第1話 ノイズの癖

スピーカーの奥で、ぶ、と低い音が跳ねた。
私は反射的にミキサーのつまみを下げた。音量メーターの針が落ち、校内放送の試験音声が廊下の途中で途切れる。窓の外では、誰かが笑いながら脚立を運んでいた。その声だけが、旧校舎三階の放送室まで薄く届いている。
「……もう一回」
ヘッドホンを片耳に押しつけ、私はマイクのスイッチを入れた。
「こちらは放送部、最終リハーサル中です。明日の紫苑祭では――」
言葉の途中で、またノイズが混じった。細い針金をこするような音。続いて、スピーカーの向こうで小さな唸りが膨らみ、私の声の輪郭を汚した。
止める。
インターホン回線の差し込み口を抜き、端子を指先で撫でる。金属のざらつきが汗ばんだ皮膚に残った。もう一度差し込む。つまみを少しだけ戻す。入力を切り替える。
ぶ、と鳴る。
私は机の端を指でなぞった。木の表面に、誰かが貼って剥がしたテープの糊が薄く残っている。指先がそこに引っかかるたび、胸の奥の焦りも一緒に引っ張られた。
「朝比奈、放送室の予備マイク、どこだっけ?」
開け放した扉の向こうから、実行委員の男子が叫んだ。
「棚の二段目、右側です。青いケースの――」
言い終わる前に、廊下の別の方から声が飛んできた。
「灯、体育館の音響チェック、五分押しでいいって伝えた?」
「まだです。今、ミキサーが……」
「あと、正門の案内放送、原稿できてる?」
「はい。ファイルの中に」
「それ、印刷が二部足りない。あと、校舎西側のインターホン、音が小さいって」
返事をするたび、机の上の紙が増えていく。進行表、放送原稿、音響確認表、実行委員から回ってきた付箋。どれも明日の朝までに必要なものだった。必要である以上、置いていくことはできない。
私は赤ペンを握り直した。原稿の行頭を押さえ、チェック欄に印をつける。けれど、急ぐほど線が斜めになる。二重線を引き、書き直し、また別の紙に手を伸ばした。
「朝比奈さん、聞こえてる?」
「あ、はい。聞こえてます。すみません、すぐ確認します」
自分の声が、妙に明るく響いた。眠いときや追い詰められたとき、私はいつもこうなる。通る声だけが、本人を置き去りにして先へ行く。声は廊下の端まで届くのに、言葉の芯は喉の手前で一拍遅れる。
そのとき、階段を駆け上がる足音がした。続けて、扉が壁にぶつかる。
「いた。やっぱここか」
早瀬真琴が、片方だけ軍手を外した手で扉を押さえていた。黒いマーカーの粉と、乾きかけた絵の具が白い指の節に残っている。肩で息をしながらも、私の顔を見た途端、眉をひそめた。
「顔が死んでる」
「死んでないよ」
「死んでる奴はだいたいそう言う。鏡見てみ。自分で自分に放送事故起こしてる顔」
「放送事故って……」
「その顔でマイクの前に立つな。聞いてる方が不安になる」
真琴は私の返事を待たず、机の上の進行表をまとめて抱え上げた。紙の束がばさりと鳴る。
「何するの」
「何するって、こっちが聞きたい。これ全部、今ひとりでやるつもりだった?」
「やるつもりというか、やらないと」
「やらないと、じゃない。誰かに振れ」
「でも、みんな手が離せないし」
「だからって灯が全部持つなって言ってんの。ほら、体育館の確認は私が行く。正門の原稿は、二年三組の誰か捕まえて刷らせる。予備マイクは私が見つけて持ってくる。あんたは今、音だけ見て」
私は赤ペンを握ったまま、真琴の背中を見た。彼女は机の隅に積まれた紙を、種類ごとに乱暴な手つきで分けている。乱暴なのに、必要なものだけは迷わず手元に残す。看板の文字を配置するときと同じだった。線を引く前に迷わない。迷ったとしても、手を動かしているうちに答えを作ってしまう。
「真琴」
「なに」
「……ありがとう」
言葉は喉の入口まで来ていた。けれど、そこから先へ出ると、何か別の意味までこぼれてしまいそうだった。私は一拍置いて、結局それだけを言った。
真琴は進行表から顔を上げなかった。
「礼はいい。あとでカフェオレ買って」
「うん」
「あと、今の『ありがとう』、軽い。もっとちゃんと――」
そこで彼女は言葉を切った。自分で言い過ぎたと思ったのか、手元の紙を一枚裏返す。
「いや、いい。音、見ろ。ノイズ、まだ出てる」
遠くで、体育館の太鼓が一度だけ鳴った。腹の底に響く、乾いた試し打ちだった。旧校舎の窓がわずかに震え、机の上のクリップが跳ねる。
「出てるから困ってるんだよ」
「困ってる顔で触るから余計出るんでしょ」
「機材に顔は関係ないよ」
「関係ある。焦ると手つきが雑になる」
「……見てたの」
「見てるよ。ずっと」
真琴の声が少し低くなった。
私は返事をしなかった。ミキサーのつまみに手を伸ばす。指先が汗で滑り、つまみを必要以上に回してしまう。音量メーターが跳ね、スピーカーからきついノイズが吹き出した。
「ほら!」
真琴が手を伸ばし、私の手首をつかんだ。
汗ばんだ皮膚に、軍手のざらつきが触れる。すぐに離れたけれど、その短い接触だけが、機材の熱より長く残った。
「触るなって意味じゃない。ゆっくりやれって意味」
「分かってる」
「分かってないから言ってる」
「分かってるってば」
声が思ったより大きくなった。放送室の壁に跳ね返り、私自身の声が私を責めるように戻ってくる。
真琴は何も言わなかった。言い返す代わりに、机の端に置かれていたガムテープを取った。古い机の角に裂け目ができているのを見つけたらしい。彼女はテープを歯で切り、端をきっちり折ってから、裂け目を覆った。
びり、と紙のような音がした。
その音に、少しだけ呼吸が戻る。
放送室には、昼間から残った熱がこもっていた。古い機材の金属は触れなくても温度を持ち、埃の匂いが喉に薄くまとわりつく。窓を少し開けると、夏の夜気が入ってきた。湿った風が首筋を撫で、廊下に貼られた装飾テープの匂いを運んでくる。ガムテープ、絵の具、汗、紙。紫苑祭の前夜は、きれいな思い出になる前の生々しい匂いで満ちていた。
窓の下では、誰かが「そっち押さえて」と叫んでいる。笑い声が起き、すぐに何かの落ちる音がした。校舎全体が、明日の形を急いで作っている。

「灯」
真琴が、ガムテープの端を押さえながら言った。
「なに」
「今日、帰る気ある?」
「あるよ。終わったら」
「終わるの?」
質問なのに、返事を求めていない声だった。
「終わらせる」
「それ、いつものやつ」
「いつものって?」
「自分で全部抱えて、最後に『大丈夫』って言うやつ。大丈夫なら、そんなに赤ペン折れそうな持ち方しない」
私は手元を見た。赤ペンの軸が指に食い込んでいる。先輩から譲ってもらった、少し欠けた赤ペンだった。キャップの縁には、何度も噛んだ跡がある。
「……止めたくないんだよ」
言ってから、口の中が乾いた。
真琴は黙っている。私はミキサーの針を見た。数字の上を、細い針が不安定に揺れている。
「放送を止めたくない。去年、機材のトラブルで、次の原稿に入れないまま沈黙したことがあったでしょ。あのとき、みんなが待ってるのが分かってたのに、何を言えばいいか出てこなくて。音だけが、ずっと空白のまま残った。あれを、またやりたくない」
「それで、今度は自分が空白になってる」
「……そうかもしれない」
「認めるの早」
「真琴が言ったから」
「私のせいにすんな」
「してないよ」
「してる顔」
真琴はそう言ったあと、私の横に紙コップを置いた。いつの間に持ってきたのか、水が半分だけ入っている。紙コップの表面には、彼女の指の絵の具が青くついていた。
「飲んどけ。声、乾いてる」
「でも、確認が」
「三十秒で飲める。三十秒を惜しんで倒れたら、明日の方が困る」
「真琴は、そういうところだけ先生みたい」
「先生はもっと優しく言う。私は優しく言えないから、先に置く」
私は紙コップを手に取った。水はぬるかった。それでも喉を通ると、ひっかかっていたものが少しだけ下へ落ちた。
真琴は私を見ず、進行表の端を押さえている。そこには、私と真琴が先週一緒に書いたメモがあった。用件しかない短い文字。〈音源確認、木曜まで〉〈看板、裏面も固定〉〈昼休みに購買〉。簡単な言葉ばかりなのに、何度も読み返した跡がある。
「真琴」
「今度はなに」
「明日、放送が終わったら……」
そこまで言って、私は止まった。
真琴がこちらを見る。
「終わったら?」
「……ううん。何でもない」
「何でもない顔じゃない」
「本当に、何でもない」
「灯」
名前を呼ばれただけで、喉の手前が狭くなった。言いたいことは、たぶん大したことではない。明日も一緒に回ろうとか、看板が完成したら写真を撮ろうとか、文化祭が終わっても、今みたいに隣で作業できるのかとか。
けれど、口に出すには輪郭が柔らかすぎた。言葉にした途端、違うものに変わってしまいそうだった。
真琴はしばらく私を見ていたが、やがて大きく息を吐いた。
「何でもないなら、今はいい。でも、後で言うつもりなら、後でちゃんと言え」
「……うん」
「その返事、弱い」
「うん」
「二回言えばいいってもんじゃない」
真琴は机の上のガムテープを私へ押し出した。
「とにかく、これでケーブル留める。あんた、音を見て。私は体育館行く。戻るまでに原因の候補、三つに絞っといて」
「三つ?」
「全部分からなくても、三つなら次に動ける。何も分からないまま抱えてるのが一番遅い」
「……分かった」
「今度は少しマシ」
真琴は進行表を抱え、扉の前で振り返った。
「灯」
「なに?」
「止めないって、全部ひとりで背負うって意味じゃないから」
その言葉は、彼女にしては珍しく、まっすぐだった。
私はまた一拍黙った。いつものように、言葉が喉の手前で引っかかる。けれど今度は、飲み込まずに息を押し出した。
「……分かってる。たぶん、これから分かる」
真琴は目を細めた。笑ったのか、困ったのか、暗くなり始めた廊下の光では分からない。
「なら、早く分かれ。明日まで時間ないから」
扉が閉じる。階段を下りていく足音が、ひとつ、ふたつ、遠ざかっていった。
私はミキサーに向き直った。
スピーカーの奥で、まだ小さな唸りが続いている。完全には消えていない。けれど、さっきまでとは違う音だった。ノイズの下に、機材の動いている気配がある。消すべき異音と、動いている証拠として残る音。その境目を、私は耳を澄ませて探した。
遠くの体育館で、また太鼓が鳴る。
今度は二度、間を置いて三度。
私は赤ペンを机に置き、インターホン回線の差し込みをひとつずつ確認した。廊下の蛍光灯が、窓の向こうの夜に白く映っている。文化祭の飾りで覆われた校舎は、昼の明るさをもう失っていた。それでも、あちこちから人の声と足音が流れ込んでくる。
明日は止められない。
その考えはまだ喉の奥に固いままだった。けれど今度は、ひとりで抱え込むためではなく、音の向こうにいる誰かへ届かせるために、私は次の確認へ手を伸ばした。
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