第5話 段取りの綻び

真琴が「続きは、自分の声で」と書いた私の原稿を見てから、放送室を出ていって十分ほど経った。
私はその一行を、何度も読み返していた。
赤ペンの先で書いた文字は、まだ乾ききっていない。〈続き〉の「き」が少し潰れている。書き直そうと思えば、いくらでも直せた。もっときれいな字にすることも、言葉を変えることもできる。けれど、私はペンを置いた。
乱れたままの文字を残しておきたかった。
放送室の外では、夜の校舎がせわしなく動いている。廊下を走る足音。遠くで誰かが椅子を引く音。階下から響く、何か大きな板を運ぶ掛け声。人の声は壁にぶつかり、ところどころ欠けながら、私のいる部屋へ流れ込んでくる。
私はミキサーの入力を切り替えた。
スピーカーの奥で、ぶ、と低い音が跳ねる。
ノイズ。
針が一瞬だけ赤い領域へ振れ、すぐに戻った。私は音量を下げ、インターホン回線の差し込みを抜いた。ノイズは消えたが、今度は中庭側のスピーカーから音が出なくなった。
「……また」
口から漏れた声が、誰もいない放送室で妙に大きく聞こえた。
私は差し込みを戻し、端子を布で拭いた。何度も同じ作業を繰り返しているのに、原因が絞れない。接触不良なのか、回線そのものが古いのか、ミキサーの入力端子が死にかけているのか。機材の蓋を開ければ分かるかもしれない。けれど、開けるための工具は別棟の倉庫にある。
机の上には、明日の進行表が広がっていた。
午前八時二十分、開会式前の案内放送。八時四十分、各企画の開始放送。九時、体育館ステージの音響確認。十時からは中庭の臨時放送。昼休みには迷子や落とし物の案内も入る。放送部の人数は、私を含めて三人しかいない。そのうち一人は明日の午前中、放送室を離れて実行委員の手伝いに回ることになっていた。
足りない。
紙の上に並んだ時刻が、細い針のように私へ刺さってくる。
私は赤ペンを取り、進行表の余白に〈予備要員〉と書いた。けれど、その横に誰の名前を置けばいいのか分からない。名前のない欄だけが、白く残る。
その空白を埋めようとしたとき、廊下から早い足音が近づいてきた。
「灯!」
真琴が扉を開けた。片手に看板の下書き、もう片方に丸めた模造紙を抱えている。白い絵の具が頬に細くついていた。
「今、何分?」
「八時四十七分」
「最悪。二年三組の印刷、まだ終わってない。正門の案内放送、原稿だけ先に読める?」
「原稿はできてるけど、印刷が――」
「紙じゃなくて、放送で流せるかって聞いてる」
「流せる。でも、今ミキサーの回線が」
私は言葉を止めた。
真琴の眉が寄る。
「まだ直ってないの?」
「直ってないというか、原因が……」
「原因が分からないまま、明日の放送に使うつもり?」
「分かってる。だから今、確認してる」
「確認してるって言いながら、その原稿も読んでたじゃん」
真琴の視線が、机の中央へ落ちた。未送信原稿を入れた封筒は、クリアファイルに挟んである。赤い文字が透明な表面越しに覗いていた。
私は反射的にファイルへ手を伸ばした。
「読んじゃ、だめ?」
「だめじゃないよ」
真琴は下書きを机へ置いた。紙の角が、私の進行表を押しのける。
「だめじゃないけど、今やることじゃないでしょ」
「今しか読めないかもしれない」
「何それ」
「明日になったら、先生に渡すことになってる。そうしたら私の手から離れる。まだ、自分が何を考えてるのか分からないままなのに」
「分からないままでも、明日の準備は止まらない」
「止めたいわけじゃない」
「じゃあ、止めてないって言える?」
声の奥に、怒りより先に疲れがあった。真琴は看板の下書きの端を押さえたまま、私から目を逸らさない。
「灯。あんたがその原稿を大事にしてるのは分かる。十年前の人が何を言えなかったのか、分かろうとしてるのも分かる。でも、今ここにいる人間のことまで、分からないふりしないでよ」
胸の奥が熱くなった。
「分からないふりなんてしてない」
「してる。私が何を言っても、機材の音を聞いてる。実行委員に呼ばれても、原稿の余白を見てる。ここにいるのに、ずっと別のところにいる」
「じゃあ、どうすればいいの」
声が上ずった。
「原稿を閉じて、機材だけ見ればいい? 明日の放送だけ考えればいい? そうしたら、十年前の人が残したものは、また誰にも届かないまま、棚の奥へ戻るんだよ」
「私は戻せなんて言ってない!」
「でも、そういうことでしょ。使えるか使えないかで切って、間に合うか間に合わないかで決めて、気持ちはあとに回す。そうやって、言えなかったものをなかったことにする」
言い切ったあと、放送室が急に狭くなった。
真琴の顔から、わずかに色が引いた。
「……私が、そうしてるって言いたいの」
「そうじゃなくて」
「そう聞こえた」
「真琴は、そんなつもりじゃないって分かってる。でも、原稿を読んでると、どうしても――」
「どうしても何?」
真琴は看板の下書きを両手で押さえた。紙の端が、彼女の指の下でくしゃりと鳴る。
「どうしても、自分が言えないことまで見えてくる。誰かに助けてほしいのに言えないとか、そばにいてほしいのに、忙しいからって理由をつけて黙るとか。そういうのが、全部書いてある。だから、簡単に閉じられない」
「それ、私には関係ない」
「関係あるよ」
「ない。三好遙って人の話でしょ」
「私が読んでるから、私の話にもなってる」
真琴は黙った。
窓の外で、風にあおられた装飾紙がばたばたと鳴った。開けた窓から湿った夜気が入り込み、汗ばんだ首筋を撫でていく。絵の具とガムテープと古い紙の匂いが混ざり、胸の中まで粘つくようだった。
真琴が先に目を逸らした。
「……あんたさ」
「なに」
「原稿に、自分の続きを書くとか言ってたけど、それって、誰のため?」
私は答えられなかった。
机の上のミキサーが、低く唸った。音の波形を示すメーターがゆっくり揺れ、赤いランプが一度だけ明滅する。
「遙って人のため? 放送部のため? それとも、自分が言えなかったことを、あの人の名前で言いたいだけ?」
「……分からない」
やっと出した声は、自分でも驚くほど小さかった。
「分からないけど、今ここで捨てたくない。原稿も、空白も、あの人が送れなかったことも。私が同じように言えないまま、あとからなかったことにするのが嫌なんだよ」
「じゃあ、放送をどうするの」
「ちゃんとやる」
「ちゃんとって何」
「ノイズを直して、明日の段取りを組んで、原稿を読んで、放送を止めない」
「そのうえで、原稿のことも抱える?」
「抱えるんじゃない。持っていく」
「言葉を変えただけじゃん」
「違う」
私は進行表を自分の前へ引き寄せた。
「抱えるのは、私ひとりの中に閉じ込めること。持っていくのは、誰かに渡すために手元へ置くこと。私は今まで、何でも自分の中にしまって、誰にも触らせないようにしてた。でも、それじゃ届かない。原稿も、明日の放送も、同じだと思う」
真琴はすぐには返さなかった。
彼女の目が、机の上の紙を行き来する。看板の下書き、進行表、赤いマーカー、封筒。別々の作業のために置かれたものが、今はひとつの机の上で重なっていた。
「それ、明日までにできるの」
「できるようにする」
「またそれ」
「今度は一人でやらない」
「誰と?」
「真琴に、頼みたい」
言葉を出した瞬間、喉の奥が擦れた。
真琴は目を瞬いた。
「何を」
「明日の午前中、放送室にいてほしい。看板の設置があるのは分かってる。でも、音響の切り替えと、臨時放送の確認を手伝ってほしい」
「私、放送のこと分かんないよ」
「分かってる。でも、私が見落としてるものを見つけてくれるから」
「それ、褒めてる?」
「褒めてる」
「……そういうの、急に言うなよ」
真琴は顔をしかめた。照れたときの表情だった。
「で、原稿は?」
「勝手に触らない。私が読む。もし私が途中で止まったら、机を叩いて」
「机を叩けばいいの?」
「何でもいい。私に、ここにいるって思い出させて」
「そんな役、聞いたことないんだけど」
「お願い」
お願い、という言葉を口にすると、胸の奥が軽く痛んだ。頼ることは、負けることに似ていると思っていた。自分だけでできると言えなくなるから。けれど、真琴はすぐに笑わなかった。
「……分かった」
「本当に?」
「ただし、条件がある」
「なに」
「明日の放送が終わったら、原稿のことをちゃんと話す。灯が何を考えて、何を言いたいのか、途中で笑って逃げない」
私は息を飲んだ。
「それは……」
「嫌なら手伝わない」
「ずるい」
「ずるくない。取引。私は明日の朝、あんたの隣にいる。その代わり、終わったあとにあんたも私の隣にいる」
真琴の言葉は不器用で、少し乱暴だった。けれど、その乱暴さの奥に、置いていかれることへの恐れが見えた。
私は目を伏せた。
「……分かった。話す」
「最後まで?」
「最後まで」
「声、弱い」

「最後まで話す」
真琴はようやく頷いた。
「よし。じゃあ、今から段取りを組み直す。原稿はそこに置いといて。読むなら、作業が一段落してから」
「うん」
「あと、ノイズの原因。候補は?」
私はミキサーへ目を戻した。
「インターホン回線の端子か、入力チャンネルの接触不良。もうひとつは、旧校舎側のスピーカー配線」
「三つに絞れてるじゃん」
「さっき、真琴が言ったから」
「人のせいにするな」
「してない」
「してる顔」
少しだけ、いつもの調子に戻った。
私は進行表を三つに分けた。明日の放送、機材確認、その他の連絡。真琴は看板の下書きを丸め、机の端へ寄せると、ポケットから太い黒マーカーを取り出した。
「これ、使っていい?」
「何に?」
「欄を作る。手伝う人間の名前を書く欄」
真琴は進行表の下部に、黒い線を引いた。勢いがあるのに、線はまっすぐだった。
〈誰かに振る〉
その横に、空白を二つ作る。
「ここ、灯が埋めて」
「でも、誰に頼めば」
「考えて。放送部じゃなくても、印刷くらいならできる人はいる。二年三組の子、さっき廊下で暇そうにスマホ見てたし。体育館の音響は、黒木に一回見てもらえばいい。あいつ、機材だけなら信用できる」
「黒木くんに頼むの?」
「頼む。嫌でも、使える人間を使わないと間に合わない」
真琴はそこで一度、私を見た。
「それとも、感情がどうとか言って、全部自分でやる?」
私は首を振った。
「頼む。黒木くんにも、印刷を手伝ってもらう人にも」
「言える?」
「言う」
「今」
私は喉に息を通した。
「……黒木くんには、体育館の音響確認をお願いする。二年三組には、正門放送の印刷をお願いする」
「声が小さい」
「お願いする」
「もっと」
「お願いする!」
放送室の壁が、私の声を跳ね返した。真琴が目を丸くし、それから口元を歪める。
「うるさ。そこだけは通るんだよな」
「悪かったね」
「悪くない。使える声じゃん」
「使えるって言い方、黒木くんみたい」
「褒めてるんだよ」
真琴は黒マーカーの蓋を閉め、進行表を私へ返した。線で区切られた紙面には、さっきまでなかった余白がある。余白はまだ空白のままだったが、今度は埋めなければならない欠落には見えなかった。誰かの名前が入るための場所だった。
そのとき、放送室のスピーカーが突然鳴った。
ぶつ、と音が切れ、続いて校内放送の試験音声が流れる。
『こちらは実行委員会です。旧校舎三階の放送室、応答してください。繰り返します――』
声の途中に、激しいノイズが混じった。
私はミキサーへ飛びつき、入力を下げる。
「旧校舎三階、聞こえています。どうぞ」
『よかった。明日の中庭放送、予定が変更になりました。午前十時から、開会式の録音を流したいそうです。音源は今夜中に届くので、確認をお願いします』
「録音を流すって、どの機材からですか?」
『古いカセットだそうです。放送室のデッキを使ってください』
私はテープケースへ目を向けた。
青い文字の〈ナイター前の窓辺〉が、机の上で沈黙している。
『それと、明日の特別企画として、各部の紹介放送を追加します。原稿は朝までに――』
「追加?」
声が思わず強くなった。
『はい。詳細は後ほど進行表を送ります。朝比奈さん、対応できますか?』
喉の手前で、いつもの一拍が生まれた。
真琴が私を見る。
机の上には、まだ埋まっていない欄がある。ノイズの原因も、追加された放送の段取りも、明日の朝までに決めなければならない。テープデッキの中には、十年前に送られなかった声がある。誰かが知らずに、その機械を使おうとしている。
私はマイクへ口を近づけた。
「対応します」
言葉が先に出た。
けれど、そこで止めなかった。
「ただし、原稿と音源の確認時間が必要です。今夜のうちに資料をください。明日の放送内容について、こちらで確認してから流します」
返事が来るまで、少し間があった。
『……分かりました。五分以内に送ります』
「お願いします」
回線が切れた。
放送室に、機材の低い唸りだけが残った。真琴がゆっくりと息を吐く。
「今の、ちゃんと言ったじゃん」
「うん」
「要求までした」
「私も驚いてる」
「自分で驚くなよ」
真琴は笑いかけたが、すぐに机の上のテープケースへ目を落とした。
「明日の十時、古いカセットを使うんだって」
「うん」
「まさか、それを流すわけじゃないよね」
「分からない。でも、確認しないと」
「灯」
「勝手には流さない。約束する」
「なら、今夜は寝られないね」
冗談の形をしていたが、真琴の声は笑っていなかった。
私はテープケースを手に取った。透明な蓋の傷が、蛍光灯の下で細く光る。ラベルの裏側にある赤い文字が、指の間から覗いた。
〈流さない〉
その文字を見ていると、古い機材の奥で誰かが息をひそめているように感じた。
私はケースを進行表の隣へ置いた。
「流すかどうかは、私が決める」
「一人で?」
「違う。真琴と、先生と、必要なら黒木くんとも考える」
「黒木も入れるんだ」
「間に合わせる方法を知ってるから」
「へえ。灯、成長したじゃん」
「からかわないで」
「からかってない。ちょっとだけ、悔しい」
「何が?」
真琴はマーカーの蓋を指で弾いた。
「私が先に言えなかったことを、あんたが先に言えるようになってるから」
その言葉の意味を尋ねる前に、廊下から誰かの声がした。
「朝比奈さん、追加の進行表、来たよ!」
紙の束が、扉の隙間から差し込まれる。
私はそれを受け取った。新しい紙には、赤い変更箇所がいくつも並んでいた。放送枠の追加、音源の受け取り、機材の再確認。時刻は容赦なく、夜の先へ進んでいる。
真琴が私の横から紙を覗き込む。
「ほら。止まってる暇ない」
「うん」
「今度は、何からやる?」
私は進行表を机の上へ広げた。
「まず、黒木くんに音響確認を頼む。次に印刷を二年三組へ回す。それから、ミキサーの端子を交換して、旧校舎側の配線を確認する。最後に、先生へ原稿とテープのことを伝える」
「最後でいいの?」
「ううん。途中で伝える。隠したまま進めたら、また自分の中に閉じ込めるから」
真琴は一瞬だけ私を見て、それから黒マーカーで新しい線を引いた。
「じゃあ、先生に連絡する欄も作る」
紙の上に、もうひとつの空白が生まれた。
私は赤ペンを握った。今度は迷わず、自分の名前を書いた。その横に、真琴の名前を書く。さらに空いている欄へ、黒木瞬、二年三組、藤沢先生と、順番に書き込んでいく。
誰かに頼るための名前は、思っていたより多かった。
放送室の外では、また足音が走った。体育館から太鼓が鳴り、どこかでガムテープが裂ける。古い機材が低く唸り、ミキサーの針が小刻みに振れる。
私はそのすべてを聞きながら、テープケースの上へ手を置いた。
明日の放送を止めない。
そのために、何もかも一人で整えようとするのではなく、綻びた段取りの中へ、誰かの手を入れていく。未送信の声を、勝手に使うのではなく、届く場所を選び直す。
まだ、やるべきことは多い。
それでも今度は、空白を埋めるためだけに走るのではなかった。誰かが来られるように、誰かが言葉を置けるように、空白を残したまま進む。
私はインターホン回線の差し込みへ手を伸ばした。
指先に、金属のざらつきが戻ってくる。
スピーカーの奥で、ぶ、と音が跳ねた。
私はつまみを下げなかった。
「聞こえてる」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からないまま、私はマイクのスイッチを入れた。
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