4話 紙焼けの息

真琴が机の紙を整えたあと、私はしばらく原稿を胸に抱いたまま動けなかった。

クリップと赤ペンがきちんと並べられた机の端を見て、私は喉の奥に何かがひっかかるのを感じた。真琴はいつもこうだ。言葉で優しくすることができないから、代わりに手を動かす。荒っぽく整えられたその紙束の角が、なぜかいつもより丁寧に折られていた。

「……ありがと」

「聞こえなかった」

「ありがとって言った」

「そう」

真琴はガムテープの端を歯で切り、私の手の届く場所へ押しやったまま、視線を原稿に落とした。片方だけ外された軍手の下から、絵の具の青がまだうっすらと残る指先が見える。

「それ、どこまで読んだの」

「……最後まで」

「終わったって書いてあったの」

「終わってない。途中で切れてる」

真琴は椅子を引き寄せ、机の向かいに腰を下ろした。放送室の蛍光灯が白く二人を照らし、窓の外では体育館のスピーカーテストか何かの音が、ぼんやりと低く響いていた。

「灯」

「なに」

「その顔、また抱え込む顔してる」

「してないよ」

「してる。読んでるあいだ、ずっと」

私はテープケースを膝の上で握った。ラベルの角が指の腹に食い込む。

「真琴は、これをどうしたらいいと思う」

「私に聞くの」

「聞きたい」

真琴は片方の眉を上げ、それから少し困ったように視線を逸らした。看板作りの合間にここへ来たのだろう、机の下には彼女が持ってきたらしいマーカーの束が転がっている。太い黒、細い赤、蛍色の黄。文化祭の看板を彩るはずのものだった。

「私は、そういうの分からない。書いた人の気持ちとか、読んでどう思ったかとか。灯みたいに、紙の隙間から何か感じ取れる人間じゃない」

「そんなことない」

「あるって。私は、目の前にあるものを形にするのが得意なだけ。看板の文字をどこに置くか、色をどう配置するか。それは分かる。でも、誰かが十年前に言えなかったことをどうすればいいかなんて、私には分からないよ」

その声には、いつもの荒さの下に、珍しく小さな迷いがあった。私はその迷いを、聞き逃さなかった。

「でも、灯はきっと、その原稿の中に自分を見つけたんでしょ」

「……分かるの」

「分かるよ。あんたの顔見てれば」

真琴は原稿の一番上のページに手を伸ばし、指先だけで触れた。触れるだけで、開こうとはしなかった。

「灯。私、さっき棚が崩れたとき、正直ちょっと嫌だった」

「嫌だった?」

「うん。灯が急に、私の知らない場所に行っちゃう感じがした。原稿読んでるあいだ、灯はここにいるのに、頭の中は十年前のどこかに飛んでる。そういう顔、見たことなかったから」

私は言葉を探した。真琴がこんなふうに自分の気持ちを言葉にするのは珍しい。せっかちで、口が悪くて、感情を言葉にするより先に手を動かすのが彼女のやり方だったはずだ。それが今、椅子に座ったまま、ゆっくりと自分の中の何かを紙に置くように話している。

「置いていかれる気がした、ってこと」

「そこまで言ってない」

「言ってるようなもんじゃない」

「言葉にすると軽くなる気がして嫌なんだよ」

真琴はマーカーの束を取り出し、意味もなく手の中で転がした。カチャ、カチャ、と乾いた音がする。

「私、灯のこと、結構ちゃんと見てるつもりなの。中学のときから。でも、灯が本当に困ってるときほど、笑うんだよね。今日もそう。ミキサーのノイズが消えないとき、絶対に泣きそうな顔してるくせに、口では『大丈夫』しか言わない」

「大丈夫だったから」

「大丈夫じゃなかったから、私が体育館に走ったんでしょ」

言葉に詰まった。その通りだった。あの時、私は本当は、真琴に「行かないで」と言いたかった。一人で残されることが怖かった。けれど声にできたのは、赤ペンを握る手だけだった。

「……ごめん」

「謝んなくていい。灯がそういう人間だって、分かってるから」

真琴は原稿の空白のページを見た。何も書かれていない紙の白さに、彼女もまた何かを感じ取っているように見えた。

「この人も、灯と同じだったのかな」

「三好遙?」

「うん。書いたのに、送らなかったんでしょ。灯も似てる。言いたいことがあるのに、最後だけ飲み込む」

私はテープケースのラベルを指でなぞった。〈流さない〉と書かれた赤い文字が、蛍光灯の下でわずかに浮いて見える。

「真琴。私、去年の機材トラブルのこと、まだちゃんと言えてないと思う」

「言えてないって、何が」

「あの時、本当は怖かった。放送が止まって、体育館の全員が黙って待ってるのが分かってて、何か言わなきゃって思うほど、頭が真っ白になった。誰かが助けてくれるのを待ってた。でも、助けてって言えなかった」

「知ってる。見てたから」

「見てたのに、何も言わなかったの」

「言ったら、灯が余計固まる気がしたから」

真琴は視線を落とした。彼女の指先が、机の木目をなぞっている。私と同じ癖だった。

「私も、本当は言いたいことがあるとき、うまく言えない。だから代わりに手が動く。看板作るとか、進行表整理するとか。灯が黙ってるとき、私も同じくらい黙ってるんだよ。ただ、黙り方が違うだけ」

私はその言葉を、何度も胸の中で繰り返した。黙り方が違うだけ。真琴も遙も、私も、根っこのところでは同じ場所に立っているのかもしれない。言葉にできないものを、それぞれの形で紙に置いたり、手を動かしたり、笑ってごまかしたりしている。

「真琴」

「なに」

「原稿の最後、切れてるところがあるの。〈もし、明日の朝、君がこの声を〉って書いてあって、そこで終わってる」

「続き、探すの」

「探したい。でも、探しても見つからないかもしれない」

「見つからなかったら?」

「見つからなかったら、私が続きを考える」

その言葉を口にした瞬間、自分でも驚いた。埋めたいと思っていたはずの空白を、埋めるのではなく、続けると言った。真琴はしばらく黙って私を見ていた。

「灯にしては、大胆だね」

「そうかな」

「そう。いつもは埋めるか、放っておくかの二択でしょ。続けるって、また別のことじゃん」

「……そうかも」

窓の外で、遠くの体育館の照明が一段落ちたのが分かった。文化祭前夜の作業も、少しずつ終わりへ向かっているのだろう。だが放送室の中の時間だけは、まだ十年前の夜と繋がったまま止まっているような気がした。

「真琴、これ、藤沢先生に見せる前に、もう少しだけ、私の中で持っていてもいい?」

「持っていてもいいって、何のために」

「まだ分からない。ただ、今すぐ誰かに渡すと、何かが終わっちゃう気がする」

真琴はマーカーをテーブルに置き、椅子の背にもたれた。天井を見上げ、それから私を見る。その目には、からかいも苛立ちもなく、ただ静かな理解があった。

「分かった。でも、期限は作る」

「期限?」

「紫苑祭が終わるまで。それを過ぎたら、灯がどうするつもりでも、先生に見せる」

「……それでいい」

「あと、ひとりで考え込みすぎるなよ。私、灯が黒目だけ動かして黙ってるの、結構分かるようになってきたから」

「それ、いつから」

「さあ。中学の時から、たぶん」

真琴は立ち上がり、看板作りの続きに戻るために、腕にマーカーを何本か抱え込んだ。ドアの前で一度足を止め、振り返る。

「灯」

「なに」

「その原稿、灯にとって何なの」

私は少し迷ってから、ゆっくりと答えた。

「たぶん、鏡」

「鏡?」

「私が言えなかったこと全部、あの人の言葉の中に映ってる。だから読むのが怖いのに、読むのをやめられない」

真琴は小さく笑った。皮肉でも同情でもない、初めて見るような柔らかい笑い方だった。

「じゃあ、鏡の中の自分と話す前に、一回でいいから、私とも話してよ」

その言葉を最後に、真琴はドアを開けて出て行った。廊下の明かりが一瞬差し込み、また閉じる。

私は原稿を封筒へ戻し、テープケースを傍らに置いた。〈ナイター前の窓辺〉の文字が、蛍光灯の光の中で青く沈んでいる。

鏡の中の自分と話す前に。

その言葉が、いつまでも胸の奥に残った。原稿の空白を埋めることでも、そのまま放っておくことでもなく、私は初めて「続ける」という選択肢を見つけた気がした。それは遙が果たせなかったことであり、私自身がずっと避けてきたことでもあった。

放送室の窓から、湿った夏の夜気がまだ流れ込んでくる。ガムテープと絵の具の匂いが、真琴の残り香のようにかすかに漂っていた。私は赤ペンを取り、自分の原稿の余白に、また一行だけ書き加えた。

〈続きは、自分の声で〉

まだ、その声がどんな形になるのかは分からない。けれど、紙の上に残ったその一文だけは、消さずに残しておくことにした。

← 横にスクロールして読み進められます

紙焼けの息 - 記憶の放送室 - 誰でも作家life