5話 主将なんて向いていない

アップが始まると、グラウンドの空気は少しだけ温度を上げた。濡れた芝が靴裏にまとわりつき、相手の声とボールの弾む音が交じる。私は全体を見ながら、足の速いところ、遅れたところ、呼吸の浅いところを順に拾っていった。

真柴は相変わらず細かかった。ビブスの置き方、コーンの間隔、ボトルの向きまで整えて、誰より早く動いているのに、核心には触れない。彼は副主将として、チームの綻びをすべて縫い合わせようとしている。だが、その丁寧さが逆に、この部活の終わりを否定しているように見えた。

そのときだった。

莉央が一対一で真柴を抜き去り、そのまま少し遠くの空を見たまま、息を落とすように言った。

「主将なんて向いていない」

聞こえるか聞こえないかの、こぼれた声だった。だが、今の私には雷鳴のように響いた。莉央は一度も私の方を見ない。彼女はドリブルのタッチを細かく変え、呼吸を整えながら、独り言のように言葉を重ねる。

「誰もが、瀬川先輩みたいに静かに整えられるわけじゃない。私が前に出れば、周りはそれを『次の主将』として見る。でも、私は誰かの影を追いたいわけじゃないんです。先輩が何を考えて、何を捨ててきたのか。それを知らないまま、この青い布を巻くのは……詐欺みたいで、嫌なんです」

私はその場で足が止まりそうになるのをこらえた。莉央が拒んでいたのは、布そのものではなかった。あれは期待だったのだ、と遅れて分かった。託される前から肩に置かれる重さ。逃げるにも、受けるにも、まだ形を持たない重み。彼女は私の沈黙の正体を、私以上に正確に言い当てていた。

「莉央、お前は……」

私が口を開きかけると、彼女は鋭く視線を切り返してきた。

「先輩もそうでしょ。渡すのが怖いんじゃない。渡してしまったら、自分が何者でもなくなるのが怖い。だから、私をまだ試している。私がどれだけ先輩の期待に応えられるか、どれだけ先輩の型を壊さずにいられるか。……先輩、それって、継承じゃなくて呪いですよ」

その言葉は、まるで鋭利な刃物のように私の防壁を切り裂いた。呪い。私はそんなつもりでいたのか。後輩を信じて託すのではなく、自分の役目を完璧に引き継ぐ「器」を探していただけだったのか。

真柴は返事をしなかった。走るふりをして、少しだけ視線を落とした。あいつは莉央の言葉を聞いてしまった。副主将という板挟みの位置にいるあいつにとって、今の言葉は、主将交代がただの事務作業ではないことを突きつける宣告だったはずだ。

私は彼女の横顔を見た。

昨日、受け取れないときの人の顔を、私は見落としていたのかもしれない。莉央は弱いから引いたんじゃない。重さを知っているから、身構えたのだ。あの三つ編みの結び目を強く締める所作は、主将という役目を背負った瞬間に自分が折れないようにするための、彼女なりの防衛本能だった。

莉央は再びボールを強く蹴り出し、守備の網を切り裂いていく。その背中は、昨夜よりもずっと頼もしく、同時に痛々しかった。

「莉央、俺はお前を……」

私は言葉を探すが、風がそれを奪っていく。彼女は私の言葉を待たずに駆け抜ける。その疾走を見て、私の手の中にあるはずのキャプテンマークの感触が、掌に蘇る。それはただの布切れではない。彼女が恐れ、真柴が傍観し、私が抱え込み続けてきた、形なき重圧そのものだ。

それが分かるほど、私の手の中のキャプテンマークは、ただの布ではなくなっていった。それは私の一部であり、同時に、手放さなければならない私の過去だった。彼女に「継げ」と命じる権利など、私にはない。私はただ、この重みの正体を認め、それを「信頼」という言葉に置き換えて渡すしかないのだ。

私はグラウンドの隅に座り込み、自販機の光が沈みゆく空を眺めた。昨日まで、私は主将を終えることが、自分の終わりのような気がしていた。だが違う。主将を終えることは、莉央や真柴の中にあった「次への不安」を認めてやることに他ならない。

私は立ち上がり、真柴の方を向いた。

「真柴、少し休憩だ」

真柴は驚いたように顔を上げ、次に莉央の方を見た。彼女は少し息を乱しながら、こちらを伺っている。私は深く息を吸い込み、この夜の校庭に漂う、冷たい秋の空気を肺に満たした。まだ足りない。託すための言葉は、まだここにはない。だが、少なくとも私は、自分が莉央にかけていた「呪い」の正体に気づくことができた。

莉央の背中が、グラウンドの向こう側で小さく揺れている。彼女はまだ走っている。その姿を見ながら、私は心の中で、渡しそびれた言葉を何度も反芻した。明日、この部活の灯りが消えるとき、私は彼女に何を渡すべきなのか。勝利か、友情か、それともこの凍りつくような責任感か。

いいや、そのどれでもない。私が渡すべきなのは、私という人間がここで迷い、悩み、最後にこうして立ち尽くしたという「事実」そのものだ。主将とは、完璧な継承者ではない。ただ、その場所に立ち続けた一人の人間であるということを、彼女たちに見せなければならない。

私は鞄を背負い直す。青い布の重みが、ようやく私の身体の一部として馴染み始めていた。明日の試合。その最後の笛が鳴ったとき、私の主将としての時間は終わる。だが、それは新しい始まりの合図でもある。私は莉央の背中に向かって、短く、しかしはっきりと呼びかけた。

「莉央! 休憩が終わったら、もう一本だけメニューを変えるぞ。俺の代の最後の一本だ。付き合え!」

莉央が立ち止まり、驚いたように私を見た。その目には、昨日までのような拒絶はなく、ただ純粋な戸惑いと、ほんの少しの火花が宿っていた。私は笑った。もう、逃げるのはやめだ。この重みを、正々堂々と彼女の手に渡す。その決意だけを胸に、私はグラウンドの中心へと足を踏み出した。

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