3話 美緒の目、ハルの舌打ち

午後、一台の軽自動車が砂利を噛んで榊原家の庭に滑り込んできた。運転席から降りた妹の美緒は、玄関先で一度だけこの古ぼけた家を見上げ、すぐに目を伏せた。彼女の表情には、懐かしさよりも先に、抗いがたい拒絶のような色が浮かんでいる。

土間に足を踏み入れると同時に、彼女は眉間に皺を寄せ、大きく息を吸い込んだ。鼻先で空気を確かめるようなその仕草だけで、私には彼女がこの家をどう捉えているか分かった。梅雨明け前の湿った空気、澱んだ古い家の匂い。美緒にとってここは、安らげる場所ではなく、逃げ出すべき監獄に近い。彼女は遠慮なく台所の戸を半分ほど開け放ち、溜まった空気を追い出そうとした。

「……ずっと、こうなの?」

美緒がボソリと呟いた。私の返事を待たずに、彼女は足早に仏間へと向かった。

仏間の戸が開け放たれる。差し込んだ午後の光が、部屋の隅々を照らし出す。美緒はその場で立ち止まり、棚の上や位牌の周り、線香立ての縁を鋭い視線でなぞった。埃ひとつ落ちていない。父の生前の性格がそのまま、死後もこの空間を支配しているかのような、妙に整った静けさだった。彼女は何も言わず、開きっぱなしの家計帳を指先で少しだけ動かしてから、私の顔を真っ直ぐに見据えた。

「売ったほうがいいよ、お兄ちゃん。ここに住み続ける理由は、どこにもないでしょ」

言い切る声は短く、けれどその断定の裏には、隠しきれない心配が遅れてついてくる。彼女にとって、この家で私が見ている異変も、父が残した遺品も、すべては切り捨てるべき「負の遺産」に過ぎないのだ。

私は、その言葉をすぐには否定しなかった。否定する代わりに、机の上に広げたままの家計帳の端を、指先で小さく押さえる。

「……まだ、何も決めていないんだ」

私の曖昧な答えに、美緒の眉がわずかに動く。その「まだ」という言葉が、この家の沈黙と同じくらい、彼女の神経を逆撫ですることを私は知っていた。二人の間に、気まずい沈黙が落ちる。湿った風が、仏間の障子をカサリと揺らした。

その時だった。家の裏手の方から、乾いた戸を叩く音がした。

隣家の菊池ハルだった。彼女は以前と変わらず背が低く、だがその眼光だけは家の中の空気を切り裂くように鋭い。玄関先に立ったまま、私の手元にあるスマートフォンをちらりと見て、それからゆっくりと視線を仏間の方向へと滑らせた。まるで、この家の中に潜む異物を最初から見抜いているかのように。

「……ハルさん」

私が挨拶を返すよりも早く、彼女は仏間の奥を睨みつけたまま、短く舌打ちをした。

「長居するな。ここには、あんたが居着く場所はないよ」

それだけだった。理由も説明もない。だが、その一言は、家の中の湿気よりも遥かに重く、私の肩にのしかかった。美緒が驚いてハルの顔をじっと見たが、彼女は何も言い返せなかった。ハルは私たちが差し出した味噌の包みを黙って受け取ると、茶を飲むこともなく、背中を向けて帰っていった。

取り残された玄関には、重苦しい空気が停滞している。美緒が置いたお茶の碗を覗き込むと、それは空のまま、湯気さえも立っていなかった。ハルが去った後の静寂は、以前よりも深くなっている。まるで、この家が彼女の言葉を食らい、その重みをさらに増したかのように。

私はスマートフォンをポケットにしまい、美緒の背中を見つめた。彼女が何を言いたがっているのか、言わなかったのか。この家の埃のない仏間と、押し入れの下段にあるあの跡と、隣人の冷たい警告。すべてが線となって繋がろうとしていた。だが、私はまだ、その線が描く正体と向き合う覚悟ができていない。美緒の鋭い視線に晒されながら、私はただ、床に落ちた自分の影を見つめることしかできなかった。

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