7話 白紙の朝

茶の間にぶら下がる裸電球は、梅雨の夜明けを待ちきれず、薄く、しかし粘り気のある光を部屋に投げていた。畳の織り目には昨夜の湿気が深く沈み、空気に触れるたびに、家そのものが溜息をついているような湿った匂いを運んでくる。

私は押し入れの前に置いた椅子の上で、幾度目かの夜を明かしていた。眼前の押し入れ、その下段の襖。眠る前、私は確かに指先でその縁をなぞり、桟の端まで押し込んだはずだった。だが、今、私の視界の先にある襖は、昨夜よりもわずかに、確かに内側へと押されている。誰かが指先で、外からそっと開こうとしたかのような、不自然な隙間。

私はまず腕時計に視線を落とし、時刻を記録した。次に、そのわずかな隙間。そして大きく息を吸い込み、押し入れの深淵から漏れ出る線香の匂いを鼻腔の奥に焼き付ける。仏間で焚いた覚えのない、土と線香が混じり合った古びた香り。それが、この家の日常として定着しつつあった。

仏間から戻ってきた美緒は、私の顔を一瞥して何も言わず、台所の窓を半分まで開け放った。外の風は冷え込んでいたが、家の中の重苦しい淀みは、風程度では少しも減らない。むしろ、家そのものが外からの清浄な空気を拒絶し、内部の湿気を守り抜こうとしているようにも感じられた。

私は父・修造の家計帳を机に広げた。白紙のページは、残すところあと僅かだ。私は昨夜の時刻の横に、震える手で短く書き足す。

『押し入れの跡、五つ。土壁の奥の気配、あり』

その文字の脇に、父が最期まで書き残さなかった白紙のページがある。なぜ父はここを避けたのか。ページをめくるだけで、指先に紙の冷たさが伝わる。父の指先がここを避けていたことが、紙の白さだけではっきりと分かった。父は、この白さに何を隠そうとしたのか。罪か、それとも守りたかった「誰か」の静寂か。

美緒が箪笥を一つずつ開け、衣類を仕分けし始める音が響く。

「……今日、業者に電話するから。全部、片づけるよ」

彼女の声は硬く、茶の間の静寂に乾いた音を立てて落ちた。私は返事をしない。外へ出すつもりの番号を、美緒の指が迷いなく押していく。その音が、家の中に残る死者の気配を少しずつ追い払っていくような、そんな錯覚を抱く。

電話を終えた美緒は、ふと仏間の位牌の前で足を止めた。彼女の指先がわずかに震え、位牌の縁をかすめる。妙に新しい漆の艶。朝の光がその曲面に当たり、小さく弾かれて部屋に散った。それは、この家の中で唯一、時が止まらずに磨かれ続けてきた「生きた証」のようにも見えた。美緒はそれ以上何も言わず、位牌に背を向けて台所へと去った。その背中からは、兄に対する遠慮と、家そのものに対する抑えきれない嫌悪が、痛いほど伝わってきた。

私はノートを閉じ、押し入れの襖をじっと見つめた。五つ目の跡。この家で生き延びた、あるいは死んだ何かが、毎晩の礼のようにそこに正座している。私は長男として、この家をどうにかしなければならない。しかし、あの跡を見つめるたび、私の合理性は音を立てて崩れていく。この跡は数えるべき事実なのか。それとも、自分をこの家の迷宮へと誘い込むための餌なのか。私は誰かに、何かを訊きたかった。だが、返事をしてくれる人間は、もうこの山あいには誰もいない。

北側の納戸を片づける作業は、まるで家という器の内部を解剖するようだった。美緒が箪笥の裏板を外したとき、そこから黒ずんだ布袋が転がり落ちた。煤を吸い込んだように汚れた数珠袋だった。しかし、口の縫い目だけは不自然なほど真新しく、丁寧に締め直されている。中身はない。空っぽだ。しかし、指で布地を撫でると、そこに長い間何かを入れていたかのような、くっきりとした形が残っていた。

私がその袋を受け取ると、布の内側から乾いた土の匂いが立ち昇った。線香とも違う、地下の深い場所で掘り返されたばかりの、冷え切った土の匂いだ。その袋の下からは、箪笥の板に貼り付くようにして、一枚の紙片が落ちた。父・修造の走り書きだ。筆圧は几帳面だが、途中で一度だけ、迷うように掠れている。

『向こうへ運べ。飯は切らすな』

誰に向けたものかは書かれていない。だが、紙の折り目には何度も開閉された痕があり、父が毎晩のようにこれを見返し、自分に言い聞かせていたことが分かった。美緒がその紙を覗き込み、表情を凍らせる。彼女の怒りは、もはや声にもならないようだった。まもなく台所から、やかんに湯が沸く高い音が響き始める。怒っているときほど、彼女の動作は丁寧になる。その癖が、蓋を閉める音にまで滲んでいた。

「……父さんは、この家を墓場にするつもりだったのか」

私は呟いたが、その声は家の隙間に吸い込まれた。修造の命令じみた筆跡と、美緒の黙った背中。二つの対照的な家族の形が、この家の沈黙の中でぶつかり合っている。父は守ろうとしたのだ。匿った存在を、あるいは閉じ込めた存在を。そして美緒は、その罪の重みを全て捨て去り、私たちを救おうとしている。

家のどこかで、畳を叩くような鈍い音がした。正座をする際に膝が沈み込む、あの独特の音だ。私は振り向いたが、そこには埃が舞うだけの空虚な空間があるばかり。私の心臓が、恐怖と、何かを突き止めなければならないという奇妙な責任感で、早鐘を打った。

この家は、最初から私を待っていたのだ。家計帳、位牌、そしてこの数珠袋。父が隠し続けたピースが、少しずつ揃っていく。すべてを知ったとき、私は父と同じ沈黙を継承することになるのか、それとも美緒のように、すべてを焼き払って逃げ出せるのか。指先から伝わる土の匂いが、じわじわと私の体温を奪っていく。私は震える手でその数珠袋を握り、納戸の奥を見つめた。そこには、まだ見ぬ土壁の隙間がある。佐伯が言った「順序を間違えるな」という警告が、耳の奥で警鐘のように鳴り続けた。

午後、空が急に暗くなり、山あいに重い雲が垂れ込めた。菊池ハルが、家の玄関先で私の名を呼ぶ。その声は、この家の湿気よりもさらに低く、硬い。

私が戸を開けるよりも早く、彼女は家の中の気配を嗅ぎ分けるように、不機嫌そうに鼻を鳴らした。手には、庭で採れた茗荷と、湯気の立つ古い茶碗の入った包みがある。彼女は私に茶碗を渡すと、私の目ではなく、押し入れの襖の開き方を凝視した。

「まだ、そんなところで座っているのか」

それだけを言って、彼女は玄関の三和土に座り込んだ。茶を飲むふりをして、彼女は間を置いた。

「昔のこの家ではね、夜に灯りを消してから動く者がいたんだ。誰かを匿うためか、誰かに食わせるためか。そんなことはどうでもいい。ただ、家の境界を曖昧にしてはいけなかった。あんたの親父は、その境界を自分で跨いでしまったんだよ」

ハルは茶碗を置くと、湯気の立つ面を眺めて溜息をついた。

「見て見ぬふりをした連中が、あとで一番大きな声を出す。あんたの妹もそうだ。この家を壊せばすべてが終わると思っている。……甘いね」

透は問い返そうとしたが、言葉が出ない。修造の沈黙が、単なる頑固さや保身ではなく、何かを維持し続けるための過酷な儀式だったというのか。その考えに近づくほど、胸の奥から湧き上がる冷気が私を支配する。家を売るか、守るか。そんな単純な二択で解決できる問題ではない。この家は、父と誰かとの、あるいは家そのものとの契約によって成り立っているのだ。

ハルは帰り際、押し入れを見ずに呟いた。

「壊すなら、座る場所を先に見な。あの壁の奥には、お父様が誰を正座させていたか、その跡が残っているはずだ。死者の礼というものはね、形が変わっても消えやしない。あんたがその椅子に座り続ければ、いずれあんたも……」

彼女は最後まで言わず、足早に家を出ていった。押し入れの襖が、わずかにガタついた。誰かが私の返事を待っているかのように。透は、ハルの言った言葉を反芻する。座る場所を見ろ。それは、押し入れの向こうにあるという土壁の空間を指しているのか。

私は椅子から立ち上がり、押し入れの桟に手をかけた。襖を完全に外す。その背後には、ただの板壁があるはずだった。しかし、私の指先が触れた木材は、湿気で腐りかけており、わずかな力で崩れ落ちた。その向こう側には、黒々とした闇が広がっている。

そこには、人が一人、うずくまって座れるほどの小さな空間があった。壁には、修造の手で掘られたような無数の傷跡と、長い年月をかけて畳が陥没したような、深い正座の跡。そこには誰もいない。しかし、微かな線香と、死者の呼吸のような冷たい風が、私の頬を撫でた。

私はその空間に、ゆっくりと座り込んだ。畳が私の体重を受け止め、沈み込む。その瞬間、家計帳に記されていた過去が、走馬灯のように私の脳裏を駆け巡った。父が運んだ食事。消された名前。新しい位牌の重み。これらすべてが、誰かを守り、そして誰かを閉じ込めるための「供物」だったのだ。

「……これが、榊原家の歴史か」

私は膝を突き、踵を畳に預けた。正座をする。その姿勢を取った瞬間、家中の空気がピタリと止まった。押し入れの襖は外れ、茶の間から美緒が私を探す声が聞こえる。しかし、私の耳には、もう何も届かない。私はこの家の中で、父が最期まで守り通した沈黙の続きを引き受けたのだ。私の足元で、新しい正座の跡が刻まれ始める。一つ、また一つ。私がこの椅子から立ち上がらぬ限り、この家は永遠に、この「礼」を繰り返し続けるのだ。

私は静かに目を閉じた。美緒が私を呼びながら茶の間へ近づいてくる。だが、私はもう、外の世界へは戻れない。私は榊原家の記憶として、この家の奥深くに沈んでいく。家鳴りが、私を歓迎するように、激しく屋根裏を揺らした。</blockquote>

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