第3話 読み進める夜

真琴が階段を下りていったあとも、私は放送室に残った。
扉の向こうから、彼女の足音がひとつずつ遠ざかっていく。三階の踊り場を抜け、二階へ下り、やがて校舎のざわめきに混ざって聞こえなくなった。
私はクリアファイルに挟んだ封筒を、机の中央へ置いた。
赤い文字の〈未送信〉が、透明な表面越しにこちらを見ている。誰かが何度も書き直したその文字には、決められなかった時間まで染み込んでいるようだった。紙に書かれた二文字なのに、目をそらすと背後から呼ばれる気がする。
放送室の壁時計は、午後八時を少し回っていた。
窓の外では、校庭に残っていた照明がひとつ消えた。暗くなった場所から、夏の夜がゆっくりと校舎へ滲んでくる。窓を閉めているのに、湿った空気の匂いがした。ガムテープ、絵の具、汗、古い木材。文化祭の前夜は、明るい祭りの匂いより先に、片づけきれない作業の匂いを残す。
私はテープケースを封筒の横へ並べた。
青いインクで書かれた番組名。
〈ナイター前の窓辺〉
その文字の下には、十年前の三月の日付がある。夏の夜に読むには季節が違いすぎるはずなのに、紙から立ちのぼる気配は、なぜか今の空気に近かった。終わりかけた季節の熱。窓を開けたままにした夜。明日になれば、もう同じ場所には戻れないという、理由のない焦り。
私はカセットデッキの電源を入れた。
低いモーター音が、部屋の底で目を覚ます。再生ボタンを押していないのに、巻き戻しの歯車だけがカタカタと鳴った。テープは入っていない。けれど、古い機械は空のまま回りたがる癖があるらしい。
その音を聞いていると、原稿の書き手も同じだったのかもしれないと思った。
何も流れていないのに、どこかで音を待ち続ける。送るものがないのに、送信ボタンの前から離れられない。
私は一枚目の原稿を開いた。
紙の端が指の腹に引っかかる。乾いたざらつきが、放送室の埃と混ざって喉の奥へ落ちていくようだった。私は行頭に指を置き、声には出さず、ゆっくりと目で文を追った。
〈こんばんは。今日も、眠れない人のために、窓をひとつだけ開けておきます。〉
深夜番組の書き出しとしては、きれいだった。
きれいすぎる、とも思った。
誰かに聞かせるための文章でありながら、聞き手の顔を直接見ないように書かれている。眠れない人、遠くの音、窓辺、夜の余白。そういうものの後ろに、書き手自身が隠れていた。
次の行までの間隔が、通常の原稿より広い。
私は無意識に、空白へ赤ペンを伸ばしかけた。ここに何か書き足せば、文章はもっと自然につながる。たとえば、卒業前夜だから眠れないのだとか、明日にはこの番組も終わるのだとか。空白が何を意味するのか分からないなら、分かる形に埋めてしまえばいい。
けれど、赤ペンの先は紙に触れなかった。
その空白は、欠落ではなかった。書き手がそこに置いた沈黙だった。
私はペンを机へ戻した。
原稿の続きを読む。
〈今夜は、いつものように遠くの音を拾うだけでは終われないと思っていました。〉
その一文のあとには、三行分の空白があった。
私は息を止めた。
三行。話すなら、ほんの数秒で埋まる長さだ。放送では、聞き手が次の言葉を待つには長すぎる。けれど遙は、その長さを削らなかった。書き直した跡もない。白い紙の上に、ためらいだけがきちんと残されている。
空白のあとに、黒いインクで一文が続いていた。
〈今日、謝らなければならないことがあります。〉
その下には、赤い線が引かれている。
謝る相手の名前が書かれていたのだろう。だが、名前の部分だけは何度も塗りつぶされ、紙が薄くなっていた。光にかざすと、消しきれなかった筆圧が浮かぶ。
私は首を傾けた。
名前は読めない。
けれど、書き出しの最初の一画だけが残っていた。丸みを帯びた線。その先で、赤いペンが何度も止まり、やがて強く押しつけられている。
謝罪の文章は続いていた。
〈あの日、あなたが話しかけてくれたとき、僕は聞こえないふりをしました。聞こえなかったのではなく、聞いたあとに何を返せばいいのか分からなかったからです。〉
私はそこで、ページをめくる手を止めた。
胸の奥が、わずかに熱くなる。
聞こえないふり。
それは私にも覚えがあった。実行委員に呼ばれたとき、返事をしながら別の作業へ手を伸ばす。真琴に「何か言いたいことがあるなら言って」と見られたとき、笑って紙を整える。誰かの声を聞き取っていながら、聞き取ったことを認めると、自分も答えなければならなくなるから、聞こえなかったことにする。
私は原稿の行頭を指で押さえた。
放送部に入ってから、私は聞くことだけは上手くなった。音量の違い、声の揺れ、息を吸う位置。マイクを通せば、誰かが言葉を選ぶほんのわずかな間さえ分かる。
それなのに、聞き取ったものへ返事をするのは苦手だった。
声は届く。けれど、言葉の芯だけが遅れる。
遙の原稿は、私の中にあるその遅れを、紙の上へ並べて見せていた。
ページをめくる。
次の段落には、謝罪の続きがある。
〈あなたの時間を、僕は何度も借りました。放送室の鍵を忘れた夜も、録音を失敗した朝も、あなたは何も言わずに残ってくれた。僕はそれを、放送部の仲間だから当然だと思っていました。そう思っていれば、返さなくても許される気がしたからです。〉
私は小さく息を吐いた。
仲間だから当然。
その言葉は、真琴の顔を連れてきた。
進行表を乱暴に抱え上げる手。ガムテープを歯で切る癖。紙コップの水を、ぶっきらぼうな言葉と一緒に置いていくこと。真琴は、私が頼む前に必要なものを見つける。私が助けを求める前に、抱えている紙の束から半分を奪う。
私はそれを、いつから当然だと思っていたのだろう。
真琴だから手伝ってくれる。真琴だから怒ってくれる。真琴だから、私が言いかけたまま黙っても、しばらく待ってくれる。
そう思っていれば、私は何も返さなくて済んだ。
気づいた瞬間、胸の奥が細く痛んだ。
私は赤ペンを手に取り、原稿の余白へ何かを書こうとした。〈ありがとう〉と書けば済む気がした。けれど、それでは足りない。足りないと思うと、また書けなくなる。
私はペン先を紙から離した。
原稿には、まだ続きがあった。
〈僕は、あなたに謝りたい。けれど、本当は謝るだけでは足りないことも知っています。謝れば終わると思っていた時期がありました。言葉にしてしまえば、間違いを片づけられると思っていた。〉
その下に、また空白がある。
今度は二行。
私はその白さを見つめた。原稿の中で、空白は何度も現れる。大事な文の前に立ち、言葉が進むのを妨げる。けれど、妨げているだけではない。読んでいる私に、そこで立ち止まれと命じている。
私は立ち止まった。
窓の外で、金属を畳む音がした。誰かが脚立を片づけている。続いて、遠くから笑い声が聞こえた。すぐに廊下を走る足音が重なり、床板がかすかに震える。
学校はまだ眠っていない。
明日のために、誰かが何かを運び、貼り、直している。けれど、この部屋の中では、十年前の誰かが同じ場所で言葉を止めている。
過去と現在は、時間の上で並んでいるのではなかった。
同じ空白の両側に立っていた。
私は原稿を読み進めた。
〈あなたのことを、僕はたぶん、ずっと好きでした。〉
その一文は、黒いインクで書かれていた。
ただし、〈好き〉の部分だけ、赤い線で二重に囲まれている。最初は別の言葉だったらしい。〈大切〉。その上から〈好き〉と書き直されている。書き直した文字は、ほかの文より少し小さかった。
私はしばらく、ページから目を離せなかった。
好き。
短い言葉なのに、原稿のどの文よりも重かった。
放送で読むなら、一秒もかからない。けれど、遙はその一語を何度も書き直し、別の言葉へ逃がし、最後にまた戻している。
言い切ることが、怖かったのだと思う。
大切だと言えば、きれいに収まる。大事だと言えば、仲間にも使える。けれど好きと言えば、相手の返事を待たなければならない。受け取られるか、拒まれるか。冗談にされるか、気まずい沈黙に変わるか。言葉が自分の手から離れたあと、どこへ行くのか分からなくなる。
だから、私はいつも別の言葉を選ぶ。
ありがとう。大丈夫。何でもない。
どれも嘘ではない。ただ、言いたいことの周囲をきれいに囲うための言葉だった。
遙の原稿には、告白のあとにも長い空白があった。
〈でも、あなたに今さらそれを言う資格が僕にあるのかは、分かりません。〉
私は眉を寄せた。
好きと言いながら、すぐに自分で取り消している。届けたい気持ちを差し出し、その手を引っ込める。まっすぐ進めないまま、同じ場所を何度も回っている。
その癖が、私には嫌なほど分かった。
人手が足りないから私がやる。機材を止めたくないから私が直す。真琴が忙しいから、何も言わない。言わなければ迷惑をかけない。迷惑をかけなければ、置いていかれない。
私はずっと、そうやって自分を小さくしてきた。
声だけは大きく、言葉は小さく。
誰かに届くように話しながら、届いたあとに何が起きるのかを恐れていた。
原稿の余白へ、赤ペンの先が触れた。
私はそこへ、無意識に一文字だけ書いた。
〈私も〉
書いてから、すぐに線を引いて消す。
紙が赤く汚れた。
私は慌てて消しゴムを探したが、机の上にはなかった。指でこすっても、赤い跡は消えない。むしろ紙の繊維へ染み込んでいく。

その赤は、遙の原稿に残る赤い書き込みと似ていた。
消そうとした言葉ほど、きれいには消えない。
私はページをめくった。
次の文章は、急に短くなっていた。
〈明日の朝、僕はここを出ます。〉
〈放送室も、番組も、あなたの隣の机も、もう僕のものではなくなります。〉
〈だから、最後に一度だけ――〉
そこで、文が途切れている。
その後に続くはずの行には、何も書かれていない。ページの下端に、赤いマーカーの跡が一筋だけ残っていた。ペンを置いたまま、何かに気づいてしまったような線だった。
私は紙を裏返した。
何もない。
次のページも、次のページも、空白だった。
原稿はそこで終わっている。
放送の終わりに置くには、あまりにも途中だった。音楽へつなぐ指示も、番組終了の挨拶もない。誰かに声を届けるはずだった文章が、最後の一歩を前にして立ち尽くしている。
私はテープケースを見た。
ラベルの裏には、真琴が見つけた赤い文字がある。
〈流さない〉
流さなかった。
遙は、最後の言葉を紙に書き終えることさえできなかったのかもしれない。あるいは書いたあと、自分で消したのかもしれない。テープに声を録音し、再生ボタンの前まで持っていき、それでも手を止めたのかもしれない。
私はカセットデッキの再生ボタンへ手を伸ばした。
指先が、赤いボタンの上で止まる。
押せば、何かが聞こえるかもしれない。遙の声か、別の誰かの声か、ただの無音か。それを確かめれば、空白の理由に少し近づける。
けれど、真琴の声が蘇った。
勝手に聞くなよ。
私は手を引いた。
聞きたいという気持ちは、知りたいという形をしていた。けれど本当は、誰かの言えなかったものを覗き込みたいだけなのかもしれない。遙の沈黙を理解したいのではなく、自分の沈黙を正当化するために、似たものを探しているだけなのかもしれない。
その考えが、背筋を冷やした。
私は原稿の最後のページへ戻った。
紙の下端を指でなぞる。何もない。だが、ページの端だけが少し厚い。私は慎重に紙を持ち上げた。糊で貼られたような感触があり、薄い紙片が一枚、間に挟まっていた。
引き抜くと、赤いマーカーで短い文が書かれていた。
〈送らなかったことまで、消さないでほしい。〉
私は、その一文を読んだまま動けなくなった。
送らなかったことは、失敗だと思っていた。
読めなかった。言えなかった。間に合わなかった。だから、なかったことにする。最初から大した気持ちではなかったことにする。そうすれば、置いていかれた痛みも、取り残された悔しさも、少しは軽くなる。
けれど、この紙片は逆のことを言っていた。
送れなかったことも、自分の記録なのだと。
失敗した声も、途中で止まった言葉も、言い切れなかった好きも、消してしまえば本当に何も残らない。残らないものは、次の誰かへ渡せない。
私は紙片を指で押さえた。
胸の内側に、熱いものがゆっくり広がる。涙が出るほどではない。ただ、喉の奥にひっかかっていたものが、形を持ち始めていた。
私は真琴に、何を言おうとしていたのだろう。
明日も一緒に回ろう。
看板が完成したら写真を撮ろう。
文化祭が終わっても、隣で作業してほしい。
どれも本当だった。けれど、そのどれも、言いたいことの中心ではない。
中心にある言葉は、まだ口にできなかった。
私は紙片を封筒へ戻した。原稿を順番に揃え、折れた角を指で伸ばしていく。さっきまでなら、乱れた紙を見つけるたびに赤ペンで印をつけていた。けれど今は、空白も、消された名前も、途中で終わった文も、そのままにした。
埋めてはいけないものがある。
残しておかなければ、次に声を重ねる場所がなくなる。
窓の外で、脚立を畳む音がもう一度した。遠くの校舎から、誰かの笑い声が上がる。放送室のカセットデッキは、空のままカタカタと回り続けている。
私は原稿を閉じた。
送れなかった言葉は、消えない。
消えないまま、時間の底へ沈む。誰かが拾い上げるまで、誰かがもう一度読むまで、声になれない形で残る。
その声を、私は今、聞いてしまった。
だからといって、私が遙の代わりに続きを言えるわけではない。誰に謝り、誰を好きだったのかも、まだ分からない。テープを再生すれば、何かが明らかになるかもしれない。けれど今夜の私は、分からないものをすぐに埋めることより、分からないまま残っているものの重さを覚えていたかった。
私は赤ペンを握り直した。
自分の原稿を開く。
明日の朝の案内放送。校内の企画紹介。体育館の音響確認。どれも決められた言葉で、間違いなく読めば済む文章だった。
その余白に、私は小さく書き込んだ。
〈聞こえないふりをしない〉
書いた文字を見つめる。
それだけでは、まだ約束と呼べない。私はすぐに言葉を飲み込む癖がある。明日の朝になれば、また何かを急いで、何かを後回しにするかもしれない。
それでも、赤い文字は紙の上に残った。
消さずにおく。
放送室の灯りを落とす前に、私はテープケースを封筒の横へ戻した。カセットデッキの電源を切る。モーターの音が弱まり、最後に小さな軋みだけが残った。
無音になった部屋で、私は自分の呼吸を聞いた。
遠くで、誰かが校内放送の確認をしている。声は壁を越え、階段を下り、暗い校舎のどこかへ流れていく。言葉の一部は聞き取れず、途中で途切れ、また別の音に混ざった。
それでも、完全な沈黙ではなかった。
私は封筒をクリアファイルへ挟み、胸に抱えた。
明日の放送は止めない。
そのために、ひとりで全部を抱えるのではなく、聞こえた声へ返事をする。遙の原稿をそのまま読むのではなく、残された空白を空白のまま受け取り、その先に自分の言葉を置く。
まだ、うまく言えない。
けれど、言えないままでも、紙へ書くことはできる。書いたものを、いつか声にすることもできる。
扉へ向かい、私は一度だけ振り返った。
机の上のテープケースが、蛍光灯の残り光を受けていた。青い文字の〈ナイター前の窓辺〉が、夜の中で細く浮かんでいる。
窓は、まだひとつだけ開いている。
私はそのことを確かめるように、ゆっくりと放送室を出た。廊下にはガムテープの匂いが残り、階段の下から真琴の声が聞こえる。
「灯、まだ? 置いてくよ」
「今行く」
返事をしてから、私は一拍置いた。
いつものように言葉を飲み込みそうになった。けれど今度は、喉の奥に残ったものをそのまま押し出した。
「真琴。帰る前に、少しだけ話したい」
階段の下で、足音が止まった。
「……何。急に」
「まだ、うまく言えないけど」
「それ、話すって言わないでしょ」
「うん。でも、言いたい」
返事はすぐには返ってこなかった。
その沈黙は、原稿に残っていた空白とは違っていた。拒まれたのか、待っているのか、私にはまだ分からない。けれど、私はその場から逃げずに立っていた。
やがて真琴が、短く息を吐く。
「分かった。三分だけ」
「三分?」
「長い話は禁止。明日の段取りがあるから」
「うん」
「あと、その声。今度はちゃんと最後まで出して」
私は階段を下りた。
夜の校舎には、まだ誰かの足音が残っている。明日の朝までに貼られる紙、直される機材、書き足される原稿。そのすべてが、終わりへ向かいながら、次の声のための場所を作っていた。
私は封筒を胸元で押さえた。
未送信の文字は、まだ消えない。
消えないまま、私の手の中にある。
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