第2話 山道の引力

その晩、私はひとりで山に入った。 史料保全室の仕事ではない。けれど、あの書類の束から解き放たれたという感覚もなかった。むしろ、あのカルテに記された「白石颯真」という名前が、まるで道しるべのように、私を山の奥へ引き寄せているようだった。
白樺療養所へ向かう山道は、夏だというのに霧が浅く降りていた。湿った土と、どこか腐敗したような甘い草の匂いが鼻をつく。街灯などあるはずもない。車のエンジン音を麓に置き去りにして歩を進めると、世界から音が消えていく。蝉の声さえもが遠のき、古い紙に押しつけたように薄く、鈍い音となって鼓膜を撫でていた。
やがて視界の端に、崩れかけた外壁が浮かび上がる。かつて療養所だったその建物は、白い漆喰が雨を吸い込み、病人の肌のように灰色にくすんでいた。玄関は開け放たれたまま、中から黴の匂いと、長く閉ざされた木材の腐敗臭が吹き出してくる。
私は懐中電灯を点した。細い光の筋が、暗闇を切り裂く。 廊下には、かつてここにいた人々の気配が澱のように溜まっていた。処置室を覗くと、錆びついたベッドの枠が、まるで折れた肋骨のように床に転がっている。壁際に倒れたままの点滴台は、かつて生命の雫を吊るしていたときの名残を、無言のまま凍りつかせていた。
誰かがここで待ち、誰かがここで息を引き取り、誰かが運び出された。その痕跡だけが、空間に重く沈殿している。
私は、廊下の途中で立ち止まるたびに、自分の呼吸の音が妙に大きく聞こえるのを覚えた。 ここは、音が吸われる場所だ。私の足音でさえ、壁の向こうへ一度飲み込まれ、少し遅れて霧の中から戻ってくるような錯覚を覚える。私は名札に触れた。保全室でいつもしているこの行為が、今は自分の輪郭を確かめるための唯一のすがりになっている。
施錠された病棟の扉に手を伸ばしたとき、金属の冷たさが指先を貫いた。 その瞬間だった。
「……誰だ」
背後で、低い声がした。 心臓が跳ね上がった。振り返ると、そこには黒田恒一が立っていた。痩せた体に、深く沈み込んだ目。村の古老だとすぐにわかった。彼はただ立っていた。懐中電灯を持たず、しかし夜目にもはっきりと分かるほど鋭い視線を、私に向けていた。

私は、名前を名乗った。声が震えないよう、喉の奥を力いっぱい締めた。黒田は、私の名を聞いて、すぐには返さなかった。霧が、彼の背後からゆっくりと建物の中へ流れ込んでいく。その霧の音が、私と彼の間にある長い沈黙を埋めていく。
「その名前は、二度使われた」
彼はそう言った。 それだけだった。説明も、弁明も、拒絶の理由さえも、何ひとつ語らなかった。黒田は扉の向こうの闇を見たまま、追い返すようにも、迎え入れるようにも見える姿勢で立っていた。
私は、続きを訊こうとした。この記録はどういうことなのか、なぜ私と同じ名前がそこにあるのか。喉まで出かかった言葉を、彼の凍りつくような沈黙が遮る。
「……どういう意味ですか。私が調べているのは、この療養所の最後の人……」
「その名前は、二度使われた」
彼は同じ言葉を繰り返した。それは呪文のようでもあり、私への警告のようでもあった。黒田は二度と口を開かなかった。沈黙が、ひとつの鉄壁として私たちの間に横たわる。私は、その壁を越える術を持たなかった。彼がいつの間にか霧の中に消えてしまった後も、私はしばらくの間、その沈黙の重みを抱えたまま、冷たい扉の前に立ち尽くしていた。
私は自分の名が、この土地でどう扱われてきたのかを考えていた。 一度目の名前は誰のものだったのか。二度目にその名を与えられた私は、何者なのか。 問いが、錆びた部屋の隅々からこだまする。帰路の山道は、行きよりもずっと長く感じられた。いや、山そのものが、私を拒絶しながらも、決して離そうとしない引力を持っている気がした。霧は晴れず、私は自分の名前という、誰のものか分からない地図を片手に、暗闇の中を彷徨い続けていた。
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