第9話 薄い拍手と、置き去りの沈黙

試合は、勝つか負けるかよりも、三年生の時間がどの速さで終わるかを測るように進んだ。
芝の上では莉央が誰より先に動き、真柴はその動きに遅れまいとして汗をかいた。私は声を荒らげず、全体の温度を保つように指示を出す。だが、三人の間に残る沈黙だけは、最後までどこにも流れていかなかった。私が何を言おうと、莉央がどう走ろうと、この試合が「終わり」を告げるという事実だけが、冷たい風のようにグラウンドを支配している。
前半が終わるころ、莉央は一瞬だけ足を止めた。 息が浅くなるのを隠すみたいに、彼女は水筒を強く握り直す。真柴が声をかける前に、彼女は視線を遠くへ逃がした。何かを拒んでいるというより、もうこれ以上、名指しで期待される空気に触れたくないという身体の反応に見えた。私は彼女の横顔を遠くから見つめた。彼女が背負おうとしているのは、試合のスコアではない。私という先輩が残した、重たすぎる「主将」という名の影だ。
後半、相手のロングボールを処理した際に、莉央は接触で芝に倒れた。 その拍子に三つ編みの結び目が揺れ、髪留めが外れて近くのライン際へ落ちる。私は拾おうと一歩踏み出した。けれど、莉央は倒れたまま、その手を一瞬だけ見て、すぐに視線を切った。拾われる前に、拾われる意味まで引き受けたくなかったのだ。私が拾えば、それは彼女に「お前はまだ未熟だ」と突きつけるのと同じことになると、彼女は直感していたのだ。私は動けず、ただ彼女が自分の力で立ち上がるのを待つしかなかった。泥にまみれた彼女の膝は、昨日までの少女のものとは違い、どこか遠くへ歩き出そうとする決意の色を帯びていた。
試合後、整列は短かった。 拍手は薄く、風だけが強い。三年生たちは汗で重くなったユニフォームのまま頭を下げる。私は勝敗の数字を見ていなかった。視線の先にあったのは、渡せたかどうか、それだけだった。莉央は私の視線から逃げるように整列の列を抜けていく。拍手の音がやみ、グラウンドが急速に冷えていくのを感じた。
整列を終えると、私はひとりで旧体育館へ戻った。 床は朝より冷たく、歩くたびに軋みが返る。部室の壁に貼られた歴代主将の写真を見上げると、みな一様に少し疲れた顔をしていた。そこで初めて、主将とは勝ち続けた人間の列ではなく、渡し続けた人間の列なのだと、身体のほうが先に理解した。彼らもまた、今の私と同じように、誰かに何かを託し、その重みに足を引きずりながら、この体育館を後にしたのだろう。
そのとき、鞄の中に入れていたはずのキャプテンマークがないことに気づく。 更衣室にもない。ベンチにもない。最後に触れたのは、今朝のあの冷たい朝だった。私は廊下を引き返し、用具倉庫の隅で、床に無造作に置かれた青い布を見つける。拾い上げた瞬間、指先に伝わった冷たさが思ったより軽い。その軽さが、むしろ痛かった。布地には泥が少しだけ付着しており、それが彼女の必死な戦いを物語っていた。
莉央が拾って、そこに置いたのだとすぐに分かった。 受け取れないまま持ち帰るより、受け取れなかった事実を、自分の側に残したかったのだろう。それは拒絶ではない。だが、曖昧にしたくなかったのも確かだった。私はその青い布を握りしめ、倉庫の奥でひとり、誰にも聞かれないように息を吐いた。
「これで、終わりだ」
私は誰に言うでもなく呟いた。外から真柴の声がする。「瀬川さん、片付けが終わりましたよ」。その声は、昨日までの彼らとは違い、どこか晴れやかで、新しい季節の訪れを予感させていた。私は立ち上がり、青い布を鞄の奥深くに仕舞い込んだ。莉央が置いた場所から拾い上げたとき、私の心の中の「主将」という仮面は、ついに剥がれ落ちた。私はもう、重荷を背負わなくていい。彼女たちは彼女たちの速度で、新しい物語を編み始めるだろう。私は倉庫を後にし、夕暮れに染まり始めたグラウンドを見つめた。あそこには、まだ莉央と真柴がいる。彼らが次に何を語り、何を渡すのかを、私はもう見届けなくていい。その事実が、たまらなく寂しく、同時に言いようのない解放感となって私の全身を駆け巡った。私は校門へと歩き出し、振り返ることはしなかった。青い布の感触は、まだ指先に微かに残っていたが、それはもう「重荷」ではなかった。ただ、ひとつの時代が終わったという、静かな誇りだった。
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