8話 副主将の手つき

悠斗と莉央のやり取りを、少し離れたところから真柴健人が見ていた。 彼は自分の役目を見失わないようにするみたいに、用具の置き場をひとつずつ整えている。テープの切れ端、ボールの並び、記念メンバー表の控え。何を触っても落ち着かないのは、物の順番ではなく、二人の距離のほうが気になっていたからだ。

真柴は、声をかけようとしてやめた。 悠斗の横顔に、昨夜から続いている硬さがまだ残っているのを見てしまったからだ。彼は空気を読むのが早い。だが早いぶん、核心に触れるのは遅い。いま踏み込めば、この朝の薄い均衡を壊してしまう気がした。

代わりに、真柴は記念メンバー表を並べ直した。 そこに印字された名前は、たったそれだけの黒い文字なのに、三年生の時間をきれいに切り分けて見せる。残る者、去る者、渡す者。並べるたびに、誰かが軽くなり、誰かが重くなる。

莉央の名前のところで、真柴の指先が止まる。 次期主将候補、と周囲が勝手に見ているその位置が、紙の上ではただの一行にすぎないのが、かえって痛かった。彼はその紙を少しだけ折り直して、端を揃える。揃えたところで何かが解決するわけではない。それでも、手を動かさずにはいられなかった。

「なあ、健人。お前はどう思う」

ふいに悠斗が背後から声をかけた。真柴は肩を跳ねさせ、持っていたメンバー表を落としそうになる。あいつは私が莉央と話す様子を、ずっと眺めていたのだ。心を見透かされたようで、真柴はいつものように笑ってごまかそうとし、しかし、それができないほど今日の悠斗の目は真剣だった。

「どう思うって、何をですか」

「莉央のことだよ。そして、お前のことだ。俺がいなくなれば、お前は副主将として、莉央を支えなきゃならない。それは片付けの手伝いより、ずっと重い作業になるはずだ」

真柴は言葉に詰まった。彼は自分の立ち位置を、常に「補佐」という安全圏に置いてきた。責任を負うのは主将で、自分はその影で実務をこなす。それが真柴の矜持であり、同時に彼が隠れ蓑にしていた場所だった。

「支えるって、何をですか。莉央さんが主将になったら、俺はまたビブスを畳んで、ボールを並べて、それだけじゃ足りないんですか。悠斗さんが今までやってきたこと、全部俺が引き継ぐのが、副主将の仕事だと思ってました」

真柴の声には、隠しきれない焦燥が混じっていた。彼は本当に、ただ便利な副主将になりたかったのだろうか。それとも、そうなることで自分の未熟さを誤魔化していたのだろうか。悠斗はその問いを、あえて真柴に突きつけている。

「違う。お前が引き継ぐのは、俺の仕事じゃなくて、俺とお前が一緒に見てきたこの部活の空気だ。莉央には莉央のやり方がある。お前はそれを邪魔せず、かといって放り出さず、その隣に立ち続けるだけでいい。それが、次の主将を支えるっていうことだ」

真柴は、胸が締め付けられるような感覚に襲われた。悠斗の言葉は、まるで彼の鎧を剥ぎ取るような透明さを持っていた。あいつは、ずっと分かっていたのだ。自分が臆病で、責任を名前だけで終わらせようとしていたことを。

「怖いですよ、そんなの。俺が支えて、莉央さんが潰れたら、俺はどうすればいいんですか。悠斗さんがいなくなった後の桐野高校で、俺たちだけで何かを守りきれる自信なんて、一ミリもない」

「自信なんてなくていい。俺だってなかった。だがな、健人。お前が莉央の隣に立ち続けている限り、あいつは崩れない。崩れても、隣にお前がいれば、また立てる。……渡しそびれたキャプテンマークの重さは、莉央が引き受けた。だが、その布を支えるのは、お前なんだ」

その様子を見ていた悠斗が、短く言う。

「助かる」

真柴は返事をしようとして、少し遅れた。 遅れたぶんだけ、その一言は薄くならなかった。彼は曖昧に笑って、ビブスの山を持ち直す。いつもの軽さを装うより、黙って両手を使うほうが、今日はずっと誠実だと思えた。

「……助かる、なんて言わないでくださいよ。俺、まだ何もできてないのに」

「できているさ。俺の背中を、昨日まで一番近くで見ていたのはお前だからな。もう俺はいない。だから、あとは頼んだぞ」

悠斗はそれだけ言うと、グラウンドの方へ歩き出した。真柴はその背中を見送る。彼は、かつて先輩たちの背中をただ追いかけていた自分が、今や誰かの背中を支える役割を負わされているという事実に、ようやく直面していた。

手の中にある記念メンバー表を握りしめる。そこにあるのは、単なる名前の羅列ではない。これから始まる、桐野高校サッカー部の新しい物語の預言書だ。真柴は深呼吸をし、朝の冷たい空気を吸い込んだ。肺が凍るような冷たさを感じたが、それは彼がようやく、自分の足で立ち上がったという証拠でもあった。

「俺は、副主将だ。悠斗さんの代が残したものを、絶対にここで終わらせたりしない」

真柴は独り言のように呟き、ビブスの山をもう一度整えた。角は揃い、乱れはない。彼は副主将として、自分にできるやり方で、この最後の朝を完璧に締めくくる準備を始めた。その手つきは、昨日までの迷いを捨て、確かな決意に満ちていた。

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