第6話 澄江の糸

荒木澄江の家は、村の端の低い場所にあった。古い家並みが途切れる境界のような、少しだけ湿った空気が溜まる場所だ。障子の向こうで風鈴が鳴るたび、私はなぜか背筋を伸ばした。それは礼儀というより、ここが何らかの結界の内側であるという本能的な予感に近かった。
澄江は、来客用の茶を出す前に、まず包帯の端を揃える癖をやめなかった。古い裁縫箱を膝に置き、指先だけで何度も紐を結び直す。その手つきは、看護助手だった当時の名残というより、何かを忘れないために、あるいは忘れないために縛り付けておくための呪術的な所作に見えた。
私は用意してきた書類の束を、彼女の前の机に置いた。 「白樺療養所の資料です。これに、私の名前と同じ患者が記されている。あなたなら、誰のことか知っているはずだ」
澄江はそれを見ただけで、呼吸を止めた。名札に触れる癖、紙面の端を確かめる視線、何かを聞いてもすぐには答えず、少し遅れてから言葉を選ぶところ。彼女は顔を上げなかった。けれど、彼女が持つひびの入った湯のみが、静かな畳の上で小さく、しかし確実に震えていた。
しばらくして、沈黙の壁を突き破るように出たのは、説明ではなく断片だった。
「……名を変えることがあった」 「守るための、嘘だった」 「二度と同じにしてはいけなかった」
それ以上は言わない。言えないのではなく、言うと何かが現実に戻ってきてしまうのだと、私にも分かった。澄江は湯のみを置き、洗い物でもするように目を伏せた。その沈黙は、私が保全室で読んできたどの文書よりも重く、湿っていた。

「教えてください、澄江さん。私は一体、誰の代わりなんですか。この名前は、最初から私に与えられるべきものだったのか、それとも、どこかで奪い取られたものだったのか」
私の問いに、彼女はゆっくりと顔を上げた。その目は、八十代の老女のものにしては、あまりにも深く、そして底知れない後悔に満ちていた。
「颯真さん、あなたはね、名前を奪われたんじゃない。名前を背負わされたの。あの夜、療養所の廊下は霧で真っ白でね。私たちは、誰が誰だか分からなくなるような場所で、必死に子どもを隠していたんだよ。外から来た人たちが、記録を焼き払いに来る前にね。そのとき、あなたの名札が、別の子どもの胸元に移された。それが、その子が生き残るための、唯一の切符だったんだよ」
彼女の記憶の中で、白樺療養所の閉鎖前後は、黴臭い病棟と湿った布の擦れる音ばかりが残っていた。だが一つだけ、手が覚えている場面があった。まだ幼い子どもを、名札を付け替えるようにして別の場所へ移した夜。顔は曖昧でも、呼吸の速さと手の冷たさだけは、今も澄江の指に残っていた。
「私はその手を離した。それが、私の罪よ。あなたにその名を呼び続けることは、あの夜に私が見捨てた子どもの名前を、毎日、毎日、繰り返すことと同じなんだ……分かってくれるかい、颯真さん。この村の霧はね、死者の名を聞き分けて、また山へ引き戻そうとするんだよ」
私は言葉を失った。私の名に纏わりついていた霧の正体。それは、死者からの呼びかけではなく、自分を捨てたことへの罪悪感が、村の湿気と混ざり合って出来上がった幻影だったのだ。私の名前は、誰かの命を繋ぎ止めるための、ただの記号として機能していた。それを知ったとき、私は自分が今の自分であることを、どう受け入れればいいのか分からなかった。
澄江はまた、指先で紐を結び始めた。その結び目は、彼女が何十年もかけてほどけなかった、あの夜の秘密そのものだった。
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