第9話 台所で待つ茶

重い雲が山あいの谷間を閉ざし、湿った空気が家の中を這うように満たしていた。私は椅子の座面を硬く踏みしめ、押し入れの奥へと視線を向けたまま、菊池ハルが訪ねてくるのを待っていた。いや、待つというよりも、彼女がやってくるのを、この家の闇が予告していたのだ。
玄関で戸が鳴る音がした。透が戸を開けるより早く、ハルは家の中の湿り気を鼻で嗅ぎ分けるように顔をしかめた。彼女の手には、庭先で採れたばかりだという茗荷と、熱い茶の入った小さな包みが握られている。
彼女は中へは入らず、玄関の三和土に立ったまま、私をじっと見つめた。彼女の眼光は、どんな照明よりも容赦なく、私の顔の輪郭や、この家の奥に潜む「何か」の形を測り取っていく。
「……まだ、そんなとこで座っているのか」
彼女は茶碗を一つだけ、三和土に置いた。透が父の家計帳の謎や、押し入れに増え続ける跡について尋ねようと口を開いたとき、ハルは茶を飲むふりをして意図的に長い間を置いた。そして、まるで言葉の贅肉を削ぎ落とすように、静かに語り始めた。
「昔のこの家ではね、夜になって灯りを消してから、誰かが動く音がしていたんだよ。誰かを匿っているのか、誰かに食わせているのか。あるいは、外から見えぬようにするために、影と影を入れ替えているのか。そんなことは、もう誰にも分からなくなってしまっている。この家には、混ざり合ってしまった死者と生者の境目がこびりついているんだ」
彼女は湯気に包まれた茶碗を見つめたまま、吐き捨てるように続けた。
「見て見ぬふりをした連中が、あとになってから一番大きな声を出すもんだよ。あんたの親父は、その一番大きな声が外から聞こえないように、家という器を縫い閉じていた。……愚かだとは思うがね。誰かのために自分の人生を土壁の隙間に埋めるなんて、正気の沙汰じゃない」
透は、修造の沈黙が単なる頑固さや、一族の体裁を守るための封建的な意地ではなかったのかもしれないと考えた。父が守っていたのは、家そのものではなく、その中に閉じ込められた「誰かの祈り」だったのではないか。そう考えた瞬間、胸の奥が氷水に浸かったように冷え切るのを感じた。もし、父が守っていたものが、私の理性を超えた存在であったなら。私がこの家の記録を完遂したとき、自分もまたその「壁の隙間」の一部になるのではないかという恐怖が、背筋を駆け上がる。

ハルは立ち上がり、帰る間際に押し入れを一瞥することさえなく、私にだけ聞こえる声で告げた。
「壊すなら、座る場所を先に見な。あの壁の奥には、お父様が誰を正座させていたか、その跡が残っているはずだ。死者の礼というものはね、形が変わっても消えやしない。あんたがその椅子に座り続ければ、いずれあんたも……」
彼女は最後まで言わず、足早に家を出ていった。押し入れの襖が、わずかにガタついた。誰かが私の返事を待っているかのように。ハルが去った後も、その一言だけが、茶の間に妙に長く残った。
透は、ハルの言った言葉を反芻した。壊すなら、座る場所を見ろ。それは、押し入れの向こうにあるという土壁の空間を指しているのか。彼は椅子から立ち上がり、押し入れの桟に手をかけた。襖を完全に外す。その背後には、ただの板壁があるはずだった。しかし、指先が触れた木材は、湿気で腐りかけており、わずかな力で崩れ落ちた。その向こう側には、黒々とした闇が広がっている。
そこには、人が一人、うずくまって座れるほどの小さな空間があった。壁には、修造の手で掘られたような無数の傷跡と、長い年月をかけて畳が陥没したような、深い正座の跡。そこには誰もいない。しかし、微かな線香と、死者の呼吸のような冷たい風が、彼の頬を撫でた。
「……これが、榊原家の歴史か」
透は膝を突き、踵を畳に預けた。正座をする。その姿勢を取った瞬間、家中の空気がピタリと止まった。押し入れの襖は外れ、茶の間から美緒が自分を呼ぶ声が聞こえる。しかし、その声はもう、どこか遠い海の下から届くかのように遠い。彼はこの家の中で、父が最期まで守り通した沈黙の続きを引き受けたのだ。
彼の足元で、新しい正座の跡が刻まれ始める。一つ、また一つ。彼がこの姿勢を崩さぬ限り、この家は永遠に、この「礼」を繰り返し続けるのだ。透は静かに目を閉じた。美緒が自分を呼びながら茶の間へ近づいてくる。だが、彼はもう、外の世界へは戻れない。彼は榊原家の記憶として、この家の奥深くに沈んでいく。家鳴りが、まるで彼を歓迎するかのように、激しく屋根裏を揺らし続けた。
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