3話 返却先の見取り図

真琴が受領時刻と配達員の証言を照合しているあいだ、古書灯籠堂の入り口の引き戸が、湿った空気とともに小さく音を立てた。篠宮美緒だった。再開発の担当者として、彼女はいつも完璧に整えられた身なりで現れる。丁寧な口調は相手を安心させるためのものではなく、対話の主導権を握るための道具だ。灯子はカウンター越しに、彼女が小脇に抱えた書類の束を見た。封筒の角が揃えられ、クリップの留め位置に一点の狂いもない。それは仕事に慣れた人間の、冷徹な所作だった。

「霧島さん、明日の閉館に向けて、土地の引き渡しと資料の整理については順調に進んでいますか。再開発の図面を改めて確認したところ、この店舗の地下書庫に関する記録が、以前の契約書と微細な差異を見せているようです」

美緒の言葉は柔らかい。しかし、その声は店の奥に響く冷たい空気を助長していた。灯子はその視線が、どこか一点を執拗に探していることに気づいた。箱の中身を見た瞬間、美緒の視線だけが一度、棚の奥へ逸れたのだ。ほんのわずかなずれだが、灯子はそこを見逃さない。美緒は古い区画図のことを口にし、灯籠堂の記録が再開発資料と食い違っていると示唆した。食い違いは偶然ではない、と暗に言っているのだ。

「確認、という言葉を繰り返すのはお好きのようですね、篠宮さん」

灯子は机の上に広げた見取り図を、あえて美緒の視界にさらすように置いた。切り貼りされた紙の継ぎ目は、店内の柱の位置と完全に一致していた。それは灰崎朔也の筆跡に似た、あまりに緻密で、あまりに冷酷な地図だった。預かり棚の並び、帳場の背後、そして地下書庫へ降りる隠し階段の位置まで、紙の端が作る影で浮かび上がる。見取り図はただの店内案内ではない。どこに空白があるかを示すために作られた、呪いのような案内図だった。

「これは……随分と懐かしい資料を切り貼りしたものですね」

美緒は笑顔のまま、その見取り図に触れようとはしなかった。ただ、彼女の視線が地下書庫への矢印へ吸い寄せられるのを、灯子は見ていた。美緒の動揺は、彼女がこの土地の何を恐れ、何を求めているかを雄弁に語っていた。

「二十年前、この店で何があったのか。あなたは、その記録の空白を埋めるために、再開発という計画の中に『整理』という名目で入り込んだのでしょう」

灯子の問いかけに、美緒は一瞬だけ表情を強張らせ、すぐにいつもの事務的な微笑みへと戻した。彼女の指先が、バッグの留め金を無意識に強く弾く。その音は、まるで地下書庫の引き戸が軋む音に似ていた。

「霧島さん、感情的な憶測は交渉をこじらせるだけです。私はただ、この土地の記憶が散逸することを防ぎたいだけ……。正しい記録は、しかるべき管理者の下にあるべきだと思いませんか?」

真琴が台帳に書きつけた時刻と、配達員の証言の隙間を埋めるように、元校長と骨董屋が遅れて店に入ってくる。二人の足音は重なり、店の沈黙を押し潰すように響く。元校長は灰崎の死の夜、自分がどの席に座っていたかを必死に思い返そうとしているのか、しきりに額の汗を拭っていた。骨董屋のほうは、店内の預かり棚に視線を巡らせ、何かを探すような眼差しをしている。

灰崎が生前、何を探していたのか。皆が少しずつ、しかし肝心なところは避けながら語る。骨董屋が「灰崎は店の奥に『返却されるべき何か』があると言っていた」と漏らした瞬間、店内の空気が凍りついた。灯子はその沈黙の癖に、二十年前の夜の空気を重ねた。あのときも、誰もが何かを知っていたはずなのに、言葉はいつも一歩遅れた。

「返却先、ね」

灯子は独りごちて、手元の見取り図に記された矢印をなぞった。その矢印は、地下書庫の鍵穴を指し示している。二十年前の夜、階段から転落した男の背中を押したのは、重力だけだったのか。それとも、この店の過去を守ろうとした誰かの、静かな執念だったのか。灯子は、美緒の整った指先と、真琴の冷徹な記録、そして常連たちの揺らぐ視線の間で、店の終わりがただの終止符ではなく、恐ろしいほどの始まりを告げていることを確信していた。

「みなさん、私が今日までこの店を守ってきたのは、単に古い本を売るためではありません。死者の名を借りて、何かを隠し通そうとする人間がいるからです。もし、その『返却先』が地獄への道だとしても、私はこの鍵を最後まで回すわ」

灯子の声は低く、しかし確固とした意志を含んでいた。美緒はその言葉を聞いて、初めて一歩後ずさりした。彼女の完璧に揃えられた書類の角が、震える指先の中でわずかに歪む。地下書庫の引き戸へ続く道は、もう隠し通せない。雨影通りの静謐な夜の中で、古書灯籠堂の過去が、紙の匂いと共に次々と剥がれていこうとしていた。

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返却先の見取り図 - 死者の返送先 - 誰でも作家life