わせる方法を一緒に考えてほしい」
瞬は黙った。
窓の外で、風に揺れた装飾紙がばたばたと鳴る。廊下の向こうでは、誰かが「あと二枚!」と叫び、別の誰かが笑った。放送室の中だけ、時間が薄く伸びていた。
瞬は原稿へ手を伸ばした。
私は一瞬、指を離すのをためらった。けれど、紙を渡した。瞬の手が原稿の端を受け取る。指先が触れたとき、彼の手は思ったより冷たかった。
「全部読む」
瞬が言った。
「五分で終わるとは思わない」
「うん」
「その間、映像の構成は止まる」
「止めない。私が読む。真琴は音を集める。黒木くんは、読んだ上で使うかどうか決めて」
「結局、使わない可能性もある」
「それでいい」
私は赤ペンを机へ置いた。
「使わないなら、使わない理由を、原稿を読んだあとに決めて。読まずに切るのだけは、もうやめたい」
瞬は原稿の一枚目をめくった。
紙が擦れる音がした。
〈こんばんは。今日も、眠れない人のために、窓をひとつだけ開けておきます。〉
瞬の目が、空白の手前で止まる。
彼はすぐに次のページへ進まなかった。
真琴が私の横で、短く息を吐く。からかうような声ではなかった。待っている音だった。
「……空白が多いな」
瞬が言った。
「うん」
「意図的か」
「分からない。でも、消されていないから、残したかったんだと思う」
「それは推測だ」
「推測でいい。今は」
瞬は紙をめくった。
「推測を企画に入れるのか」
「入れるんじゃない。考える材料にする」
「非効率だ」
「そうだね」
私はミキサーのメーターを見た。針はまだ不安定に揺れている。ノイズは消えていない。けれど、その下には、機材が確かに動いている音がある。
「でも、非効率なものを全部なくしたら、残るのは音だけになる」
瞬が顔を上げた。
「音だけでは不十分だと?」
「音だけなら、誰が何を待っていたのか分からない。言葉だけでも、同じ。届くためには、音と、残された時間と、聞く人の余白が要る」
「……それを三分二十秒でやる?」
「やる」
今度は、声が遅れなかった。
瞬はしばらく私を見たあと、ノートPCの画面を閉じた。SDカードケースから一枚を抜き、番号を確かめる。
「録音する音を決める。ガムテープ、紙、ミキサー、廊下の足音。あと、声」
「私が読む」
「原稿ではなく、新しい文章を」
「うん」
「途中で止めないこと」
胸の奥が詰まった。
「止まっても、続ける」
「止まらない方がいい」
「それは、努力する」
瞬は一拍置いた。
「努力では、締切は動かない」
「じゃあ、止まったら真琴に机を叩いてもらう」
真琴が眉をひそめる。
「私を合図係にするなよ」
「でも、頼んだらやってくれるでしょ」
「……やるけど」
「ほら」
「ほらじゃない。あとでカフェオレ」
「分かった」
瞬は原稿を机へ置き、クリアファイルの赤い文字を見た。
「ただし、最終的に未送信原稿を使わないなら、映像の軸は別に作る必要がある。今の案は、明日の午前零時までに決める」
「もう十一時近いよ」
「だから、判断を急ぐ」
「急がせないで」
「急がないと間に合わない」
その応酬に、真琴が大きく息を吐いた。
「はいはい、二人とも声がでかい。急ぐけど、雑にはしない。それでいいだろ」
私は机の上の原稿を見た。
遙の言葉は、まだ送られていない。赤いマーカーの跡も、消された名前も、最後の空白も、そのまま残っている。私はそれを守ることと、閉じ込めることを混同していたのかもしれない。
残すには、誰かの手へ渡す必要がある。
ただし、勝手に切り刻むのではなく、読むことから始める。聞くことから始める。今ここにいる人間が、何を感じ、何を選び、何を次へ渡すのかを、自分の声で決める。
そのとき、放送室の外から藤沢先生の声が聞こえた。
「朝比奈、まだいるか?」
私は返事をする前に、一度だけ息を飲んだ。
以前なら、原稿を隠し、何もなかったふりをしていた。けれど私はファイルを机の中央へ置いたまま、扉へ向かった。
「はい。います」
自分の声が、廊下へまっすぐ伸びた。
瞬が原稿を見ている。真琴がガムテープの端を押さえている。ミキサーの針が、赤い領域の手前で揺れている。
私は扉を開けた。
まだ、決めることは残っている。遙の原稿をどう扱うか。何を残し、何を自分の言葉へ変えるか。明日の放送を止めずに、間に合わせながら、誰かの沈黙を消費しない形を作れるのか。
答えは出ていない。
けれど今夜の私は、分からないことを理由に、原稿を棚へ戻すつもりはなかった。
背後で、紙がめくれる音がした。
その音に重なるように、古い機材が低く唸る。
ノイズの下で、まだ何かが鳴っている。
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