第4話 書架の底にある空白

史料保全室の午後は、窓の外で蝉が鳴いているのに、室内だけが湿った紙の重みで沈んでいた。白石颯真は、返却されたばかりの白樺療養所資料を一冊ずつ机に並べ、背表紙の傷み方を指先で確かめていく。角を揃えないと落ち着かない癖が、こういう時はむしろ役に立った。帳票の綴じ目、インクの滲み、同じ欄にだけ二度書きされた数字。どれも小さい。だが小さな綻びは、見慣れた書架の奥で、たしかに息をしていた。
佐伯玲奈は、最初から業務外に踏み込むなと言った。言い方は淡く、だが戻れない線を引く手つきだった。「颯真くん、私たちは記録の守護者であって、歴史の糾弾者じゃない。線引きを間違えれば、史料はただの紙屑に戻るのよ」。その忠告は、今の彼にはあまりに理性的すぎて、かえって冷たく響いた。颯真は頷いたふりをしたが、その夜、誰もいない閲覧台で黒表紙の封筒の写しを広げ、祖母の擦り切れた栞をそっと挟んだ。紙に触れると、幼いころの記憶では説明のつかない既視感が、首筋の内側をなぞっていく。紙の湿り。黴。指に残るわずかな冷え。
「これは間違いじゃないんだ。最初から、何かが意図的に縫い付けられている」
颯真は独りごちた。誰にも聞かせられない声だった。彼は手帳を取り出し、白樺療養所の記録と、市役所に残る出生届、そして村に伝わる古い台帳のコピーを並べる。インクの質が違う。ペン先の圧力が違う。なにより、その名前が記されるべき文脈が、ここだけ異様に歪んでいる。
翌日、村の古い保管庫を訪ねる前に、颯真は親族の家の引き出しを見せてもらった。古い名札の入った小箱、薄汚れた健康保険証、記憶の薄い時期の断片写真。どれも「ある」のに、肝心なところだけが薄い。写真の裏に書かれた日付と、本人が覚えている季節が合わない。そのずれが、ただの思い違いではないと分かった時、颯真は自分の背骨の奥で、細い氷が折れるような感覚を覚えた。
「これは誰の人生だ。私は、誰の死を継承させられているんだ」
彼は引き出しの隅で、名前だけが妙に鮮明に書かれた診療券を見つけた。白石颯真。その字は、今の自分のものより少し幼く、しかし確実に自分と同じ癖で書かれている。だが、彼はその病院へ行った記憶がない。いや、行ったのか? それとも、誰かが彼に「そこへ行ったこと」を植え付けたのか。
玲奈が背後からそっと覗き込んだとき、颯真は思わずその診療券を隠した。「見なくていいものもあるわ」と彼女は言った。けれど、その瞳には、すでに事実を知り始めてしまった同僚に対する哀れみのようなものが宿っていた。

「見なくていいもの、なんてない。記録があるなら、それは必ず意味があって残されているはずだ。それを無視するのは、史料保全室の司書として、一番やってはいけないことじゃないのか」
颯真は玲奈を真っ直ぐに見つめて言った。彼女は少しだけ眉をひそめたが、すぐに視線を逸らした。「そうね。でも、真実が今のあなたを殺すかもしれない。それでも、あなたは進むの?」
「今の自分なんて、最初から誰かの書き換えかもしれないんだ。殺されるなら、せめて自分が誰だったかを知ってからにしたい」
彼は立ち上がった。窓の外で、山あいの村の方角から霧が立ち昇るのが見えた。その霧が、まるで彼の過去を塗りつぶそうとする巨大な壁のように見えた。調べるほど、空白はただの空白ではなく、誰かが意図して残した「避難場所」のように思えてくる。自分が何者なのかを知ることは、同時に、自分が「守られた」側であるという残酷な真実に向き合うことなのかもしれない。
颯真は、名札を強く握りしめた。手袋の指先がかすかに擦れる音がする。静かな午後だった。だが、彼の心の中では、嵐のような音が響いていた。自分の名前を呼ぶ、どこかの誰かの声。それは、救いを求める声なのか、それとも呪詛の響きなのか。彼はもう、逃げることはできない。この紙の匂いと、村の沈黙の中に隠された、自分の生の輪郭を掘り起こすまで。
「いくらでも調べればいいわ。でも、これだけは覚えておいて。記録を暴くことは、誰かの沈黙を破壊することになる。その代償を払うのは、あなたよ」
玲奈の冷徹な言葉が、書架の隙間を吹き抜ける風のように冷たく響いた。颯真は何も答えず、ただ手元の資料を見つめ続けた。インクの滲みひとつひとつが、彼を呼んでいる気がした。自分はここにいる。お前の名前を借りて、ここに立っているんだ、と。その声に応えるために、彼はもう一度、ペンを取った。過去という名の迷宮の入り口が、すぐ目の前で口を開けていた。
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