第10話 空白のあとに続く声

赤いランプが灯った。
ヘッドホンの内側で、部屋の音が急に遠くなる。蛍光灯の低い唸りも、窓の外を走る足音も、真琴がガムテープを裂く音も、薄い膜の向こうへ押しやられた。
残ったのは、自分の呼吸だけだった。
「……こちらは、東雲高校放送部です」
声が返ってくる。
少し遅れて、ヘッドホンの奥から自分の声が重なった。音の輪郭は思っていたより細く、けれど途中で逃げてはいない。
私は台本の一行目を指で押さえた。
「今日の紫苑祭では、いつもの案内放送に加えて、少しだけ特別な時間を作ります。十年前、この放送室に送られなかった原稿が残されていました」
瞬の指が、ミキサーのフェーダーのそばで止まる。
私は続けた。
「そこには、誰かに伝えたかった言葉と、伝えられないまま残った沈黙が書かれていました。けれど、残っていたのは言葉だけではありません。書いた人が、最後まで消せなかった時間も、そこにありました」
ここで、原稿なら空白が入る。
三好遙の文章では、告白の前に二行分。謝罪の前には、もっと長い空白。読む者に息を渡すためではなく、書いた本人が立ち止まった痕跡だった。
私はその空白を、少しだけ長く取った。
喉の奥が震えた。声が途切れそうになる。けれど、瞬の言葉を思い出した。
声の震えも、そのまま使う。
「言えなかったことは、言わなかったことと同じではありません。言葉にできなかったからこそ、誰かの中に残り続けることがあります。私は、そういうものを、なかったことにしたくないと思いました」
真琴が、机の端を指で叩いた。
こつ、こつ、と二回。
その音はヘッドホン越しにも届いた。私は一度だけ目を閉じる。
原稿の余白に書いた文字が浮かんだ。
〈来てくれて、嬉しかった。〉
あれは放送で読むつもりはなかった。真琴の名前も、私たちの間にあるものも、ここで勝手に誰かへ渡すつもりはない。
けれど、その気持ちは今の私の声を支えていた。
「この放送を聞いている人の中にも、言おうとして言えなかったことがあるかもしれません。謝りたかったのに、きっかけを失ったこと。好きだと言えないまま、時間だけが過ぎたこと。終わってほしくないと思ったのに、終わるしかなかったこと」
言葉にしてしまうと、胸の内側に隠していたものの形が見えた。
好き。
終わってほしくない。
私はそのどちらも、まだ誰かに向けて言ったことがない。
けれど、言えないままの気持ちを持っていることは、もう隠せなかった。
「そういう言葉は、送れないまま消えることがあります。でも、消えたことと、なかったことは違います。誰かの記憶や、紙の余白や、声の震えの中に残っていることがある」
窓の外で、校庭の歓声が膨らんだ。開会式が終わったらしい。太鼓の音が連続して響き、放送室の壁がかすかに揺れる。
瞬が片手を上げた。
録音はまだ続いている。
私は最後のページをめくった。
そこには、三好遙の原稿から拾った一文を、私の言葉に直したものがある。
〈この校舎でまだ鳴っている声を、なかったことにはしたくない。〉
何度も書き直して、ようやく残した一行だった。
「十年前の原稿は、送信されませんでした。でも、その人が書いた時間は、消えずにここに残っていました。今日、私たちはその続きを、自分たちの声で作ります」
私は一度、息を吸った。
「もし、まだ終わらせたくないものがあるなら。すぐに言えなくても、せめて自分の中で、なかったことにしないでください。いつか届く形に変えられるかもしれないから。今夜の私たちが、そうだったように」
最後の言葉を言い終えた。
赤いランプが消える。
ヘッドホンの中に、空気の抜ける音だけが残った。
「……終わった?」
真琴の声がした。
「うん」
私はヘッドホンを外した。耳の奥が熱い。手のひらには、いつの間にか細かな汗が滲んでいた。
瞬は画面を見つめたまま、すぐには何も言わなかった。波形の中央に、私の声が細く連なっている。ところどころに大きな空白があり、その間だけ、画面の青い線が途切れていた。
「長い」
「削る?」
「いや」
瞬はマウスを動かし、音声の終わりを再生した。
私の声が、もう一度、部屋に流れる。
〈いつか届く形に変えられるかもしれないから。今夜の私たちが、そうだったように〉
再生が終わったあと、瞬は画面から目を離さずに言った。
「このまま出す」
「本当に?」
「本当に。三分二十四秒。予定より十四秒長い」
「長いんじゃん」
「削る理由がない」
真琴が鼻で笑った。
「黒木にしては、ずいぶん甘い判断」
「甘くない。十四秒を削って、何を得る?」
「それ、灯に言ってる?」
「二人に言っている」
瞬はようやく顔を上げた。
「ただし、放送機材の接続が一つ不安定だ。昼前の中庭回線、今も入力が時々落ちる」
胸の奥に、細い針が戻ってきた。
「どのくらい?」
「数秒。長ければ十秒。原因はケーブルか、旧校舎側の中継器。特別回を流すなら、ここから直接送る」
「じゃあ、旧校舎の回線は使えないってこと?」
「使える。安定していないだけだ」
「それ、使えるって言わない」
「放送は、完全な条件が揃ってから始めるものじゃない」
瞬の言い方が、少しだけ遙の原稿に似て聞こえた。
私はミキサーの入力ランプを見た。緑の光が点滅している。ひとつだけ、赤くなりかけて戻る箇所がある。
ノイズは消えていない。
録音の途中で音が落ちれば、私の言葉は空白に裂かれる。聞いている人には、ただの故障にしか聞こえないかもしれない。
「灯」
真琴が呼んだ。
「なに」
「怖いなら、怖いって言えば」
「怖い」
今度は、すぐに言えた。
真琴の眉がわずかに上がる。
「言えるじゃん」
「言えた」
「じゃあ、次」
「次?」
「それでもやるのか、やらないのか」
私はミキサーのつまみに指を置いた。金属が機材の熱を含んでいる。
窓の外では、紫苑祭の音が次々に重なっていた。呼び込みの声、笑い声、遠くで鳴る音楽。どれも綺麗には揃っていない。それぞれの速さで、少しずつずれながら、今日という一日を作っている。
私は、赤いランプを見つめた。
「やる」
声は震えていた。
それでも、最後まで消えなかった。
「じゃあ、ケーブル見てくる」
真琴が軍手をはめ直す。
「瞬は?」
「放送の監視。音が落ちたら、僕が切り替える」
「切り替えたら、灯の声も切れる?」
「切れないようにする」
「それ、約束?」
「作業上の判断だ」
「はいはい。そういうことにしとく」
二人が動き出す。私は台本を閉じ、未送信原稿の封筒を机の脇へ置いた。
その表面には、十年前の赤い文字が残っている。
未送信。
けれど今は、その文字が終わりを示しているようには見えなかった。送れなかったものの隣に、これから送るものを置くための、古い目印に見えた。
私はマイクの前から立ち上がった。
「真琴」
「なに」
「放送が終わったら、話す」
「何を」
喉の手前で、一拍だけ生まれた。
私はそれを飲み込まなかった。
「終わったあとも、隣にいてほしいっていう話」
真琴の手が止まる。
瞬が、聞こえないふりをしてケーブルをまとめ始めた。
真琴はしばらく私を見ていたが、やがて視線を逸らし、ガムテープを一枚引きちぎった。
「……放送、止めなかったらね」
「うん」
「止めないけど」
「うん」
ガムテープの匂いが、また部屋に広がる。
私はその匂いの中で、まだ鳴っているメーターを見た。針は小さく揺れながら、何度も中央へ戻ってくる。
完全に静かな音など、どこにもない。
だからこそ、私は次の放送を待つのではなく、今度は自分でスイッチに手を伸ばした。
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