3話 戻れない封印

村へ戻る道は、行きより短く感じた。というより、山そのものに押し返されたようだった。霧が濃くなったのではない。むしろ、自分の中の何かが濃くなって、道を狭くした気がした。肺の奥にこびりつくような湿気が、呼吸をするたびに肺胞を重くさせていく。

玲奈は夜遅くまで保全室に残っていた。颯真が戻ると、彼女は机に積まれた複写紙の上に手を置いたまま、疲れを隠すように眼鏡の縁を押し上げた。彼女は先に聞かず、まず颯真の手と袖口を見た。廃墟の埃がついているか、怪我はないか、紙に触れた指先が荒れていないかを確かめるように。その沈黙は、彼女なりの優しさであり、同時に警告でもあった。

颯真は黒田の言葉をそのまま伝えた。名前は二度使われた。その短いフレーズが、保全室の静寂の中で不吉な反響を呼んだ。玲奈は、すぐに反応しなかった。代わりに、黒表紙の封筒を再度並べ直し、封の剥がれ方と紙の色を見比べた。彼女はその場で結論を口にする人ではない。だが、彼女の沈黙が長くなるほど、颯真にはそれが単なる保留ではないとわかった。

「業務はここまでにしましょう」

玲奈の声は低く、平坦だった。そう言いながらも、彼女は封筒を返さなかった。返さないのではなく、返せなかったのだと、颯真は感じた。彼女もまた、この黒表紙の封筒の中に、業務の範疇を超えた「誰かの生」の重みを感じ取ってしまったのだろう。あるいは、記録の改ざんが単なる事務ミスではなく、もっと深い業(カルマ)に基づいていることを、彼女の論理が理解してしまったのだ。

「いいえ、戻れません」

颯真の声は、自分でも驚くほど硬く、乾いたものだった。彼は黒田の視線を思い出した。あの視線は、秘密を守る者の視線であると同時に、秘密を抱えて死ぬことを覚悟した者のそれだった。自分と同じ名前が、山上の廃墟で死に、また別の名として村で生かされた。その空白が、今の自分の人生の底を支えている。この手帳に書かれた言葉が、どれほど意味をなすものなのかは分からない。だが、書き終えても、納得は一つも増えなかった。むしろ空白が増えた。記憶の底で、幼いころに嗅いだ紙の湿りが、今の匂いとつながってしまったからだ。

眠れないまま窓を開けると、山の方角から風が来た。湿った土の匂いの中に、かすかな黴の気配が混じっていた。颯真は、もう見なかったことにはできないと知った。自分の名がどこに書かれていたのか。それが誰の手で、何のために、どこまで消されたのか。確かめずにはいられないものが、胸の内で棘のように育っていた。

「……私の名前は、誰の代わりなんですか」

その呟きは、誰に届くでもなく、夜の闇に吸い込まれた。颯真は手帳の余白に、黒田の言葉をなぞるように何度もペンを走らせた。二度使われた名前。その二度目の使用が、自分の存在の証明だとしたら。もし、最初の「白石颯真」が生き残っていたら、今の自分はどうなっていたのだろう。そんな妄想を抱くたび、背筋を這い上がるような恐怖が全身を震わせた。

外を見れば、深い霧が谷間を飲み込もうとしていた。まるで、過去が再び現実を浸食しに来ているかのように。颯真は手袋をはめ直し、手帳を閉じた。もう戻れない。この霧の中を、自分という史料を解読しながら歩き続けなければならないのだ。たとえ、その果てに、今の自分が崩れ去る結末が待っていたとしても。

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戻れない封印 - 霧の名札 - 誰でも作家life