7話 白い病棟への道

白い病棟の鍵束を受け取った朝、白石颯真はそれを掌の上で何度も転がした。金属の重みは冷たく、錆の匂いまで指先に移る気がした。史料保全室の窓の外では、夏の霧がまだ山の稜線に張りついていて、晴れているはずなのに景色の輪郭だけが曖昧だった。私の指先が微かな紙の摩耗を拾い、神経がピリピリと逆立つ。名札の端を触る癖は、今朝に限っては自分という輪郭を保つための命綱のように感じられた。

佐伯玲奈は、出発前の机をいつもの順で整えた。目録カード、赤い修正ペン、薄い手袋、懐中電灯。彼女が並べる道具は、どれもが「事実」を保存するための武器だ。彼女は私の前に地図を広げ、白樺療養所の旧病棟へ続く道筋を指でなぞった。途中で一度だけ指が止まり、彼女はその止め方を誤魔化すように眼鏡の縁を押し上げた。

「手順は守る。けれど、扉が壊れていたら別だ。私たちは記録を回収しに行くのよ。颯真くん、あなたが何を探しているのか、今のうちに整理しておいて」

彼女の言葉は、業務上の指示の仮面を被っているが、その下には私がこれから何をしようとしているかへの深い理解があった。彼女は、私の個人的な執着が史料保全という正当な領域を侵食しつつあることを知っている。それなのに、私を止めるのではなく、共に歩くことを選んだ。彼女の沈黙は、私に対する最大限の協力だった。

「先輩、記録は紙に書かれているけれど、その背後にあるのは人の生存と消滅です。私は……私の名がなぜあそこに記されているのか、どうしても知りたいんです。もし、私が今の自分であるための証明が、あの療養所の地下にあるのだとしたら、私はそれを見捨てて司書を続けることはできない」

「……その覚悟があるなら、私は否定しないわ。ただし、真実が今のあなたを殺すかもしれない。それでも、あなたは進むの?」

玲奈の問いに対し、私は迷いなく頷いた。彼女の冷徹な言葉が、書架の隙間を吹き抜ける風のように冷たく響く。彼女は恐れているのだ。この調査が、私という人間の現在を根底から崩壊させるかもしれないという事実に。私は返事をしなかった。否、できなかった。ただ、黒表紙の封筒が机の上に残した、わずかな湿った跡だけが、私の人生が確実にどこかへ脱線し始めたことを証明していた。

相沢里菜は玄関先で煙草を折り、吸わないまま折れた先端を指で弾いた。彼女の目は私よりも先に霧を見ていた。山道の先に何があるか知っている者の目だった。彼女は私に、封筒の写しをもう一度見せろとは言わなかった。ただ、歩き出す前に、古い絵葉書の裏面を一瞥し、私を冷ややかに見据えた。

「ねえ、白石さん。記録の改ざんっていうのはね、ただの事務処理じゃないのよ。誰かの人生を消し去って、別の誰かに付け替える殺人と同じよ。ここまで来て引き返すなら、最初から来ない方がましだ。あなたのその名札、偽物じゃないって証明できる? 兄の行方を知っている私から見れば、あなたのその『自分探し』も、村の都合のいい筋書きの一部に見えて仕方ないの」

「偽物かどうかなんて、まだ分からない。でも、私は誰かの影を縫い付けられたまま、一生を終えるつもりはない。兄さんの真相を追うあなたと同じだ。私たちは、ただの司書や被害者じゃない。真実という記録の、当事者になりに来たんだ」

「……そう。なら、地獄まで付き合ってもらうわよ」

里菜の言葉には、乾いた刃物のような響きがあった。私と彼女の間にあるのは、共有された喪失感だけだ。

荒木澄江は、手拭いを首に巻いたまま最後にやって来た。小さな裁縫箱を布で包み、片手で抱える姿が、荷物というより傷を抱えているように見えた。彼女は病棟の方角を見たまま、しばらく口を開かなかった。やがて、「階段は湿ってる。足を急がせないで」とだけ言った。その声には、過去への畏怖と、これから足を踏み入れる場所への深い罪悪感が混じっている。

黒田恒一は、誰より遅れて尾根道を下りてきた。背中を丸めず、しかし一歩ごとに周囲を測るような歩き方だった。彼が来るだけで、場の空気がひとつ硬くなるのが分かった。颯真はその顔を見て、白い病棟の扉の向こうがもう過去ではないことを悟った。彼は、村の沈黙を背負い続けてきた男だ。その沈黙が、今まさに崩れようとしている。

「白石くん、一度開けた扉は、二度と閉まらない。お前さんが見たい真実は、お前さんの名前を消す代償としてそこにある。……覚悟はいいか」

「……ええ。私の名前は、村の都合で書かれたものだとしても、私が今感じているこの痛みだけは、何人にも奪わせない」

私たちは歩き出した。旧病棟の鍵穴は、長く閉ざされていたために、触れた指先に粉のような錆を返した。玲奈が扉を押し、澄江が蝶番の位置を確かめ、里菜が懐中電灯を低く構えた。その中で颯真だけが、鍵を回す音を聞いていた。その金属的な響きは、かつて私が幼い頃に耳にした、霧の中で自分を呼ぶ声の響きに、奇妙なほど酷似していた。扉が開いたその瞬間、古い空気がなだれ込み、私の名前が、かつての療養所の闇の中に吸い込まれていった。

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白い病棟への道 - 霧の名札 - 誰でも作家life