第2話 棚の奥の匂い

真琴が階段を下りていったあと、私はしばらくミキサーの前に立っていた。
スピーカーの奥で、ぶ、と低い音がする。さっきまでのように鋭くはない。けれど完全に消えたわけでもない。耳を澄ませば、古い機材が眠りながら呼吸しているようにも聞こえた。
私は音量メーターの針を確認し、インターホン回線の入力を一度切った。
ノイズが消える。
代わりに、廊下から聞こえていた人の声が遠くなった。誰かが笑い、何かを引きずり、階段の下で「それ、明日の朝までに貼れる?」と叫んでいる。校舎全体が明日に向かって動いているのに、この部屋だけが少し遅れていた。
旧校舎三階の放送室は、現校舎の設備が足りないときに使う予備の部屋だった。普段は鍵がかかっていて、文化祭や体育祭の前だけ、古い機材を確認するために開けられる。壁際には十年前のスピーカーが積まれ、棚には何年分か分からないケーブルやマイクの箱が押し込まれていた。
実行委員から頼まれたのは、古いインターホン回線が使えるかどうかの確認だった。明日の校内放送で、体育館と中庭の臨時スピーカーをつなぐらしい。
私は机の上の確認表に目を落とした。
〈旧校舎三階 放送室 回線確認〉
その横に、赤ペンで小さく丸をつける。けれど、丸をつけたところで仕事が終わるわけではない。ケーブルの接触、電源、入力切り替え、予備マイク。確認するものはいくらでもあった。
私は窓を閉め、部屋の奥に進んだ。
そのとき、階段の下から真琴の声が聞こえた。
「灯ー! 青いケース、こっちにある!」
「今行く」
返事をして、私は扉へ向かいかけた。
「待って。やっぱり棚の奥も見て」
「棚?」
「ケーブル、古いのがまとまってるかもしれない。実行委員の倉庫、空だった」
真琴が階段を上がりながら言う。片手には、先ほど探していた予備マイクの青いケースがあった。もう片方の手には、剥がれかけたラベルのついた延長コードが何本も絡まっている。
「こんなところ、まだ使えんのかよ」
真琴は放送室へ入るなり、部屋全体を見回した。
白い蛍光灯が、埃の浮いた空気を平らに照らしている。昼間なら気にならない汚れまで、夜の光の下では細かく見えた。机の表面には、古い紙を何度も置いた跡が薄く重なっている。窓際のカセットデッキは電源が落ちたままで、再生ボタンだけが妙に新しく見えた。
扉を閉めた瞬間、匂いが変わった。
埃の粉っぽさの奥に、甘い酸味のような匂いがある。湿った段ボールとも、古い絵の具とも違う。磁気テープを長いあいだ箱の中にしまっておいたときの、鼻の奥に残る匂いだった。
「テープの匂いがする」
「分かるの、それ?」
「うん。たぶん、棚の奥」
私が指差すと、真琴は延長コードを机に置き、腰に手を当てた。
「分かるのに、機材の不調は直せないんだ」
「それとこれは別」
「灯の『別』は、だいたい別じゃないんだよ」
私は聞こえなかったふりをして、棚へ近づいた。
棚は木製で、表面の塗装がところどころ剥がれていた。いちばん下の段には、ラベルの読めないカセットテープが積まれている。二段目には古いマイクコード、三段目には紙箱と、使いかけの養生テープ。奥には薄い板が立てかけられていた。
板を動かすと、きし、と乾いた音がした。
その音に混じって、何かが崩れる気配があった。
「灯、ちょっと待て」
真琴の声が低くなる。
私は手を止めた。棚の奥から、紙の擦れる音がした。薄いものが重なり、押しつぶされ、長いあいだ動かなかった場所から滑り出そうとしている。
次の瞬間、板が手前に倒れた。
私は反射的に腕を出した。けれど板の裏に押し込まれていた箱までは支えきれず、紙箱が床に落ちた。蓋が外れ、中から数冊のファイルと、茶色く焼けた封筒が飛び出す。
封筒は床を滑り、私の靴の先で止まった。
「危な……」
真琴が息を吐いた。
私はしゃがみ込み、封筒を拾い上げた。紙は乾いているのに、角の部分だけが妙に柔らかかった。何度も手に取られ、何度も戻されたような折れ方をしている。
封筒の表には、赤いマーカーで一言だけ書かれていた。
〈未送信〉
文字は一度書いてから、上からなぞられていた。赤が濃い部分と薄い部分があり、最後の「信」の横には、ペン先が紙に食い込んだ小さな穴がある。
「何それ」
真琴が私の肩越しに覗き込む。
「分からない。たぶん、昔の資料」
「未送信って、郵便物?」
「放送の……かもしれない」
「放送に送信って言う?」
「言うよ。音源とか、回線に送るから」
「ふうん。放送部の言葉、いちいち遠回しで分かりにくい」
真琴はそう言いながら、床に散らばった紙を拾い始めた。彼女の動きは早かった。紙の向きを揃え、折れた角を指で伸ばし、ばらばらになったファイルを種類ごとに分けていく。
私は封筒を裏返した。
差出人の欄に、名前があった。
三好遙。
知らない名前だった。
けれど、文字を見た瞬間、胸の奥に小さな違和感が生まれた。誰かの声を聞いたわけではない。ただ、名前の最後の一画が少し長く引かれていて、その癖が、封筒の端に残った赤い線とつながっているように見えた。
「三好……遙?」
口に出すと、声が放送室の中で思いのほかよく響いた。
「知ってる人?」
「ううん。たぶん、十年前の放送部の人」
封筒の裏側に、古い部活動名簿の切れ端が貼りついていた。紙は黄ばんでいて、上部が破れている。かろうじて読める名前の下に、放送部という文字が残っていた。
「十年前って、まだこの校舎使ってた頃?」
「たぶん。旧校舎の放送室が閉鎖されたの、十年くらい前だから」
「じゃあ、卒業した人か」
真琴はファイルを一冊、机の上へ置いた。
「その人の忘れ物なら、職員室に出せばいいでしょ。明日の朝、先生に見せて――」
「待って」
私は封筒の口に指をかけた。
封はされていなかった。けれど、何度も開け閉めした跡があり、糊の部分が黒ずんでいる。中から紙の重なった感触が返ってきた。
「灯」
「見るだけ」
「いや、見るだけって言い方する人は、だいたい見るだけで済まない」
「勝手に持ち出すわけじゃないよ。中身を確認しないと、何の資料か分からない」
「それ、正論っぽいけど、今の顔は正論じゃない」
私は返事をしなかった。
封筒の内側に、赤い書き込みが残っていた。何かを書いて消したらしい。紙を斜めに傾けると、薄く筆圧だけが浮かんで見える。
〈ナイター前の窓辺〉
その下に、別の言葉が重なっている。
〈最終回 卒業前夜〉
私は息を止めた。
「番組名?」
「……うん」
「そんな番組、あったんだ」
「部誌とかに載ってるかも」
「でも、送信されてないんでしょ」
真琴の声が、少しだけ落ち着いた。
私は封筒から紙束を取り出した。紙は十年分の時間を吸い込んで、薄く黄色くなっている。端はところどころ茶色く変色し、触るとざらついた粉が指先に残った。最初のページには、鉛筆で番組名が書かれている。
〈ナイター前の窓辺〉
文字の横には、赤いマーカーで何度も書き直した跡があった。番組のタイトルなのに、最後の「辺」の字だけが二重になっている。消そうとして消しきれなかったのか、上から書き足したのか分からない。
私は一枚目をめくった。
原稿は、放送用の形をしていた。
〈こんばんは。今日も、眠れない人のために、窓をひとつだけ開けておきます。〉
そこまでは、深夜放送らしい書き出しだった。
次の行に、短い空白がある。紙の上に何も書かれていない部分が、ほかの行より少し広い。
〈今夜は、卒業前夜です。だから、いつものように、遠くの音を拾うだけでは終われないと思っていました。〉
私は指で行頭を押さえた。
声に出して読んだわけではないのに、文章の間が聞こえた。書き手が一度息を吸い、言葉を選び、選んだ言葉をまた疑っている。そんな呼吸が、紙の白さに残っている。
「なんか、ちゃんとした原稿じゃん」
真琴が横から覗いた。
「放送されてないのに?」
「放送されてないからって、ちゃんとしてないとは限らないでしょ」
「そういう意味じゃない。これ、誰かに聞かせるために書いたんだろ。なのに送ってないなら、途中で飽きたとか、怖くなったとか――」
「違うと思う」
私は思ったより強い声で言っていた。
真琴が顔を上げる。
「何が違うの」
「飽きたとかじゃない。たぶん……最後まで書いたのに、送れなかったんだと思う」
「同じじゃん」
「同じじゃないよ」
言葉が喉に引っかかる。私は一度息を飲み、それでも続けた。
「書くことと、届けることは違うから。書いた時点で、もう気持ちは形になってる。でも送ると、その形が自分の手から離れる。誰かに読まれるし、聞かれるし、戻ってこない。そこまで考えたら、押せなくなることはあると思う」
「……灯、それ、自分の話してない?」
真琴の声には、からかいがなかった。
放送室の蛍光灯が一度だけ明滅した。古い機材のどこかで、金属が冷えるような小さな音がする。
「してない」
「してる顔」
「してないって」
「じゃあ、なんでそんなに怒るの」
私は紙束を持つ手に力を込めた。紙の角が掌へ食い込む。
「怒ってない」
「怒ってる。声が通ると、怒ってないように聞こえるけど、今のは怒ってる」
「真琴は、何でも決めつける」
「決めつけてない。見たまま言ってるだけ。あんた、誰かが言えなかったことを、すぐ自分の中に入れるじゃん。去年の機材トラブルのときも、失敗したのは自分だけみたいな顔してた。実際はケーブルの接触不良だったのに」
「でも、私が判断できなかったから」
「またそれ」
「だって、私が読む側だったから。放送を止めないのが役目だったのに、何も言えなかった」
「だから今度は、何でも先に言って、何でも先に直して、誰かの失敗まで自分のものにするの?」
真琴の声が、狭い部屋の中でまっすぐに響いた。
「それは……」

「言えないなら、無理に答えなくていい。でも、その原稿まで自分の責任みたいに抱えるなよ。三好遙って人が送れなかったものは、その人のものだろ」
「分かってる」
「分かってないから、握りつぶしそうな持ち方してる」
私は手元を見た。原稿の端が少し曲がっていた。慌てて力を緩める。
真琴はそれ以上責めなかった。代わりに、机の上に落ちていたテープケースを拾い上げる。
ケースには、青いインクで題名が書かれていた。
〈ナイター前の窓辺〉
文字の下には、日付がある。
十年前の三月。卒業式の前夜。
「これも一緒に入ってた」
真琴がケースを裏返す。
「録音テープ?」
「たぶん。でも、ラベルに何も書いてない」
「再生できるかな」
「今?」
「確認するだけ」
「またそれ言った」
「だって、原稿と一緒なら関係あるかもしれない」
「灯」
「聞くだけ。もし中身が個人的なものなら、それ以上は触らない」
「そういう判断ができるなら、最初から先生に渡せばいいじゃん」
私は答えられなかった。
テープケースの透明な蓋には、細かな傷が走っている。何度も持ち運ばれたのか、隅のラベルが少し浮いていた。指で押さえると、紙の下から赤い線が見えた。
〈流さない〉
その文字は、ラベルの裏側に書かれていた。
私はケースを裏返したまま、しばらく動けなかった。
「……流さないって書いてある」
真琴は私の手元を見た。
「本人が?」
「分からない。赤ペンの癖は、封筒と同じ」
「なら、なおさら勝手に聞くなよ」
「でも、どうして流さないのかは分からない」
「分からなくていいこともあるでしょ」
「私は、分からないままにするのが苦手なの」
言った瞬間、自分の声が放送室の壁に返ってきた。
私は空白を見ると埋めたくなる。台本に何も書かれていない部分があると、そこへ補足を入れる。誰かが言いかけて黙ると、代わりに続きを考える。機材のノイズが消えないと、原因が分かるまでつまみを触り続ける。
けれど、空白には空白のまま残された理由がある。
そのことを、私は知っていたはずだった。
真琴はテープケースを私の手から取り上げなかった。ただ、ケースの端を指で押さえた。
「分からないままにするのが嫌なら、なおさら誰かと一緒に考えればいい」
「誰かって」
「私とか。先生とか。明日の放送部の顧問とか。少なくとも、ひとりで深夜まで読んで、勝手にその人の気持ちを背負うよりはまし」
「まだ深夜じゃないよ」
「そういうところだよ」
真琴はため息をつき、棚から落ちたファイルを閉じた。
「持ち出してもいいだろ。明日、藤沢先生に見せる。原稿はそのあと返す。テープも、聞くなら許可を取ってから」
「……うん」
私はそう返した。
けれど、すぐには封筒へ戻せなかった。
原稿の最後のページだけ、ほかの紙よりわずかに厚い。裏に何か挟まっているようだった。私は一度、真琴の顔を見る。
「まだあるの?」
「違う。最後だけ確認したい」
「灯」
「これで終わりにする」
真琴はしばらく黙っていた。やがて、乱暴に息を吐いた。
「五分だけ。五分経ったら、強制的に閉じる」
「分かった」
私は最後のページをめくった。
そこには、放送の締めくくりらしい文章が書かれていた。
〈窓を閉める時間が来ました。明日になれば、ここで鳴る声も、別の誰かのものになります。〉
その下に、長い空白があった。
空白のあとには、赤いマーカーで書かれた一文がある。
〈それでも、この校舎でまだ鳴っている声を、なかったことにはしたくない。〉
私はその行を、何度も読み返した。
好きだとも、さよならだとも書いていない。それなのに、胸の奥が熱くなった。言葉の外側に、誰かの名前を呼びかける気配がある。呼びかけたあと、返事を待つことを恐れている気配がある。
最後の行は、途中で切れていた。
〈もし、明日の朝、君がこの声を――〉
そこから先は、何もない。
紙の端に赤い線が走り、書き手がペンを止めた跡だけが残っている。
「……切れてる」
真琴が言った。
「うん」
「続き、別の紙にあるんじゃない?」
「探す?」
聞き返してから、私は自分の声に気づいた。さっきまでの焦りとは違う。見つけたいという気持ちが、はっきりと声になっていた。
真琴は少し目を細めた。
「五分って言ったけど」
「あと一分」
「そういう交渉だけは早いんだよな」
真琴は床にしゃがみ込み、落ちた紙箱の中を探り始めた。私は封筒の底を指でなぞる。紙の内側に、何か硬いものが当たった。
封筒を傾けると、小さな紙片が滑り出た。
赤いマーカーで、たった一行だけ書かれている。
〈送らなかったことまで、消さないでほしい。〉
その文字を見たとき、喉の奥に熱が集まった。
私は紙片を封筒へ戻し、原稿の束を丁寧に揃えた。真琴がこちらを見る。
「どうだった」
私はすぐに答えられなかった。
放送室の外で、誰かが走っていく。遠くの体育館から、太鼓の音が短く三つ響いた。窓の隙間から入った夏の夜気が、汗ばんだ首筋を冷やしていく。ガムテープと絵の具と古い紙の匂いが混ざり、懐かしさに似たものが、甘くならないまま胸へ沈んだ。
「まだ、終わってないみたい」
「何が?」
「この原稿」
私は封筒を抱え直した。
「送られてないけど、終わったわけじゃない。書き手が途中で止まっただけで、最後の言葉がなくなったわけじゃないと思う」
「それ、本人に聞けないのに分かるの?」
「分からないよ」
私は一拍置いた。
「分からないけど、分からないまま残ってるから、ここにあるんだと思う」
真琴は何も言わなかった。
やがて彼女は、床に散らばった紙をまとめ、封筒を私のクリアファイルへ差し込んだ。
「とりあえず、なくさないようにしとく」
「先生に見せるんだよね」
「見せる。明日の朝、絶対に」
「うん」
「それまで、勝手に放送しない」
「しない」
「テープも勝手に回さない」
「分かった」
「あと、ひとりで抱え込まない」
私は返事をする前に、また一拍黙った。
真琴が眉を上げる。
「そこも、分かったって言え」
「……分かった」
「声、弱い」
「分かったよ」
「ならいい」
真琴は棚の板を立て直し、散らばった箱を元の位置へ戻し始めた。完全には直らなかったが、倒れないように足元へガムテープを貼って固定する。びり、とテープを裂く音が部屋に響いた。
私はクリアファイルの中の封筒を見た。
赤い文字の〈未送信〉が、透明な表面越しにこちらを向いている。
その文字は、機材のノイズに似ていた。放っておけば気になる。消そうとすれば、どこから鳴っているのか分からなくなる。けれど耳を澄ませれば、そこには誰かが動かした指先や、止めた呼吸の跡がある。
扉を開けると、廊下の空気は放送室より冷たかった。白い蛍光灯が、貼りかけの紫苑祭の飾りを照らしている。階段の踊り場には、切れたガムテープの端がいくつも落ちていた。
私と真琴は並んで階段を下りた。
窓の外では、校庭の照明がひとつずつ消えていく。昼間の笑い声は薄れ、代わりに校舎の中で、まだ誰かが机を動かしている音が続いていた。
明日の朝になれば、この封筒は先生へ渡される。原稿は整理され、テープは確認され、十年前の記録として保存されるのかもしれない。
それでも、私は最後の一文を忘れられなかった。
送らなかったことまで、消さないでほしい。
階段を下りる途中で、私は一度だけ足を止めた。上の階から、古いカセットデッキのモーターが回り出すような音が聞こえた気がした。
誰も触れていないはずなのに。
振り返ると、三階の廊下は白い光の中で静まり返っていた。放送室の扉だけが、わずかに開いている。
「灯、行くよ」
下から真琴が呼んだ。
「うん」
私は返事をした。
今度は、声の芯を遅らせなかった。封筒を胸元で押さえ、私は階段を下りていった。背中の上で、旧校舎の夜がゆっくりと扉を閉じる音を聞きながら。
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