8話 数珠袋の裏

北側の納戸の空気は、他の部屋よりも明らかに重く、鼻を突くほどの埃と古い木の匂いが充満していた。美緒が溜まった段ボールを整理しようと、箪笥の裏板に手をかけたときのことだった。板がわずかに浮き、その隙間から、古びた布袋が滑り落ちてきた。

煤を吸ったように黒ずんだ、数珠袋だった。かつては鮮やかな色をしていたであろう紐も、今は指で触れれば崩れそうなほど脆くなっている。しかし、口の縫い目だけが、異様に真新しかった。他の箇所とは明らかに異なる、力強い糸で、幾重にも締め直されている。

「お兄ちゃん、これ……」

美緒がその袋を差し出した。中身は空だった。しかし、私の指で袋を撫でると、そこに長い間、硬質な何かが収まっていたかのような、くっきりとした圧迫痕が残っている。数珠か、あるいはもっと別の、角を持つ何かか。

私がその袋を受け取った瞬間、布の内側から、言葉にできないほど乾いた匂いが立ち昇った。線香の香りではない。山中の深い土を掘り返し、太陽の光を一度も浴びせぬまま放置したような、冷え切った土の匂いだ。その匂いを嗅いだだけで、私の奥歯がガチリと鳴った。喉の奥に、得体の知れない冷たさが流れ込んでくる。

「……父さんの仕業か」

私は袋の下を確認した。箪笥の板の裏には、薄い紙片がまるで獲物に食らいつくように貼り付いていた。修造の走り書きだ。文字は、父が普段家計帳につけていた几帳面な筆圧そのものだったが、最後の一行だけは、誰かに追われるように、ひどく掠れている。

『向こうへ運べ。飯は切らすな』

誰に向けたものかは書かれていない。しかし、紙の折り目には、何度も指でこすられ、読み返された痕跡があった。父はこれを、誰に見せるためではなく、自分自身に課した罰として、この場所に隠し続けていたのだ。

美緒はその紙を凝視したまま、硬直していた。彼女の瞳には、父に対する忌避感と、兄である私をこの場所から引き剥がそうとする焦燥が、複雑に混ざり合って浮かんでいる。彼女は何も言わず、紙を私に押し付けると、台所へと引き返した。

「……もう、終わりにしなきゃダメだよ、お兄ちゃん」

背中越しに響いた彼女の声は、かつてないほど震えていた。まもなく台所から、やかんの湯気が立つ高い音が響き始める。怒っているときほど、美緒の手つきは丁寧になる。やかんに水を注ぎ、コンロの火を整え、お茶の準備を整える。その一つひとつの動作が、この家の不穏さを否定しようとする、彼女なりの切実な抵抗に思えた。

私は手の中の袋を握りしめ、言葉を探した。しかし、何も出てこない。修造の命令じみた筆跡と、美緒の黙った背中。二つの光景が、同じ榊原家の重みを別の形で示していることに気づく。私たちは父の残した沈黙という名の檻の中で、それぞれが別々の出口を探していたのだ。

その時だった。家の奥のほう、押し入れがあるはずの方向から、畳を叩くような鈍い音がした。それは、重たい体躯が膝を突き、踵を畳に預けるときに生じる、あの独特な摩擦音だった。

「……美緒、聞こえたか?」

私は振り向いた。しかし、廊下には埃が舞うだけの空虚な空間があるばかりだ。家鳴りが一瞬だけ強まり、古びた梁がミシミシと悲鳴を上げる。まるで、今この瞬間に何かが居座り、次の瞬間には存在を消したかのような、不可解な沈黙。

美緒は台所の入り口に立ち、やかんの取っ手を強く握りしめていた。彼女は私と、押し入れの方角を交互に見つめ、唇を噛みしめる。彼女の白くなった指先を見て、私は何も言えなかった。この音が、父の死後も家を守り続けていた『礼』の正体だということを、私たちは二人とも、直感的に理解し始めていたからだ。

「……私は、ここを片づける。兄ちゃんは、好きにすればいいよ」

美緒はそう言い残し、また作業に戻った。その背中は、私に何を言わせたいのか、何を見せたくないのかを雄弁に物語っている。私はただ、握りしめた数珠袋の、あの冷えた土の匂いを嗅ぎながら、押し入れの襖を見つめ続けた。

何かが、そこにいる。 記録を重ねれば重ねるほど、その存在は私の理性を浸食し、家そのものへと同化させていく。私は父の筆跡が残る紙片を、震える指で胸ポケットに仕舞い込んだ。この家を出るまでの時間が、これほどまでに短く、そして耐え難いものだとは、戻る前には思いもしなかった。

振り向いたときには、もう何も動いていなかった。だが、私の足元に広がる影は、押し入れから漏れ出る闇の形を、以前よりも少しだけ色濃く写し出しているように思えた。私はその影を避けるようにして、茶の間に置かれた父の数珠を掴み、もう一度だけ、あの暗闇の中へと意識を沈めていった。

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