第10話 畳の上の夜明け

押し入れの板を剥がした先、そこには異様な空間があった。漆喰が剥がれ落ち、露わになった土壁は、まるで永い眠りについていた老人の皮膚のように乾燥し、ざらついている。美緒の悲鳴のような呼ぶ声が、廊下を伝わってこの小さな穴の入り口まで届く。しかし、私の耳にはその音が、水底で響く遠雷のようにしか聞こえなかった。
私の目の前には、修造が遺した家計帳の記録と、菊池ハルの言葉が合致する景色があった。沈み込んだ畳には、何十年という歳月をかけて刻まれたであろう膝の跡が、まるで地層のように重なっている。そこは収納場所ではない。誰かが家という牢獄の中で、死ぬまで座り続けることを強制されていたための、聖域であり墓所だった。
「……お兄ちゃん!」
美緒が私の肩を掴み、力任せに引き戻そうとした。しかし、彼女の手が触れた途端、私は自分がまるで重たい岩の一部になったかのように動けないことを悟った。私の膝は、その沈み込んだ畳の窪みに、吸い寄せられるように収まっていく。踵が畳の目に食い込み、身体の重心が一点に定まる。その瞬間、家中のあらゆる軋みが止まり、世界が息を止めた。
「そこから離れて! 兄ちゃん、お願いだから戻ってきて!」
美緒の叫びが、視界を歪ませる。彼女が差し出した手の先には、私を元の生活へ引き戻そうとする現実の冷たさがある。だが、私の指先には、あの煤けた数珠袋の冷えた土の匂いが染みついている。修造がここに食事を運び、誰かを閉じ込め、その死を隠蔽し、祈るふりをして供養を先送りにし続けた記憶。その全てが、私の背骨を伝って脳髄へと流れ込んでくる。
私はゆっくりと、美緒の方を向いた。自分の首が、まるで錆びついた蝶番のようにきしむ音がした。私の顔を見つめた美緒が、言葉を失って後ずさりする。彼女が見ているのは、もはや兄の顔ではない。家という巨大な記憶の装置の一部と化した、無表情な残滓のようなものだったのかもしれない。
「帰れよ、美緒。お前は、ここにはいない方がいい」
私の声は、ひどく掠れていて、まるで何十年も声を出していなかった老人のように響いた。美緒は首を振り、台所から持ってきた熱い茶の入った急須を床に落とした。陶器が割れる乾いた音が家中に響き渡る。だが、その音さえも、この静寂を乱すことはできなかった。
美緒は私を諦めきれないのか、それとも恐怖に抗いきれないのか、その場に崩れ落ちるように座り込んだ。彼女の瞳から溢れた涙が、畳の上で小さな水溜まりを作る。私はその光景を、他人事のように見ていた。父が何を守ろうとしていたのか。修造の沈黙の正体は、誰かを守るという大義名分を隠れ蓑にした、単なる自己満足の独裁だったのではないか。家を存続させるため、誰かの命をこの壁の中に塗り込み、その上に生活を築く。その罪の重さを、私は今、自分の膝を通して味わっている。
翌朝、山あいの集落には、突き刺すような蝉の声が響き始めていた。窓から差し込む陽光が、茶の間に散らばる陶器の破片を照らし出している。私は一人、茶の間に座っていた。押し入れの板は元に戻してある。美緒の姿はない。彼女がいつ、どのようにしてこの家を出て行ったのか、私には分からない。ただ、玄関の戸にかけられた南京錠が、外側から硬く閉じられていることだけが、彼女の明確な決別を告げていた。
私はゆっくりと立ち上がろうとした。しかし、足元を見た瞬間、思考が凍りついた。
私の足元、畳の縁のすぐ隣に、新しい正座の跡が残っている。膝と、踵の窪み。それは、昨日まで押し入れの中にしか存在しなかったはずの、死者の証だった。私は膝を抱え、自分の身体を確認する。間違いなく、私の脚だ。だが、私の意識が戻っていない間、あるいは私がこの家で眠りについていた間、何かがここで、私と同じ姿勢で、同じように座っていたのだ。
窓の外では、菊池ハルが庭の草をむしっている。彼女は私の家の方向に視線を向けたまま、一度も瞬きをしない。彼女にとって、榊原家で何が起ころうと、それは繰り返される歴史の定型に過ぎないのだろう。
私は手帳を取り出し、震える手で日付を書き込んだ。しかし、ボールペンの先が畳を汚すばかりで、文字は書けない。私はもう、この家から逃げられない。私が父から引き継いだのは、土地や建物といった資産ではない。供養という名の、終わりのない正座という呪いそのものだったのだ。
私は再び、畳の上に膝をついた。踵を預け、背筋を伸ばす。押し入れの奥から、微かな線香の匂いが漂ってくる。それは、私を歓迎する匂いなのか、それとも私をここへ縛り付けるための檻の鍵の音なのか。
家が、大きく軋んだ。まるで巨大な獣が寝返りを打つような音。私は目を閉じ、父が遺したあの家計帳の空白を思い浮かべる。あの空白は、次の私が座るための場所だったのだ。私はこの家の記憶を、血のつながりと共に、ここに正座して終わらせる。山あいの朝は静かで、どこまでも冷え切っていた。私の足元には、また一つ、新しい痕跡が刻まれている。数えることさえ、もうやめた。ただ、畳の湿り気だけが、私の身体を冷たく優しく包み込んでいた。
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