第8話 下へ続く静けさ

病棟の内部は、上の資料室とは違う静けさを持っていた。黴臭い。だがそれだけではない。長く息を止めた部屋に入ったときの、肺の奥へ冷たい布を押し当てられるような圧迫があった。床板は乾いているようでいて、靴底の下で微かにたわみ、壁の塩の染みは古い汗のように白く浮いていた。私は懐中電灯の光を壁に這わせた。光は湿った闇を切り裂くというより、その濃密な重さに飲み込まれ、ぼんやりと霧を浮き上がらせるだけだった。
澄江は、昔の動線を身体でなぞるように歩いた。右へ曲がる前に立ち止まり、数歩進んでから手すりの位置を確かめる。その動きに迷いは少なかったが、指先だけが忙しかった。彼女は何かを思い出すたびに、無意識のうちにエプロンの裾を指で摘み、硬い結び目を作る。そして、それをほどくことなく次へ進んだ。見捨てるより、黙る方が苦しい人間の動きだった。私はその背中を見つめながら、澄江が何十年もかけて自分の中に隠してきた「あの夜」の重みを、今の自分の呼吸の中に感じ取っていた。
「……ここから先は、記録に残っていない場所だよ」
澄江がぽつりと呟く。その声はあまりに小さく、しかしこの空間の静寂を震わせるには十分だった。私は思わず、手にしていた鍵束を握りしめる。金属の冷たさが、今の自分の現実に唯一触れている証拠のように感じられた。
玲奈は、扉や棚の前でいちいち紙片を拾い上げた。手順を飛ばさない。けれど、錆びた扉の前ではそれが通用しないと分かると、彼女は短く息を吐き、肩を入れて押した。金属が悲鳴のような音を立て、霧を吸った山の静けさに、ひびの入った一音だけが残った。颯真はその音で、なぜか幼いころの耳鳴りを思い出しそうになった。思い出せないはずの記憶が、音の形だけで背骨に触れる。
「颯真くん、焦らないで。この扉の錆は、何十年も人の感情を吸い込んできたものよ。物理的な摩擦だけじゃなくて、そこにこびりついた歴史そのものが、あなたを拒絶しているの」
玲奈はそう言って、私に視線を向けた。彼女の眼鏡の奥にある瞳は、冷徹なまでに冷静だったが、その手は私を支えるようにそっと背中に添えられていた。彼女もまた、この記録の海に足を取られ始めているのだ。

里菜は懐中電灯の光を前へ前へと進めながら、何度も振り返った。彼女の質問は、黙っている空間を刺すように鋭かった。「ここに隠したのは何ですか」「焼いたのは誰ですか」「誰が許したんですか」。黒田は答えない。答えないまま、彼女の声が終わるのを待つ。待つことで押し返すやり方を知っている男だった。彼は廊下の壁に背を預け、里菜の激しい問いかけが自らの沈黙の盾に砕け散るのを、ただ冷ややかな目で見守っていた。
「黒田さん、あなたの沈黙は守りじゃない。誰かの人生を消し去るための加担だ。その罪悪感を、この廃墟の闇に押し付けて、自分だけが正しいと信じ込んでいるだけでしょう」
里菜の怒りは乾いていた。彼女は兄を失った喪失感を、こうして誰かを責めることでしか維持できないのかもしれない。私は、その二人を見比べながら、自分がこの対立の先にある「自分の名」を直視する強さを持っているのか、自問自答していた。
地下へ降りる階段の入口は、棚の奥に隠れていた。鉄の扉の内側には、湿気を吸って波打った注意書きが貼られていたが、字は半分剥げて読めなかった。颯真は剥がれかけた端を指でなぞり、そこにかつて誰かが何度も触れた痕跡を見た。紙は古くなるほど、誰の手に触れたかを隠せなくなる。私には、そのかすれた文字が「帰るな」「忘れるな」「許すな」と、私という個体にだけ囁いているように思えた。
階段は急で、足を置くたびに水音のない水気が靴の底へ返ってきた。電灯の光が壁に細く走り、下へ下へと落ちていく。地下書庫は、まだ見えない。それでも、扉の向こうにあるのは単なる部屋ではなく、誰かが長く閉じ込めてきた時間だと分かった。
私は一歩、また一歩と階段を下りる。踏みしめるたびに、自分の足音が、かつてこの場所を歩いた誰かの足音と重なっていくような錯覚を覚えた。自分の名前を借りて生きているのだと、今の自分が、実は他人の影にすぎないのだと。その予感が、階段の底から立ち昇る冷気となって、私の肺を満たしていく。霧の中の静けさは、これから始まる「私の自己発見」という名の地獄への入り口だった。</blockquote>
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