第6話 神社の灯の下で

拝殿の奥から漂ってくるのは、古びた畳の匂いに似た、土と線香を練り合わせたような湿った空気だった。山あいの神社というものは、どうしてこれほどまでに記憶の層が厚いのだろうか。透は石段を登りきり、息を整えながら境内に足を踏み入れた。夕立の名残が、まだ青苔の合間に水たまりとなって光っている。
神職の佐伯は、拝殿の脇で掃き掃除の手を止め、静かにこちらを向いた。彼が透に視線を投げるとき、いつも一瞬だけ、空気の温度が変わる。相手を観察するのではない。相手の輪郭に滲む「何か」の重みを量っているような、そんな眼差しだ。
「榊原さん。……昨夜も、家は静かでしたか?」
佐伯は問いかけをそのまま言葉にしなかった。社務所の入り口に招き入れられた透の前には、古びた社務帳と、この地を記した地図が広げられている。佐伯の所作には無駄がない。茶を淹れる際の湯の音、湯呑みを置く場所、そのすべてが、この神社に積もった時間を乱さないための儀式のようだった。
「押し入れの下段、畳に正座の跡が増えています。今朝で五つ。……父が、何をしていたのかを知りたい。いえ、知らなければならないんです」
透は感情を抑え、事実だけを羅列した。しかし、佐伯は途中で言葉を挟まない。ただ、地図の余白に指先を這わせ、榊原家の増改築の歴史を辿っている。
「『弔い切れぬ礼』……。お父様が守ろうとしたのは、器なのか、それとも中の記憶なのか。榊原家には、古くからその手の記録が断片的に残っています。榊原家はね、透さん。かつて、夜の境界を越えて迷い込んだ『何か』を、家という器の奥に閉じ込める役目を担っていた。……いえ、これは伝承という名の、もっと泥臭い現実の負債です」
佐伯の声は静かだが、その響きには否定できない重みが宿っていた。怪談という言葉で処理しようとする透の合理性を、佐伯は穏やかな語り口で、しかし容赦なく削り取っていく。

「透さん。あなたの父上が残した帳面は、家計の管理ではない。あそこには、誰を、いつから、どの土壁の隙間に匿い、死の淵までどう支えたかという、おぞましい献身の記録がある。あの方の沈黙は、保身ではありませんでした。家を壊せば外に漏れ出す『何か』を、自分一人で飲み込み続けようとした。……彼は、父親としてあなたに、その重みを渡さないよう努めていたのですよ」
透はその回りくどい言い方に、頭が割れるような苛立ちを覚えた。しかし、それ以上に、断定されないことで自らの足元が揺らぐ感覚に眩暈を覚える。逃げ道がない。父が、ただの頑固な隠蔽者ではなかったとすれば、自分がいま記録している「跡」は、呪いではなく、父が守り切ろうとした「誰かの形見」だというのか。
佐伯は地図を折り畳むと、その端に小さな印をつけた。
「北側の納戸、その奥に塞がれたままの土壁があるはずです。増改築で迷路のように隠された場所。そこへ手を付ける順番を間違えてはいけない。まずは納戸の奥を確認しなさい。お父様が、最期まで守ろうとした『それ』が何であるか。理解する覚悟ができるまでは、位牌には触れないほうがいい」
佐伯が机の端に指先を揃えて置く。その静けさは、どんな脅しよりも透の理性を追い詰めた。
「帰り際、境内で一度だけ振り返ったとき、拝殿の陰に置かれた古い木札と、雨の匂いを含んだ苔の緑が、どこか榊原家の仏間と重なって見えた」
透は、家と神社が同じ種類の静けさ、同じ種類の「残された記憶」を抱えていることに気づいた。父が守り、今、自分に引き継がれようとしているこの重み。帰り道の坂道を下りながら、透は自分の足元を見つめた。湿った風が、父の沈黙と同じように、耳元で何かを囁き続けている。逃げたい。しかし、この記録を最後まで取り終えなければ、父が何を抱えて死んだのかを知ることはできない。彼は、この家の記憶の一部となりつつある自分の指先を、痛いほど握りしめて歩いた。
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