第2話 開いた襖の向こう

胸の奥がふっと冷えた気がして、私は目を覚ました。茶の間の暗闇の中に、押し入れの襖がわずかに開いているのが見えた。わずか数センチの隙間。だが、その暗い切れ込みが、今の私には獣の眼差しのように感じられた。
閉めたはずだった。夜の帳を下ろす前、私は確かに指先でその縁をなぞり、桟の端まで押し込んだのだ。隙間から漏れ出てくるのは、ただの古い家の匂いではなかった。湿った畳の青臭さと、仏間で焚いた覚えのない、古びた線香と土の匂いが混じり合い、私の鼻腔を突く。それは、どこか身体の奥深くに沈んでいた記憶をかき混ぜるような、不快な刺激だった。
「……誰か」
声は出なかった。喉が乾いたように張り付き、ただ心臓の鼓動だけが、板張りの床を伝って響いている気がした。私は立ち上がり、裸足のまま押し入れへ近づいた。床板が軋む音が、普段よりも遥かに大きく聞こえる。指先が襖の縁に触れる。冷たい。昼間の湿気を含んだ木の冷たさが、驚くほど長く私の指に吸いついた。私は力を込め、ゆっくりと襖を閉め直した。木と木が擦れる音が、沈黙の中に重く落ちる。
翌朝、眠りの浅さを引きずったまま、私は再び押し入れの前に立った。昨夜の冷たい感触が、まだ指先に残っている気がしたからだ。襖を引く。下段の畳は、私の記憶よりもずっと湿っていた。そして、その畳の中央に、それはあった。
小さな正座跡だった。
膝を突き、踵を畳に預けた痕跡が、くっきりと残っている。泥汚れではない。水濡れでもない。ただ、長年同じ場所に座り続けたものが、畳の目に刻み込んだ影のような跡。あまりに丸く、あまりに整ったその形に、私は息を呑んだ。触れれば崩れそうなのに、そこに確かな質量を持って存在している。
私はポケットからスマートフォンを取り出し、震える指でその痕跡を撮影した。シャッター音が鳴るのが、この家では酷い悪戯のように感じられる。画面の中に映る畳の目は、肉眼で見るよりも鈍く、どこか湿った光沢を帯びていた。私はその跡の位置と、今の時刻を手帳に書き込んだ。几帳面な筆致で書かれた数字が、私の理性を取り戻そうとするかのように並ぶ。

「湿気だ。ただの湿気だ」
私は自分にそう言い聞かせた。だが、遺品の数珠を手に取った瞬間、背筋に冷たい雫が伝った。数珠玉の一つひとつが、まるで布越しに沈黙を強いているかのように冷え切っている。
昼になっても、家の中は底冷えしたままだ。私は仏間の位牌の前で、この家の不自然さを再確認していた。埃ひとつ落ちていないその空間は、父が死した後も、誰かが毎日手入れを続けてきたかのように整っている。誰が、何のために。私は家計帳を机に広げ、父が残した生活の記録と、自分が今見ている異常な現実を照らし合わせようと試みた。
だが、どれだけ数字を並べ替えても、押し入れの中にあるあの跡だけは計算に含まれない。
「私は長男として、この家をどうにかしなければならない。だが、この跡は一体何なのだ」
独りごちた私の声は、誰もいない茶の間に吸い込まれて消えた。家計帳の余白に、私は鉛筆で「正座跡、一、時刻不明」と書き足した。書いている間、押し入れの奥から、微かな線香の香りが流れてくるような気がした。父が、死ぬ間際までここで何をしていたのか。その真相に触れることが、自分の壊滅に繋がるのではないかという予感が、私の思考を鈍らせる。
窓の外では、梅雨明け前の湿った風が木々を揺らしている。私は手帳を閉じ、冷たくなった茶を一口飲んだ。押し入れの襖が、昨夜の閉め方よりも少しだけ、外側に膨らんでいるように見えた。気のせいだと言い切るには、畳に残るあの丸い跡が、あまりに鮮明に私の視界を捉え続けていた。この家は、父が遺した記憶を、少しずつ私に向かって吐き出そうとしているのではないか。そんな考えが頭をよぎるたび、私は無意識に戸の鍵を確かめに戻るのだった。
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