1話 黒表紙の封筒

市の史料保全室に配属されてまだ日が浅い白石颯真は、朝の始業前から机の角を指でなぞっていた。いつもの癖だった。書類の角が揃っていないと、どうにも呼吸が浅くなる。指先が微かな紙の摩耗を拾い、神経がピリピリと逆立つ。窓の外はよく晴れているのに、保全室の奥だけは紙魚避けの薬品と、長い年月をかけて蓄積された乾いた埃の匂いが薄く漂っていて、颯真は無意識に名札の端を触った。冷たい名札の感触が、自分という存在をこの場所に繋ぎ止めてくれている気がした。

その日、佐伯玲奈が棚の奥から取り出したのは、白樺療養所の未整理資料一式だった。昭和末期に閉鎖されたその場所の記録は、ずっと未分類のまま放置されていたのだ。古い綴じ紐で束ねられた診療録は、持ち上げた拍子にわずかに湿り気を返し、紙の背から黴の匂いが立った。玲奈は封筒の糊の剥がれ方を見て、綴じ直しの有無を一枚ずつ確かめる。彼女の手つきは無駄がなく、まるで資料そのものの呼吸を止めないようにしているみたいだった。

「これ、かなり状態が悪いわね。少しでも無理をさせると崩れるわ。颯真くん、ゆっくりね。手袋は二重にして」

玲奈の指示は的確だった。颯真は白い手袋の上からさらに念入りに手袋を重ね、丁寧に紐を解く。資料は、まるで墓所から掘り起こされた古ぼけた記憶の塊のように重く、どこか冷たかった。

黒表紙の封筒は、その束の中でもひときわ古びていた。留め紐は擦り切れ、端が白く毛羽立っている。颯真が索引をめくり、最終患者の欄を目にしたとき、指先の感覚がひやりと止まった。

白石颯真。

同じ字面が、そこにあった。誰かの手で丁寧に書かれ、丁寧に消されかけていた。上書きした線の下に、もう一度別の筆圧が重なり、読み取ろうとすればするほど輪郭が崩れる。颯真は、紙の上に自分の名が置かれていることより、それが自分のものではないような置かれ方をしていることに息を呑んだ。心臓が跳ね、指先が強張る。これは何かの間違いだ。だが、その筆跡の癖、特に「颯」の字の最後のはね方が、自分の書き癖と酷似していることに気づいてしまった。

玲奈はすぐに気づいた。彼女は黒表紙の封筒を手に取り、颯真に離れるよう短く言った。だがその声には、止めるための冷たさと、触れてはならないものに触れてしまった人間への慎重さが同居していた。

「業務として確認するなら、ここまでで十分です。私に預けて。あなた、少し外の空気を吸ってきた方がいい」

玲奈は資料を淡々と回収しながらも、その瞳の奥には明らかな動揺が隠しきれずに滲んでいた。彼女にとっての「規律」が、今、揺らいでいるのが分かった。

颯真は答えなかった。自分でも、何に反発しているのかまだ言葉にできなかった。ただ、古い紙の湿りが首筋に残る感触だけがやけに鮮明で、幼いころにも同じ匂いを嗅いだ気がしてならなかった。祖母の擦り切れた栞。理由のわからない既視感。思い出そうとするたびに輪郭が少しずつ逃げる、あの空白の年々。あれらが、封筒の中の一枚とつながってしまった。私は、私の名を知っている。けれど、この紙に記されている「白石颯真」は、私と同じ時間軸にいるのだろうか。それとも、遠い霧の向こう側に置き去りにされた、別の私なのだろうか。

「先輩、これは……間違いじゃありませんよね」

颯真が震える声で尋ねると、玲奈は一度だけ沈黙し、それから窓の外の山を見つめた。

「間違いであってほしいと思うわ。でもね、史料の誤植は、しばしば意図的な沈黙を隠しているの。これは、単なる記録じゃない。誰かが、何かをこの名前に託して、そのまま忘れさせようとした痕跡よ」

玲奈はそう言い捨てると、資料を厚手のファイルに閉じた。颯真は自分の指先を見つめた。まだ紙の黴が、指の腹に残っている気がした。その匂いが、過去の扉をこじ開ける合図だったとは、この時の彼は知る由もなかった。

霧の香りが、保全室の密閉された空間にまで流れ込んできているような錯覚に陥る。颯真は、自分が今まで生きてきた「現在」という足場が、紙の裏側からゆっくりと溶け始めているのを感じていた。彼はただ資料を整理していただけだった。それなのに、資料が彼自身の人生を整理し始めてしまったのだ。

「いい? 颯真くん。これは、あなたが掘り起こしてはいけない墓標かもしれない。それでも、あなたは自分の名前が、知らない場所で死にかけていることを受け入れられる?」

玲奈の問いは鋭く、そしてどこか悲しげだった。彼女は恐れているのだ。この調査が、颯真という人間の現在を根底から崩壊させるかもしれないという事実に。颯真は返事をしなかった。否、できなかった。ただ、黒表紙の封筒が机の上に残した、わずかな湿った跡だけが、彼の人生が確実にどこかへ脱線し始めたことを証明していた。

颯真は、白い手袋を外すと、震える手で黒表紙の封筒の写しを自分の手帳に挟んだ。これが、運命を書き換えるための最初の、そして最も重い一歩になるとは、その時の彼には分からなかった。ただ、得体の知れない熱と、背筋を這い上がるような恐怖が、同居していた。名前という鎖が、再び彼を過去という名の廃墟へ引きずり込もうとしている。逃げなければならない。しかし、逃げるためには、まず自分が何者であるかを知らなければ、一生この名前の幽霊として生きなければならないという強烈な予感が、彼を突き動かしていた。

「また明日、来ます」

颯真はそう言って保全室を出た。外の光はあまりに眩しく、彼が今しがた見てきた過去の闇とはあまりにかけ離れていた。だが、その光さえも、今はどこか薄っぺらな幕のように感じられた。彼は知っている。自分の人生の端が、誰かの手で切り取られ、別の記録に縫い合わされているということを。そして、その綻びを見つけてしまった今、針はすでに彼の心に深く刺さっているのだということを。

彼は歩き出した。目的などない。ただ、自分の足跡だけが、どこか見知らぬ誰かの足跡と重なっているのではないかという恐怖に駆られながら、山の気配が濃くなる方角を見つめ続けた。夏だというのに、首筋に冷たい風が吹き抜けた。それが、療養所からの呼び声だとも知らずに。

颯真は立ち止まり、自分の名前を口の中で反芻した。「白石颯真」。音にするたびに、それは自分自身の名前というよりも、どこか遠い他人の名前のように響く。記録の中の白石颯真は、そこで何をしていたのか。なぜ消され、なぜ書き直されたのか。その問いが、彼の心を支配する。彼はもう、ただの司書ではいられない。記録の番人として、彼は自分自身という史料を、解読しなければならないのだ。

霧が、少しずつ山を覆い始めている。それは、隠された秘密がふもとの村にまで降りてこようとしている予兆のようだった。颯真は、名札を握りしめ、自分という個体が、この霧に消されないよう、必死に記憶の糸をたぐり寄せた。だが、たぐればたぐるほど、糸は絡まり、自分自身の輪郭が霧の中に溶けていく。それでも、確かめなければならない。自分の名前を、他人の都合で終わらせるわけにはいかないからだ。

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黒表紙の封筒 - 霧の名札 - 誰でも作家life