第10話 終わりのあとの、始まりの朝

引退試合の翌朝、校庭には昨夜の試合の名残がまだ微かに漂っていた。冷え切った空気に、昨日よりも少しだけ湿り気を帯びた土の匂いが混じっている。私は誰より早くグラウンドに立ち、散らばったコーンを一つずつ拾い集めていた。
鞄の底にあるキャプテンマークは、昨夜、倉庫の隅から拾い上げたときよりも、心なしか重みを増していた。今度は決して落とさないように、私はそれを畳むこともポケットにしまうこともせず、あえて手の内に収めていた。そこへ、ジャージの裾を揺らして莉央が現れた。彼女の三つ編みは昨日よりもきつく結ばれている。弱さが表へ出る前に、形だけでも整えようとする彼女なりの儀式なのだろう。
私は言葉を選ばなかった。いや、選ぶ必要がないと知っていた。昨夜、旧体育館の軋みの中で繰り返した独白よりも、ただそこに立ち、布を差し出す動作の方が、ずっと正直な継承だと気づいていたからだ。
「昨日、俺が渡しそびれた。これは、もう一度ちゃんと渡す」
私の声は掠れていたが、不思議と震えはなかった。莉央は一瞬、足を止める。手を出そうとしない彼女の肩は、昨日と同じように硬く、呼吸も浅い。私は追い詰めない。待つのではなく、彼女が逃げ道を感じなくて済む距離で、ただ手を伸ばし続けた。
莉央の指先が、ゆっくりと震えながら私の掌に近づいてくる。青い布が彼女の手首をかすめる瞬間、布の硬さと彼女の皮膚の温度が混じり合うのが分かった。彼女は布を受け取った。すぐさまポケットにしまわず、その両手で優しく包み込むようにして握りしめた。その所作こそが、彼女なりの、静かな覚悟の表れだった。
「……背負いすぎないでくれ」
私は絞り出すように言った。それは後輩への言葉であると同時に、ずっと「主将」という役割に自分を縛り付けていた、自分自身への戒めでもあった。
「強くなろうとしなくていい。ただ、その布の重みを、時々思い出してくれればそれでいいんだ」
莉央は俯いたまま小さく頷いた。彼女の三つ編みの結び目が、朝の光に少しだけ反射した。
真柴は、少し離れた場所でそのやり取りを静かに見ていた。自分が前に出るべき番が来ていることを、彼はようやく受け入れたらしい。真柴は私の足元まで歩み寄り、記念メンバー表の控えと、部室の鍵、そして練習ノートを順に手渡した。渡す動作に迷いはない。彼にとっての継承は、重圧を背負うことではなく、主将が残した物語の続きを丁寧に管理することなのだ。
私はそれらを受け取った。その瞬間、肩から重い何かが抜け落ちる感覚があった。それは単なる喪失ではない。丸投げではない、確かな連結だ。これまでのすべてが、自分の手から彼らの手へと、静かに、しかし確実に流れていく。
その時、校門の方から高槻先生が歩いてくるのが見えた。先生は何も言わず、布を握る莉央と、その横に並んだ真柴の立ち位置を、ただ深い眼差しで見つめた。先生は余計な言葉をかけず、慣れた手つきで用具倉庫の扉を開け、昨日まで私たちが行っていたのと同じ手順で、ボールを外へ出し始めた。それは片付けではなく、新しい練習の始まりだった。
母が届けた保温ジャーの湯気が、朝の冷えた空気にふわりと溶けていく。背後からは、大学の資料を抱えた沙耶が通り過ぎざまに、「あんた、いつまでそこに突っ立ってるの」と笑いながら歩いていった。言葉は少ないが、その響きには「次へ行きなさい」という確かな追い風が含まれていた。
そのあと始まるのは、長い別れの儀式ではない。三人が肩を並べ、次のメニューを淡々と話し始める声が聞こえる。莉央はキャプテンマークを腕に巻こうとして、少しだけ向きに迷い、真柴はそれを見て、黙って彼女の袖を直した。
私は自分の肩から抜け落ちた余白を感じながら、深く息を吸い込んだ。それはもう空白ではない。私が主将として立っていたこのグラウンドは、もう私の場所ではない。だが、それでいいのだと心から思えた。高槻先生が遠くで鍵を閉めながら、誰に向けるでもなく「よし」と短く呟いた。
夜明け前の青い空が、少しずつ白んでいく。グラウンドの土はまだ冷たい。だが、その冷たさの中で、私の手の中にあった青い布は、もう一人の人間に受け継がれ、新しい重みを持って輝いていた。私は自販機の前で立ち止まらない。立ち止まる代わりに、校庭の端から端まで引かれた白線を見つめる。次に走る誰かの足跡を思い浮かべながら、私は振り返ることなく、新しい一歩を踏み出した。終わりはそこで初めて、始まりと同じ高さに並んだ。
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