第4話 記録を始める夜

朝の光は、梅雨明け前の湿り気を孕み、茶の間の畳を鈍く光らせていた。私は押し入れの前に膝をつき、下段の畳を見下ろす。昨日あった場所には、確かに一つの沈みが残っていた。泥汚れでも、水濡れでもない。ただ、誰かがそこに正座し、体重を預け続けた証拠だけが、畳の織り目という織り目に深く沈着している。
私はスマートフォンのカメラを起動し、その小さな窪みにレンズを向けた。角度を変え、明度を調整し、何枚もシャッターを切る。撮影のたびに、押し入れから漂う古びた畳の匂いが鼻をくすぐり、私の指先には妙な冷たさが伝わってくる。茶の間の裸電球は、梅雨明け前の蒸し暑い空気に滲むように白く曇り、手元のノートに記した時刻の数字さえもが、どこか湿ってぼやけて見える。
「記録すべき事実だ。これは、湿気のせいではない」
私は震える声を飲み込み、父の家計帳を写したノートを開いた。昨夜の室温、湿度、押し入れの襖の開き具合。項目を並べ、仕事で使っていた帳票を埋めるような手つきで数値を書き込む。数字さえ並べれば、この不条理な事態も管理可能な事象に収まるのではないかという、身勝手な期待。しかし、ペンを走らせるたびに、胸の奥が薄く削り取られていくような奇妙な焦燥感がこびりつく。
正座跡は、まだ一つきりだ。しかし、押し入れの前に立つたびに、背後に風のない風が吹き抜けていく感覚がある。見えない誰かが、私の記録作業をじっと覗き込んでいるのではないか。透かされているのではないか。私は何度も首を振った。父が残した数珠が、茶の間の隅で不吉な存在感を放っている。
夕方、美緒が帰ってきた。彼女は玄関から入るなり、私のノートを横目に、鼻先で冷たく空気を嗅いだ。
「そんなもの書いて、何になるの? お兄ちゃん、最近少し変だよ」
彼女の指摘は鋭く、そして正しい。彼女はノートの内容を覗き込んだが、そこに書かれた時刻の羅列に眉を寄せると、すぐさま別の話題へと切り替えた。
「仏間の障子、開けっ放しにしないでって言ったでしょ。埃が位牌に積もる。それと……茶碗、食べた人間が自分で洗うのが筋だよ」
ぶっきらぼうな言い方だった。しかし、彼女が指さした台所の流しには、先ほどまで湯気を上げていた茶碗が、丁寧に並べて置かれていた。美緒の不器用な情愛が、そこには確かに残されている。私は礼も言わずに茶を啜った。喉の奥に残る渋みだけが、自分がまだ、この家で何も片づけられていないという現実を突きつけてくる。
その夜、二十三時四十五分。押し入れを見張るために椅子に座っていた私は、不意に息を止めた。襖の桟が、本当に微かな、まるで死にゆく者の呼吸のような震えを見せたのだ。
見逃すには小さすぎ、だが無視するにはあまりに確かな揺れ。私は震える手でメモに書き記した。『二十三時四十五分、襖、微動』。書き終えた瞬間、背筋が凍りついた。
音がしたのは、襖の外ではない。内側からだ。
誰かが、あの暗闇の中から、襖に触れていた。私は椅子から立ち上がろうとして、足がすくむのを感じた。この家は、父が遺した記憶だけでなく、何かしら「生きた死の気配」を内に抱えている。その事実に気づいたとき、私は自分がすでに、この家の迷宮へと深く引きずり込まれていることを理解した。
---
翌日、私は父の遺品を改めて机に広げた。煤けた数珠、使い込まれた家計帳、消し跡の残る封筒。どれも父の生活の癖が染みついているのに、並べるほどに整理整頓されているのが、かえって不気味さを増幅させる。父は、死の直前までこの家で何と戦っていたのか。

ページを一枚ずつめくっていく。米と薪と灯油の欄。しかし、ある月だけ、記録の数値がどうしても合わない。家計帳の余白には、普段の収支とは全く別の筆跡で、米、布団、味噌といった生活必需品の「贈与」が記されていた。
「誰かに、運んでいたのか?」
指先でその行をなぞると、ページの端に微かな凹みを見つけた。宛名を削られた手紙の束。便箋には、夜更けに食事を運んだことへの感謝や、土間の鍵の置き場所、あるいは「決して音を立てないように」といった不気味な指示書きが断片的に残っている。便箋の紙質は黄ばんでいるのに、封の糊だけは近年貼り直したように艶が残っていた。父が、死ぬ間際までこの封を管理し続けていたという証拠だ。
父は、何かを隠していたのではない。この家の中で、ある「存在」を飼い殺していたのだ。そう考えた瞬間、私は自分の手が激しく震えていることに気づいた。書いた相手は見えず、受け取る前に紙ごと消されている。沈黙を守り続けた父の背中を思い出し、私は恐怖以上に、猛烈な憤りを感じた。
「父さん、あんたは何を守り、何を見捨てて死んだんだ」
問いかけても返事はない。夜、美緒が仏間の掃除を引き受け、位牌に触れたとき、彼女の指先がピタリと止まったのを見逃さなかった。新しい手入れの跡。彼女もまた、この家の異常性に気づいているはずだ。しかし、彼女は言葉を飲み込み、無言で台所へ行って湯を沸かした。湯気の向こう側で、彼女の肩が小さく震えているのが見えた。私たちは二人とも、この家の中に充満する「何者か」の気配を、認めざるを得ない段階に追い詰められているのだ。
---
透は町の小さな神社を訪ね、佐伯に会う。石段は苔で滑りやすく、山の湿気が拝殿の前に重く澱んでいる。神職の佐伯は、境内を掃いていた手を止め、私をじっと見つめた。話す前の、あの独特な「間」が、今日の私にはやけに長く感じられた。
「榊原家、ですか。あそこには昔から『中で死者の礼が残る』と言われてきました。……あれは、いわゆる怪談とは違います。弔い切れないまま、そこに留まってしまったものの記録です」
佐伯の声は静かだが、その言葉は重い石のように私の胸に落ちた。怪談という言葉で処理しようとする私の合理性を、彼は淡々と否定する。
「お父様は、家を守ろうとしました。しかし、守るべきは器なのか、それとも中の記憶なのか。その順序を間違えれば、家そのものが死者の墓に変わってしまう」
彼は地図の写しを私に手渡した。北側の納戸、その奥に塞がれたままの土壁。
「あそこを壊すなら、覚悟がいります。お父様が隠し続けたのは、ただの罪ではない。この地に根付いた、消えない記憶そのものです」
帰り際、私は境内で一度だけ振り返った。拝殿の陰に置かれた木札、雨の匂いを含んだ苔の緑。神聖な場所であるはずの神社が、今の私には榊原家の仏間と同じほど、濃密な死の気配を湛えているように見えた。
「死者とともに生きる、ということか」
私は神社の石段を降りながら、父の背中を想った。父は、この重みをたった一人で背負い、私に何も語らず死んだ。その不器用な沈黙は、慈愛だったのか、それとも死の呪縛だったのか。答えはまだ、家の中にある。私はもう一度、あのおぞましくも懐かしい我が家へと戻るために、重い足取りで坂道を登り始めた。湿った風が、私の背後から囁くように通り抜けていく。これから起こることすべてを、この家は覚えているのだと告げるように。
← 横にスクロールして読み進められます
