第9話 湿った紙箱

地下書庫の扉を開いた瞬間、私は自分の呼吸が止まるのを感じた。
そこは、私の過去が収められた墓所だった。天井は低く、錆びついた棚が列をなして奥へ続いている。空気は淀み、湿気を吸って膨らんだ紙の箱が、積み上げられたまま今にも崩れそうなほどに寄り添っていた。匂いは、上階の黴臭さとはまるで別物だ。一度水を吸い切り、二度と乾くことのない諦念が、黴と錆と混ざり合って鼻孔を刺す。それは、誰かが長い時間をかけて熟成させた後悔の匂いだった。
「ここが、消された人たちの場所……」
相沢里菜が、乾いた笑いを漏らした。彼女の手が棚の箱を一つひとつ滑っていく。兄の行方という事実を求めて、彼女はもう躊躇という仮面をかなぐり捨てている。玲奈は玲奈で、資料の照合に没頭していた。二つの記録の矛盾、正規の帳簿と裏帳簿、その食い違いを確認するたび、彼女の眉間には深い皺が刻まれる。彼女にとっての仕事は、もはや保全ではなく、過去の死体に検視を行う作業に等しかった。
私は、手近な紙箱のラベルを指でなぞった。手書きのインク、薄れた鉛筆の筆致、修正液の染み。筆圧の違いだけで、誰が急いでいたのか、誰がためらったのかが見えてくる。私はその一つひとつの癖を読み解くたび、喉の奥がカラカラに渇くのを感じた。目の前にあるのは、ただの紙ではない。人の一生を左右した決断の痕跡、取り返しのつかない後悔の綴じ目だ。
里菜が、一枚の複写資料を棚から引き抜いた。兄の名が書かれた控えと、療養所の閉鎖直前に作成された搬出記録を並べ、その手が止まる。空欄があった。いや、空欄ではない。無理やり剥がされ、削り取られた痕だ。彼女はその箇所を親指で強く押さえつけ、喉の奥で音を立てて笑った。怒りを含んだ、ひどく乾いた音だった。
「見て、白石さん。ここ、消してますね。兄の名前を消して、代わりに別の何かを縫い付ける。この手口……あなたと同じだ」

黒田恒一は、その言葉に顔を向けなかった。棚の列の奥、影が一番濃い場所へ視線を落としたまま、ひと息置いてから、ただ「消えたわけではない」と吐き捨てた。断定でも弁明でもない。その、いかにも共同体の責任者らしい中途半端な言い方が、かえって彼が背負ってきた責任の重さを浮き彫りにする。里菜はすぐに食い下がらない。食い下がらずに、黙る。その沈黙は、彼女なりの鋭利な刃物として、黒田の背中を突き刺していた。
澄江は、箱の列の端で古い包帯ケースを見つけた。蓋を開けると、布の端に、かつての患者の名札を縫い付けた留め具がいくつか出てきた。彼女の指先が、小刻みに震える。震えは手首からではなく、記憶の底の、あの夜から来ている。彼女は留め具をそっと布で包み、それを何かを返すように胸元へ押し当てた。
「この病棟で、何もかも急いだ夜があったんだよ。外から、記録を焼くためにトラックが来てね。私たちは、誰が誰だか分からなくなるくらいの霧の中で、子どもたちの名札を付け替えた。あの子を生き残らせるために、別の子の名前を消したんだ」
澄江が言ったのは、それだけだった。けれど私には、その短い一文が、長い説明よりも多くを含んでいると分かった。急いだ夜。閉鎖の夜。誰かを運び、誰かを隠し、誰かの名を別の紙へ移すために、呼吸を詰めた夜だ。そこに私の名があった。私が今、背負っているこの「白石颯真」という名前が、誰かの命と引き換えに縫い付けられたものだとしたら、私は何を慈しみ、何を悲しめばいいのだろう。
玲奈は資料を二枚並べ、紙端を揃え、湿り具合を見比べた。彼女は何も言わなかったが、二つの記録が正規の帳簿ではないと確認するたび、眉間に深い皺が寄った。事実が増えるほど、仕事が重くなる。彼女は、記録を整理するたびに、死者の重みを肩に載せているような顔をしていた。
私は、そのとき初めて理解した。自分の名前が、記録の異物ではなく、この闇の中心に据えられているのだと。箱の中で、同じ名が何度も反復されていた。誰かの始まりにも、終わりにも、常に自分の名が貼りついている。逃げられない。この場所にあるすべての記録は、私という存在を証明するための伏線であり、同時に私を呪縛するための鎖だった。
私は湿った紙箱に手を突っ込み、もう一枚の記録を引き抜いた。そこには、私の名前の由来が、村の裏帳簿という形で隠されていた。私は、名前を奪われた被害者ではない。守られた生の継承者だ。そう理解したとき、胸の奥でずっと鳴り響いていた「名前を呼ぶ声」が、ぴたりと止んだ。私は、過去を知ってしまった。この真相を知った上で、私は今の自分として名乗り直さなければならない。記録を手放さず、隠蔽の歴史を抱えながら、私は自分の現在を選び取るのだ。湿った紙の匂いが、不思議と心地よいものに変わっていくのを感じた。</blockquote>
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